君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



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僕は、僕が軽蔑したあの罪人と同じ罪人だ
君が生きている
そのことが何よりも素晴らしいと、かつての僕は言った
そのことに異論をは無いし、きっとそれがとても素晴らしいことだと思う
僕は、そのことだけを頼りに生きている時があった
君が生きている
そのことが何よりも素晴らしいんだと、そのことが何よりも奇蹟なんだと

そんなことは、とても思えない様になってしまった
子どもをウサギのゲージに入れる親を見た時に
子どもをベランダから突き落とす親を見た時に
僕は、その親達の苦痛と死を心から望むようになってしまった
生きてさえいれば、それだけで全ての祝福が彼等にあるようにと望んていた僕がだ

罪がある
僕達には罪がある
途方もないような罪が
僕達にはある

罪人であるはずの僕達が、罪人を受け入れないという罪が
きっと、僕も罪人なんだろう
でも、僕は浮気もしないし、子どもを愛している

それこそ息子に対しての態度はとても良いものだろうし
教育の仕方も、本人を尊重した素晴らしいものだろう
妻への接し方も、僕は感謝を忘れないし
不満を言われても、男尊女卑を笠にした言い方なんてしない
欠点はあるにせよ、妻も子も愛して、仕事を行い、平均以上の収入を得ている僕は良い夫なのだろう
そのことに対して、僕は隠さない
僕自身が良い夫であり、良い父であろうとすることを隠してたまるもんか

そんな僕も
そう、そんな僕も
結局のところ、僕が唾棄した人間と同じ罪人なのだろう
神様から見たら、僕は彼らと同じ罪人なのだろう
僕は罪人なのだろう

僕は良い人であろうと生きてきた
それでも、間違いや罪をたくさん犯して来た
そのことの自覚はある
そのことの自覚はある

それでも、僕は息子をゲージに入れたりはしない
うるさいからと殴らない
わずらわしいからと、ご飯をあげなかったりはしない
閉じ込めたりしない
ベランダから落とすなんて
考えただけでも死にたくなる
煙草を押し付けることも
性的な行為をすることも
金のために物乞いをさせることも
金のために性的な行為をさせることも
僕はしたりはしない
してたまるものかと、いつだって思っている

でも、現実ではそういう子どもたちがいる
そうやって育てられた大人たちがいる
そうやって育てた親たちがいる

神様の目から見た時に、僕もそういった親たちも同じ罪人なんだろう
神様の目から見た特に、そういった親たちも僕と同じ愛される人達なんだろう
そのことの苦しさに、僕は今になって初めて気が付いたんだ
神様が愛されるなら
神様が祝福されるなら
彼らを愛さなければ僕が神様に背を向ける存在になるのだと

苦しい
苦しい
とても、受け入れられはしない
あの時の僕ならばあるいは受け入れられたのかもしれない

この世に塗れた僕は、どうだろう
年を重ねた僕はどうなのだろう
そういった彼や彼女らを前にして僕はどんな言葉を紡ぐのだろう

イエス様は罪が無いのに罪に塗れた僕たちを救ってくれた
それなのに、僕たちの体たらくはどうだ
教会内でも、現住晩餐会員以外には聖餐式がどうたらこうだと議論している程度の話だ
同じなのだろうか
同じだと聖書は教えるのだろうか

それでも、あの時に涙したイエス様の愛を忘れたくはない
僕は、いつだってイエス様になりたいと思っていたんだ
だから、僕は諦めたくはないんだよ
僕は、諦めたくはないんだよ
僕は、諦めて自分を最底辺以上にはしたくないんだよ





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そろそろ文章を書き始めよう
あの大震災の時の記事を見た
自分の書いたブログを見た
もう、何年も前の想いだ
僕の昔がいた

当時の僕には情熱があった
不満があった
渇望があった
渇きがあった
妬みが、歪が、嫉みが、憎しみが
自分を貶める自分自身の全てに立ち向かいながらイエス様の愛を信じていた
それが、正しいことかのように、義であるかのように
恵まれない自分自身を祝福し、抗いだけが輝いているかのように振舞っていた

世の中の理不尽を憎んでいたし、世の中の格差を憎んでいた
なのに、僕はそこから遠く離れてしまった

あの時は20代だった
なのに、今は30代
純粋な衝動は失せた
失せてしまった
行動の前に考えるようになり、僕は二の足を踏むようになった
まるで、それが当たり前かのように
正しいかのように
諭し、誤魔化し、優しいかのように

僕は情熱を失った
そして、冷静さを得た
そうやって、僕はあの頃の何もかも失った
孤独も、衝動も、憤りも、理想も、その何もかも

考えられない程の幸せを僕は得てしまった
妻と子
何よりも代え難いものを得てしまった
だから、僕は弱くなった
ひどく、ひどく弱くなった

僕は、もう何も出来ない
何も成せない
リバイバルなんて言葉が、アフリカの餓死ぐらいに遠くなって
信仰なんて言葉が、同窓生の名前ぐらいに懐かしいものになってしまった

教会が掛け替えの無いものだったはずなのに
取り壊される親戚の墓ぐらいに、傍観している
想い出は僕を支え無くなり、今の時だけが僕を走らせる
せわしない時の中に身を任せ
一年が一週間のように薄くなる

嗚呼、僕は変わってしまった
いつだって目を覆い、しくしく泣いている僕は消え失せてしまった
格差に嘆いていた僕は、格差を憐れむようになってしまった
嗚呼、僕は変わってしまった
こんなにも変わってしまった
どこへ行ってしまったのだろう、諦めなければ手を取りあえると思っていた僕は
どこへ行ってしまったのだろう、世界が平和にならないことが理解できなかった僕は

あり余るほどの愛を手に入れた
身に余るほどの愛を手に入れた

今はもう、孤独も絶望も渇望も望まない
ただ、この日々が続けば
ただ、この日々が続けば

いいや、ちくしょう、くそったれ
イエス様のそれだけの愛を
最も弱いものにした愛こそがと言ったイエス様を
涙したことを

忘れてたまるか
涸れてたまるか

膝を折って寝転ぶなんて赦してたまるか



罪を赦される、罪を忘れる
自分の幸せだけを考えて生きている。
車が欲しい、家が欲しい、友人が欲しい。
あれが欲しくてこれが欲しくて、そのために金が欲しくて。
誰かからの尊敬の眼差しが欲しい。
そう思って生きている。
自分自身を肯定するはずのたった一人の自分自身にすら自身が持てない。
誰かからの承認が得られなければ、生きてはいけないと思った。
だけど、それが別に悪いとも思わなかった。

幸せに生きたいと願うことも、何かを欲しいと願うことも。
それも全て神様から与えられたものだということを僕は知っている。
だから、僕は何かを求めることを罪だとは思わない。
思わなかった。

ただ、一つ忘れていた。
僕は、罪人だった。
どうしようも無いほどに罪人だった。
人を傷つけた、人を陥れた、人を見離した。
勇気が無かった、愛が無かった、義が無かった。
何かが足りなかったのか、悪があったのか。
その要因は数え上げれば切りが無いほどにあるけれども。
全て僕で、全て僕の罪だった。

その罪を赦された。
僕はクリスチャンだから。
僕の罪を赦されたことを覚えている。
僕は人間だから。
僕が罪を犯したことを忘れている。

忘れて、何も無い顔をして。
法律には触れていないから。
人と人が生きていく上で「しょうがない」と言われる範囲の傷つけ方や陥れ方や見離し方しかしていないから。
まるで優しい顔をして、まるで正義の様な顔をして、まるで幸せを求める権利があるような顔をして。

ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。

神様が赦していてもきっとあなたは赦さない。
なぜなら、人は神様にはなれないから。
だから、僕はきっと僕の中で罪人のままで。
僕は罪人のままで生きていくのだろう。

解放も癒しも、きっとどこかにあるのだろうけれども。
今の僕にそれを追い求める暇は無い。
罪滅ぼしを誰かにしても意味が無いとは分かっているけれども。
自分の罪を思い出すたびに、贖いを求めてしまう。

少しでも神様の贖いを受け入れることが出来るように。
僕は悔い改めを行動でしなければいけないと思ってしまう。
本当はそんなことをしなくてもいいはずなのに。
自分自身が赦せなくなる。
でも、神様はきっとそんな僕の心も分かっていて。
間違っているはずの僕の人生も愛してくれるはず。
だから、このままに生きていって。
いつか、自分自身の罪の贖いを受け入れることが出来るように。
今は、ただ苛まされながら歩いていこう。



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傷つくことで優しくなれると思っていた
僕は朽ち果てたかった。
どんな困難があったとしても笑えると思っていた。
挫けずに諦めずに、そして逃げずに。
同じような境遇の人が出てきたら慰めることが出来る人間になろうと。
僕は辛い人生を望んでいた。

今、僕は辛い。
今、僕は苦しい。
自分がやっていることが無意味に思えて理解者がいないように思えて。
独りに思えて、そして背負おうものの尊さだけが理解できる。
自分自身が生きていて、誰かを幸せに出来るのだろうか。
そんな悩みで一杯で、自分自身が足りなくて。
笑えない。

僕は優しくなれると思っていた。
誰にでも優しくなれると思っていた。
だけど、現実は辛い境遇の人を責めることしか出来ない。
慈しみを持って接することが出来ずに、理詰めを言い訳に憤る日々ばかり。
赦し合うことなどもちろんのこと、一方的に赦すことすら出来ない。

大切な人には迷惑ばかりをかけてしまう。
大切な人の役に何も立てない。
あまりにもあまりにも無力だ。
キリストの様には、とてもなれない。

神様。
僕を一体何のために創ったんですか。
あなたの計画の中での僕は一体どんな存在なんですか。
思い上がり、身の丈以上の困難を望み喘いでいる僕は一体何者なんですか。
愛せないのに愛したい。
優しく出来ないのに優しくしたい。
赦せないのに赦したい。
こんな矛盾を何だって僕の心の中に。

何一つ分からない。
本当に何一つ分からない。
周りが屑に見えて、自分も屑に見えて。
僕は一体どこへ向かうのだろう。

昔、思い描いていた夢の続きは描けない。
今の僕には何が描けるのだろう。
筆を折ることだけは止めて、前でも後ろでもいいから歩いていこう。
どうせ、いつかは立ち止るのだから。



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敵を赦し、敵を愛せ
自分の敵を愛し、その人のために祈りなさい。
そういった言葉を小さい頃から聞いていた。
だから、自分の敵を愛さなくてはならないと思っていた。
憎い人も、許せない人も、自分の大切な人を傷つけた人も。
怒りながら憤りながらも、それだけでは駄目だと心の中で思っていた。
そんな自分がまるでクリスチャンの様に思えていた。
まるで驕り高ぶった自分がそこにいた。

敵と思える人間はたくさんいた。
そして、今でもたくさんいる。
自分を利用しようとする人間や、蔑もうとする人間。
無責任な福音をべらべらと語るクリスチャン達。
知らず知らずの内に差別する人達。
自分の無知や無能を棚に上げて、批判ばかりをする人。

そんな人間を敵だと思っていた。
でも、そんな人達も愛さなくてはならないんだな。
クリスチャンっていうのは大変だな。
でも、それがイエス様の言うことなんだから守らなくちゃ。
そんなことを考えていた。

でも、そんなことはどうでも良かった。
僕の大切な人を一番傷つけるのは他でも無い自分だった。
誠実に生きたいと思いながら、そうさせないのも自分自身だった。
罪を犯すのも、汚い心も、憤る行為をするのも何よりも自分だった。
僕の敵は何よりも僕だった。
それに気がついた時に、他人を敵にしていた自分の愚かさに気がついた。
他人の罪がどうこうでは無くて、問題なのは自分自身だった。

赦さなくてはならないのは、愛さなくてはならないのは自分自身だった。
それが何よりも難しくて、何よりも辛かった。
批判されている方が実は楽で、何もかも他人のせいに出来た。
愛されることは、愛されなくなる可能性も同時に手に入れることで、
信頼されることは、絶望される可能性も孕んでいる。
自分を駄目な人間だと決めつけてしまえば楽だけれども、
赦されて愛される人間だと思うことが必要なのだと知った。

今でも、まるで赦せず愛せない自分だけれども。
いつかは、赦して愛せるようになりたい。
クリスチャンの中でも自分を卑下する人達が数多くいるけれども。
何よりもまず自分を愛さなくてはならないと思うんだよ。



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