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愛を知り、なおも一人でいる時 |
僕は、人といる時に心から安心する 関係性の中の、愛に埋没し そして、それを絶対視する 孤独は、不快なものであると決め付けて 胸の痛みから逃げるように 誰かを求める
だから世界平和を謳い 人々を価値あるものと捉え 宗教を信じ そして、神様を求める
だけど、この世に僕が一人ならば この世界が実は一人ぼっちだと気づいたら そこにあったのは、とても悲しくも穏やかな気持ち
緩やかな時の流れを受け入れ 自分が何もせずに時が流れていくのを受け入れた時に 湧き出る、心
理論も感情も感覚も薄れ 世界の一つである自分 世界が自分である時間 その瞬間の悲しくも穏やかな時間
それはいったい何なのだろう 愛とはなんだ 平安は人と人との間にあり そして人と人との間に、決して無い
生き急ぐことを辞め、諦めた時に出るもの 僕もアジア圏の人間だということか 達観していても、何も始まらない だけど、何も終わらない 時間の軸は進まず、世界は平面の一枚の絵になる
この世界が分からない 愛が分からない 神様が分からない 何より、自分が分からない
だけど、止まれない 止まる気も無い 自分の思想、信念、理想 その全てもがくだらなく また、価値の無いものだということを僕は自分に言う
そのままに生きて 何を得ても、もう満足しないことは分かっている 次の世代に期待することすら傲慢だと言う事も分かっている 救いが欲しい
依存、自立、その2つの間で迷う心 僕は何も傷つけたくない 誰にも傷つけられたくない
生も死も、今はどうでもいい 僕は揺ぎ無くなりたいんだ
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大切なものは、いつだって現実の中に |
伝えたいこと、したいことはクリスチャンへの攻撃じゃない クリスチャンに牙を向くの理由は一つだ 僕がクリスチャンに牙を向いているのと同じくらい クリスチャンはノンクリスチャンに牙を向いている、ということ 僕が、酷く攻撃的に見えたなら その姿勢はいつだって、君の姿勢なんだよ
いや、本当に伝えたいことはこんなことじゃない 伝えたいことは、いつだってブログのタイトルに書いてある 君が生きている それこそが、愛の証明でありこの世の素晴らしさを語るものなんだ
僕は、クリスチャンだ だから、神さまの存在を失くしてしまっては、君の存在を喜べない それが、自分自身でとても悲しい
だけど、この世の全てのものは神さまから来たと聖書には書いてある この前の記事のコメントに神=愛という図式が出てきた もし、それが当てはまるというのなら この世に愛無きものなど、無い なぜなら、全ては愛から来ているのだから
愛から生まれるものが、愛以外であろうか もし、そうならば愛の価値など何処にも無い 愛から悪が生まれることなどないからだ
そもそも、ノンクリスチャンに愛が無いと誰が言えるだろう 真の意味でボランティアに励むもの 家族のために貧困に立ち向かうもの 戦争により多くのものを失い、なお平和を実現しようとするもの 親が子を慈しむ気持ち 友人を大切にする気持ち 恋人を幸せにしたいと望むその心 彼らは神を知らないから、本当の愛は無いと断罪することが誰に出来るのか 僕には、そんなこと出来ない
ノンクリスチャンの中に愛が無いと言うのならば僕の信仰など無に帰す 僕は、人と人との関係性の中に神様を見た 人は、関係性の中に愛を見つける いや、愛に気づく 自分の中に眠っている愛 他人の中に眠っている愛 その二つが交わることにより、初めて人は愛を見る
僕等は、愛に気づく そして、救いに気づく そこにあるものに気づいた時に、人は喜びを感じ平安を感じる それこそが正に福音であると、僕は思う なぜ、その福音が信仰により人を二分するものに変わってしまったのかは僕には分からない そう、まったく分からない
神様は愛だ それにより創られた僕たちも、また愛だ 互いに愛し合いなさい この、名詞である僕たちが生きていくこと それこそが、正に愛するということ 愛を実践することだと、僕は思う
だから、君が生きている そのことこそが、何よりも素晴らしい 何よりも愛の証明 何よりも喜ばしいこと
そのことが、本当に伝えたいこと 山を動かすほどの信仰は、それを伝えるための手段にしか過ぎない イエス・キリストの言葉に帰ろう 互いに愛し合おう
クリスチャンが、ノンクリスチャンに伝道という形で愛そうとしても ノンクリスチャンがクリスチャンに愛を注がなければ ノンクリスチャンがクリスチャンを自分の世界にいれなければ それは、「互いに愛し合っている」とは言えないんじゃないか
互いに愛し合う それは、他人を自分の世界の中に入れること そして、自分を他人の世界の中に入れてもらうこと 僕は、それは人から教えてもらった
互いに愛し合おう そのために、認め合おう そして、理解しあおう 君が大切なんだ
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詩を書きました |
詩なのかな? とりあえず、思いついたので書いてみました
「狂いたい」 狂いたい この逸脱した感情に身を任せて 煙草の火がじりじりとその身を焦がし、その吸殻が地面に捨てられ なおも分解されずに、塵としてその身を残すように この世界から、煙という形で溶け込みながらも、その後が人々から忌み嫌われるように 狂いたい なおも狂いたい 何かに繰られるように、脳内の何かに操られるように 身を任せて そして、そこに飛び込み 大切なものが、何もかも壊す対象にしか見えなくなるまで そして、その狂気を見つめ静かに笑い その先にある愉悦を、噛み締めながらその先を生きていたい その時に、大地震、隕石が落ちてきたとしたらなんともったいないことだろう 人間の狂気の果てにある、愛の果てと同じものを見るその詩悦 そこに飛び込みたい 知識を蓄え、なおその知識を笑い飛ばし、脳内の全てのニューロンの働きを分かりなおそれを越えた感情を 感情というにも、もはやもったいないその感覚を 熱が引く前に この、心のどこかから沸きあがる熱が、心の泉に消される前に 燃やしつくし、なおも生きたい
僕は、世界平和を心から望んでいます だけど、一方でこういう気持ちも確かに存在する 人間ってそういうものだろう? だから、僕はまだまだ人間が分からない
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大宣教命令を信じているのなら、毒を飲んでくれないか |
大宣教命令がなぜ、マタイによる福音書からなのかが疑問だった マルコによる福音書にも同じように、書かれているのに なぜ、マタイによる福音書だけが取りざたされるのかが、僕には疑問だった その疑問が僕は少しだけ解けた気がした
マルコによる福音書には、マタイによる福音書に書かれていない一節がある
マルコ16:17〜18 信じるものには、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らは私の名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびを掴むであろう。また、毒を飲んでも決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。
君が逐語霊感説を信じて、大宣教命令を聞くというのならば毒を飲んでくれ そして、決して害を受けないということを証明してくれ それが、出来ないのならば大宣教命令を語ることも逐語霊感説を語る資格もない なぜなら、その時点で聖書の言葉を取捨選択しているからだ あれは、する けど、これはしない それじゃあ、スジが通らない だって、そうだろう? 一部だけを切り取って、他の部分を捨てることは逐語霊感説では一番のタブーのはずだもの
神さまを試してはならない、と言うかも知れない しかし、その言葉は無意味だ 僕は、神さまを試してなんかいない 僕は、君を試しているんだ 僕は、人を試しているのだから それは、聖書で禁止されていたっけかな
僕が伝えたいのは、本当はこんな皮肉じゃない もっと痛烈な批判だ 信仰よって救われる、信じなければ地獄に行くと言っている人たち そして、その根拠を聖書に求める人たち その人たちは実は、自分達が主張するように聖書の御言葉に従っていないという事実 自分の好いように聖書を使っているという事実 僕はそれを、伝えたい そのくせに、未信者には地獄に行くと伝える そんな現実が許せるか
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聖書の御言葉を軽々しく使うのは嫌いです |
僕は、聖書の御言葉をブログに書くのは好きじゃない 聖書の御言葉を使って、自分の言いたいことの背景を伝えるのも好きじゃない それは、聖書の御言葉を書いた辞典で僕にとってそれは聖書の冒涜になるから
一部を切り取って、自分の言いたいことの背景を伝える それは虎の衣を借る狐に近いと思う 聖書に書いてあるから、これは正しい 聖書の書いてあるから、これは間違っている 「私はこう思う! だって、聖書のここにこう書いてあるじゃないか!」 そんなのは嫌いだ
パウロの言葉を借りる時なんか特にそうだ 題名に、〜への手紙と書いてあるのにその時代背景を考えずに 現代の生活に何の疑問も持たずに、そのまま同じ事を言う それじゃあ、チューリングテストでいう「中国語の部屋」だ
例えば、僕が合気道の練習中に「人のやっていることをよく見て、その通りにやれ」 と、後輩に教えたとする だけど、後輩がその言葉をテスト中に思い出して、その通りにしたらカンニングだ
言葉にも適材適所というものがある 歴史的背景と文化的背景を無視した時に、人は聖書の言葉を「利用」する もし、本当に聖書の言葉を守りたいのならアーミッシュにでも入ればいいさ そして、エホバの証人のように輸血を拒否すればいい
輸血に関しては、歴史的背景を考え解剖学が発達していなかったからそのような考えが生まれた 現代のクリスチャンは、それを分かっているから輸血を受ける なのに、自分達の教義に関することに関しては 意識的、もしくは無意識的に「あえて」歴史的、文化的背景を無視している 自分達の都合のいい時に、読み方を変える 自分達の都合のいいように、聖書を読む そして、その読み方が「真実」だと伝える
クリスチャンのの人の中には、そういう人も多い 「信仰で救われるって、聖書にはっきり書いてあるからね!」ってね でも、「書いてあるけど違うことも書いてますよね? 背景を考えると違うんじゃないですか?」と言うと 「でも、聖書に書いてあるから」 の一言で終わる 随分短い六法全書だな、ちくしょう
大切なのは、聖書の言葉を実践することじゃないと思う 聖書を読むのは大切だ しかし、自分の持っている知識 歴史学、科学、医学、心理学、哲学、倫理学、政治学 それを交えて読まないと、神様の言いたいことは伝わらない 歴史学と政治学が抜けただけでも、下手したら聖書は共産党的だと言われても何の批判も出来ない 科学と医学が無いと、先にあげた輸血の問題が出てくる
自分の持っている知識とあわせて、聖書を自分の中で租借し、吸収する それが、正しい聖書の読み方だと思う
福音書には何の脈絡も無く「読者よ、悟れ」と書いてある箇所がある 僕は、その問いかけはとても大切だと思うんだ 信じれば救われます バムテスマを受ければ救われます おかしいな、結局儀式的になっていやしないかい? それは、儀式的な生活をしていた律法学者やファリサイ派の人々の教えを簡略化しただけじゃないのかい?
だから、軽々しく聖書の御言葉を使うものじゃない あれは、何だかんだ言って神聖なものだ
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