君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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死んだ後のことを考える?
今日の記事は長いです
そして、初期のように攻撃的です




死んだらどうなるのか
そんなものは誰にも分からない
聖書に書いてあるから、天国か地獄と言う人がいるかもしれないが
聖書にそんなことは書いていないと僕は思うんだ
ダビデ王の霊を口寄せの女が呼び寄せたのはありゃいったいなんなんだい

そう、すごく疑問なんだ
死んだ後のことを聞かれたときに、伝道者はどうやって答えればいいのかを
今死んだらどうなるの?
あなたは地獄行きですよ、とはっきり言うのかな
僕の知る限りでは、大抵答えを濁していたけど
まあ、クリスチャンにははっきりと地獄に行くとは言うけどね

クリスチャンになった後は、より怖かったな
「レフトビハインド」だっけ
クリスチャンであっても救われない人が出て、しかもそれは神様にしか分からない
ますます、神様に依存させていく

どこの新興宗教だよ、それは
とても、くだらない
真のクリスチャンと言ったときの条件にもし神様を「信じきる」という項目があるとしたら
僕は確実に地獄に行く

信じきるとは、盲信のことだと思っている
神様のことを完全には知らないのに、それを信じきる
それは、結局自分の中の神様を信じているとしか、僕には思えない

「キリストに狂う」
この言葉を、僕の周りの若い世代のクリスチャンやブログのユース達が使っている
本を一冊読んだだけで、キリストの全てが分かるのかい
分かるというのなら、心理学と哲学をやりなおしな、倫理学もお勧めだ
分からないというのなら、ナルシズムに狂っているのは否めないと思うよ

聖霊に導かれているというのなら、検証実験をしてみよう
聖霊の働きが感じられるというのなら、一人ずつ同じ質問をしよう
例えば、「姦淫の罪を犯した女がまたもう一度罪を犯したら、イエス様はなんと言うか」でもいいや
答えがばらばらならば、それは結局のところ本当に聖霊様に導かれているのかい?

試してはならない、と言うかもしれない
それは全くもってその通りだ
こんなことで、神様の価値が損なわれるなんて僕は微塵も思っていない
だけど、聖書と聖霊に価値を置き過ぎ、キリストに狂っている人達は「その程度」のことで揺らぐんだよ

肝心な聖書にも書いてあるだろう?
最も重要なものは、信仰じゃなくて愛だって
「神様への信仰があれば天国に行ける」
はは
そんなものはキリスト教じゃない!
山を動かせる程の信仰なんざ、愛が無くちゃ全くの無意味なんだぜ!
聖書を文字通り読むのなら、信仰があっても愛が無い人もいるってことだ

全ての人を考えてみろよ
認知症末期で言葉の意味も分からない人に堂々と「神様を信じないと地獄に行きますよ」って言ってみろよ
違うって言うなよ、まさか「幼子」のようだから天国に行くとか言うなよ
認知症末期だろうが、罪を犯しているんだ
セカンドチャンスがあるとか言うなよ
そいつは逃げ道だ
そんなものは、パウロでさえ言っていない出来事じゃなかったか?

僕は嫌いなんだ
キリスト教だけが、絶対の価値観とするのが
反吐が出そうなほどに嫌いだ
そして、それだけでも嫌なのに聖書の言葉を利用して人を導こうだとかするのも嫌いだ

なんだって、その人がその人であることが奇跡だってことを誰も言わないんだ
神様に愛された特別な存在?
それだけじゃあ、ないだろう
神様の意思は確かに働いているだろう
だけど、人の意思も確実にそこに入っているだろう?
神様一人の意思じゃない
全ての人の想いの結果、一人ひとりが存在している
奇跡じゃないか

なのになんで信仰なんてちっぽけなもので人を二分化するんんだい
全くもって理解できない



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この記事に対するコメント
どうも札幌在住のにっちです。北海道在住ってことは会ってるかもね。一重まぶたさんから見たら嫌気がさすようなクリスチャンかもしれません。
 神様のことも聖書のこともまだまだ全然わかってないけど、キリストが自分の救い主であることを信じる信仰によって救われたことを信じる者です。
 完全にわかったら信仰はいらないですし。わからないけど、これは信じるに値するものだと自分の深いところで感じたので信じました。信じてから今まで白黒だった人生がカラーになりました。これはホンモノだって感じました。そしたら伝えたくなったんです。ただそれだけです。
 一重まぶたさんが考えてるような難しいことうまく答えられません。でも『キリスト教だけが、絶対の価値観とするのが反吐が出そうなほどに嫌いだ』その反吐を受けてもいいほど、キリスト以外に救いはないって信じてます。盲信て言われても構わない。他の宗教だって同じこと言ってるのかもしれない。でも、これが真理だって僕のすべてがそう叫んでる。『全くもって理解できない』それでいいよ。だから信じてみてよ。そこからしか始まらないんだ。そこにしか救いはないんだ。
 反吐を出してかまわない。その反吐をキリストはあの十字架で受けられたんだ。一重まぶたさんを救うために。それを信じるか信じないかは、他の人のことは関係ない。一重まぶたさんが決めることだよ。(心配しないで。他の人にも同じように問われてるから。)
 ごめんなさい。なんだか熱くなってしまいました。この熱さも一重まぶたさんには何度も聞いていてうざいと感じるかもしれませんね。でもこれが僕の信仰なんです。
 一重まぶたさんのブログずっと見させてもらってました。一重まぶたさんにとって嫌いなクリスチャンに当てはまってました。だからコメントするの恐れてたけど、今回一重まぶたさんと真正面からぶつかりあって見ようと思いました。なぜかって、昔の信じられなかった自分に似てるから。一重まぶたさんは本当は信じたいんだよね?信じきりたいんだよね?だからその時まで。このブログを通してぶつかって語り合えたらって願ってます。(と言いながら、このコメント欄でぶつかり合うのもどうかと思うので、今回長くなって申し訳なかったですが今後もっと短くコメントするようにしますね。。。)一つ言っとくけど、にっちはあんまし難しいことわかんないからお手柔らかにw一重まぶたさんに主のハンパない祝福がありますように!!!
【2008/07/12 01:52】 URL | にっち #DYQhHKEg [ 編集]

はじめまして^^
黒にゃんと申します。
ぼくも少し前までは信仰の鍵を持っていましたが、
この間、レベルアップして自転車の鍵をもらいました。
お互い頑張りましょう^^ ではでは
【2008/07/12 17:57】 URL | 黒にゃん #WfGs7ZzE [ 編集]

>にっちさん
始めまして、一重まぶたです。
確かにどっかで会っているかもしれませんね。
それと、一つ誤解を解いておきたいのですが、僕は今も昔も変わらずクリスチャンですよ?
神様を信じています。
嫌いなのは、それを絶対の価値観とすることですよ。
ぶつかりたいとのことですので、どうぞメールをしてください。
僕も、本気で答えましょう。

>黒にゃんさん
僕も最近自転車を買い換えたいと思っています。
それでは。
【2008/07/13 15:07】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

イエスの言葉

「わたしがひとりに語るのは
全ての人に語るのである」

この言葉を知りませんか?

やるなら影でやらず
皆の益となるように表でおやりなさい。
【2008/07/13 22:22】 URL | おせっかいやさん #WfGs7ZzE [ 編集]

ありがとうございます!
コメント欄で納まりきらないぶつかりそう?な
内容については今後メールでさせてもらいますね。
コメントの返事についての質問ですが、
一重まぶたさんは何を信じる信仰によって
自分はクリスチャンだと言ってるのでしょうか?
それがブログからでは読み取れなかったもの
ですから教えてほしいです。
【2008/07/13 23:26】 URL | にっち #DYQhHKEg [ 編集]

>おせっかいやさん
始めまして、一重まぶたと申します。
何を持ってして表だと言うのでしょうか?
今日、僕はノンクリスチャンとまさしく、キリスト教の話と自分の考えの話を語り合いました。
ブログは裏でしょうか?
表に出ることが、各教会に言って自分の考えを話すことだと言うのなら、そのうち行なうつもりです。

>にっちさん
何を信じる信仰ですか?
僕は、この世界を創ったのは神様だということを信じています。
また、イエス様が全人類の罪を背負ったということを信じています。
その理由は、自分にとって都合がいいからです。
もし、それがあさましいと言うのならば、あなたは僕のような理屈家にどうやって伝道するのかを是非聞きたいものです。
【2008/07/14 02:21】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

めっちゃ安心しましたw
一重まぶたさんのためにキリストの十字架が
あることを信じてるということを知って。
自分にとって都合がいいからっていう理由は
全然浅ましくないですよ!
にっちだって、こんな都合がいい恵みの救い
はないって思ってますもん!

でも一重まぶたさんはこの救いだけとは
限らないって言いたいんですよね?
【2008/07/14 12:45】 URL | にっち #DYQhHKEg [ 編集]

>にっちさん
いいえ、そういうことではありません。
信仰的な話にもなりますが、僕は万人救済説を全面的に信じています。
そして、それとは別に真実とは個々人の中で選択したものに過ぎず、それを確かなものだということを証明する術など原理的に不可能だ、ということを言っています。
ですから、他人の価値観を否定しキリスト教の価値観を否定するのは、結局は自分が一番正しく他は全部間違いだと言っているのに他ならない。
神様にしか許されていない裁く権利を、人間が勝手にやっているから僕は反吐が出そうなほどに嫌いなのです。
【2008/07/14 13:45】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

万人救済説って、信仰にあるなしに限らずキリストの十字架によってすべての人は救われているって説ですよね?勉強不足ですみませんが、一重まぶたさんは何を根拠として万人救済説を信じてるんですか?そしたら伝道の必要はないということなのでしょうか?

そして一重まぶたさんは万人救済説を全面的に信じているけれど、それが真実とは証明できないし、他人の価値観(真実)をそれぞれ容認せざるをえないので伝道はしないということですか?

度々質問ばかりですいませんが一重まぶたさんの考えを知りたいのでぜひ教えてください。
【2008/07/15 02:12】 URL | にっち #DYQhHKEg [ 編集]

>にっちさん
何を根拠としてですか?
こちらこそ聞きたいのですが、イエス様は全人類の罪を背負って死なれたのですよね。
地獄に行く人がいたら、その人の罪は背負っていないじゃないすか。

また、伝道についてですが僕は別に天国に行かせたいから伝道するわけじゃありません。
あなたは天国に行く。だから、今を一生懸命生きてもいいんだよってその人の「今」を救いたいから伝道するんです。

また、価値観の話ですがそもそも心という存在すら、お互いに理解しあえないんですよ?(哲学的には)
それなのに、なぜ他の人の価値観を否定できます?
それぞれの人の世界があるんです。その世界ではそれが真実なんです。
僕等の真実がたとえ社会的な真実になろうと、個人の真実はどうしたって、その人のものなんです。
だから、それをどうかできるのは神様だけ。僕等にその力は無い、と言っているのです。
【2008/07/17 00:24】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

一重まぶたさんは、聖書の言葉を利用して人を導こうだとかするのも嫌いだと言われますが、

僕自身の信仰は、聖書しか寄り頼むとこがないので聖書から信仰の根拠となるところを出させてもらいます。もちろん一重まぶたさんも十分知ってると思いますが。

その全人類の罪を背負われたイエス様が言われました。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者はさばかれない信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。 』ヨハネ3:16-20

イエス様はもちろん全人類の罪を背負って死なれました。しかし救いを受けとるかどうかは人々にゆだねられました。

『ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。』ガラテヤ2:16

『私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。』ローマ1:16

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 』Ⅰコリント1:18

その救いはイエス・キリストを信じる信仰によると。

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。』使徒4:12

そして、その救いはキリスト以外にないと。それゆえ伝道しています。そしてそれは天国に行ってほしいのもありますが、一重まぶたさんが言うようにJESUSと生きることでその人の「今」を救いたいから伝道しています。

聖書に明確に信仰による救いについて書かれていますが、僕が聞きたかったのは、理論家である一重まぶたさんが何を拠り所として根拠として万人救済説を全面的に信じているのかお聞きしたかったです。

僕自身、ずっとプロテスタントの信仰義認の信仰に立っていたので、万人救済説があることは知っていましたが、その説が何を根拠にしているのか調べてもわからなかったので是非教えてほしいです。よろしくお願いします。
【2008/07/17 02:27】 URL | にっち #DYQhHKEg [ 編集]

>にっちさん
僕のブログを読んでいられるなら、すでに僕が聖書に対して懐疑的な目を向けていられることを知っていますでしょう?
そして、僕が嫌いなのはそうやって聖書の一部を切り取り自分の主張を正しいとするその姿勢なんですよ。
それでも、明確なものを求めるのなら僕も一つ聖書の箇所を挙げましょう。

18:ローマの信徒への手紙 / 5章 18節
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

一人の罪とはアダムの罪です。一人の正しい行いとはイエス様ですよ。
聖書を拠り所とするのならば、この箇所だけで十分ではないでしょうか。
また、聖書を読んでおられるのならば、旧約と新約では死後の考え方がまるで違うということはご存知でしょう?
それなのに、新約の一部を切り取り信仰だけで、人の死後を決定するのでしょうか。
なぜ、信仰よりも愛の方が偉大なのか。その意味はなんなのでしょうか。

また、これ以上の理論を求めるのならば心理学と哲学の話になります。
それをお求めになられるのでしたら、コメントかメールをください。

【2008/07/17 02:48】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

ありがとうございます。わかりました。
誤解させてしまいましたが僕が求めているのは理論じゃありません。

一重まぶたさんのブログを通して見えてくるクリスチャンすべてに向けられている信仰に対しての不信感、疑心が、一重まぶたさんを神の愛から遠ざけているんじゃないかと感じていました。

一重まぶたさんは、これまで教会において愛のない信仰によって傷ついてきたのかもしれません。それによって神への信仰さえ握ることができず孤独を感じてきたんじゃないですか?

『キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。』ガラテヤ5:6

愛と信仰は決して切り離せません。
たしかに愛がないクリスチャンいっぱいいます。僕だって愛がなくて苦しんでます。でも、僕らが真実の愛に生きるために真実の愛の中で生きるために必要なのは愛を求める信仰です。

他のクリスチャンの信仰はどうでもいいじゃですか?一重まぶたさんが信仰を見限って捨てる必要ないですよ。一重まぶたさんの愛を求める信仰によって、一重まぶたさんの周りの人を愛していけばいいんじゃないですか?

なんだかごめんなさい。回りくどかったけどそれを伝えたかったです。

お互い愛による信仰によって生きましょうよ。
そして、周りの人に、真実の愛をながしていきましょう。
【2008/07/17 03:19】 URL | にっち #DYQhHKEg [ 編集]

>にっちさん
理論家に理論以外を求められても、なかなかそれ以外は出ないものですよ。
万人救済説については納得していただけましたでしょうか?

それと、どうやら僕が不信、猜疑心や愛の無い信仰により傷つけられた「から」このような態度になっているとお思いのようですが、その辺は誤解だと言っておきたいです。
第一、僕今結構幸せですよ?
それと、前も言いましたけど僕は現役のクリスチャンで神様を信じています。
人を勝手に決めるけるのだけは、勘弁してもらえないでしょうか。

そして、僕が何より言いたいことはこの世には「愛が無い」人はいない、ということです。
心に愛がない人など誰もいなく、皆が素晴らしい。皆が愛を持っている。
これが、僕が言いたいことです。
だから、自分を否定してあまつさえ他人すら否定して、愛よりも信仰を重視するその姿勢が嫌いなんですよ。
僕の怒りの要因は、自分が傷ついたからじゃありません。
僕の大切な人達を、ノンクリスチャンというだけで無条件に憐憫の目を向けるその姿勢です。
まるで、信仰がなければ価値が無いと言うその姿勢です。

確かに僕が思い、感じている神様の愛はにっちさんたちとは違うものでしょう。
逆に、僕もにっちさんに問いかけましょう。
なぜ、僕が信仰を見限って捨てていると見なしたのですか?
それは、にっちさんと僕の信仰が違うからですか?
【2008/07/18 02:33】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

なかなかわかり合うのは難しいですが、でも少しずつ。。。

まず万人救済説についてですが、一重まぶたさんは明確な聖書の箇所として

ローマの信徒への手紙 / 5章 18節
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

を上げられました。しかも聖書を拠り所とするのならば、この箇所だけで十分だと言われました。

でもあえてこの箇所だけを上げるのは、聖書の一部を切り取り自分の主張を正しいとするのを嫌いな一重まぶたさんらしくないと思いました。

というのも、ローマの同じ章の最初にパウロはこう言っています。

5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

そう考えると、『一人の正しい行為によって、すべての人が(信仰によって)義とされて命を得ることになったのです。 』ととらえる方が自然だと思います。

これ以外に、信仰による救いについて多くの箇所があるにもかかわらず、それを無視して、この箇所だけで(他にもあるのでしょうか?)万人救済説を全面的に信じてると言われるのはどうかと思いました。

そして、その万人救済説に基づいて、一重まぶたさんは、伝道について
「天国にいかせたいから伝道するわけじゃありません。 あなたは天国に行く。だから、今を一生懸命生きてもいいんだよってその人の「今」を救いたいから伝道するんです。 」といわれました。

死後のことは心配しなくていいから、今を一生懸命生きてもいいんだよって伝えることが一重まぶたさんの伝道なのですか?

使徒たちはそんなことを伝えるために命をかけたわけじゃありませんよ。キリスト以外に救いはない。だからキリストを自分の救い主として信じなさいと伝道したんです。

それは決して、人々を否定してるからじゃありませんよ。人々を愛するからに他ならないじゃないですか。

一重まぶたさんがなにより言いたいこと。
「この世には「愛が無い」人はいない、ということです。 心に愛がない人など誰もいなく、皆が素晴らしい。皆が愛を持っている。」愛よりも信仰を重視し、まるで、信仰がなければ価値が無いと言うその姿勢が嫌いだと言われている。

もちろん世の人々に価値のない人はいませんよ。一重まぶたさんがいうように愛をもっているかもしれません。しかし、愛を持っていること、価値があることと、救いにあずかってることとは違うと僕は信じています。

愛され価値があるからこそ信仰によって救いを受ける必要があります。愛しているからこそ、その救いを受け取るか受け取らないかの自由が与えられその救いを受け取るために必要なのが信仰です。それが愛に応える信仰ですよ。

一重まぶたさんは、すべての人が愛をもっていてすばらしい。だからそれだけで十分だと。認めてあげたいと思っていると思いますが、

キリストと出会っていない人々は、本当の愛の中で生きていません。だからこそ、苦しみ自分の価値を見出せずにいるんです。そのことで人々を価値がないとか全然思っていないいですし、むしろ愛してるがゆえに、真実の愛を伝えたいと願っています。

その願い自体を、一重まぶたさんは理解できていないとは思っていません。そのクリスチャンの純粋な願い、信仰が、人々の人生を否定し、憐憫の目を向ける姿勢だと言われてるのでしょう。

そう考えるのは自由ですし、一重まぶたさんが万人救済を信じておられるのも構いませんが、大切な人を本当に愛するなら、自分が握っている真実を伝えたいというクリスチャンの願いはすごく当たり前のことであるということを理解していただき、その願いを卑下しないでほしいと願っています。

書き方が至らなくて申し訳なかったですが、僕が、一重まぶたさんが信仰を見限って捨てていると書いたのは、人々に真実を伝えたいというクリスチャンのその願いを信仰を見限って捨ててしまったのではという意味です。決して一重まぶたさんが信仰がなくて、信仰が違うからクリスチャンじゃないってことではありません。

また長々と書いてしまいました。すいません。やっぱり文章を通して、わかり合うってなかなか難しいですね。いつか直接お話できたらと願っていますよ。またここで語りつくせないことメールでさせてもらいますね。

一重まぶたさんとこの場で語れることうれしく思っています。こうしてお互いがわかり合おうというプロセス(長いみちのりですが。。。)をぼくらだけじゃなく他の方々に見ていただけることも有益なのかなと思っています。一重まぶたさんがゆるしてくれるならまたコメントさせてください。
【2008/07/19 03:06】 URL | にっち #DYQhHKEg [ 編集]

>にっちさん
コメントはどんどんしてください
むしろ歓迎しています
あと、僕札幌在住ですよからいつでも会えますよ。僕のことを知りたかったらツトムに聞いてください。彼は僕を知っています。

まず、万人救済説についてですがにっちさんの仰るとおり「信仰」によって救われるという箇所が多くありますね。
一方で、僕の挙げた聖書箇所があります。
(信仰によって)と仰りますが、僕の記憶では確か聖書に書かれている言葉は決して足したり、引いたりしてはいけないはずですよね?
ですから、その説は丸ごとそういう意味です。
結局のところ万人救済説ですよ。聖書を拠り所とするのならその箇所は。
聖書を拠り所としているのに、明らかに矛盾している。
まさか、数が多いから正しいといわれるわけでもないでしょうに。
そんな、民主主義をさすがに唱えれるとは思っていません。

さて、ここから僕も長くなります。
前回書けなかった哲学と心理学を使いますね。
まず、僕等は誰もが信仰を「知らない」。
そして、僕等はだれも愛を「知らない」
これが重要になります。
にっちさんを含め、「信じている」「信じていない」が重要なのでしょうが、僕にとってそれは特にこれといって重要ではありません。
「信じている」としている人の心の中では、それを見ている自我が存在します。メタ認知というやつですね。
そのメタ認知がそれを本物かどうかを疑い、もしくは信じそのメタ認知がさらに疑うか、信じるかを続けていく。
それは終わることの無い思考です。
さらに、その想いが本当かどうかを疑うプロセスが出てきて「信じている」のに「疑う」という状態が確実に存在するのです。
いつまでたっても100%にならない。
そもそも、無限を人間は知覚することが出来ないのだから、自分が本当に信じているか信じていないかなんてものを知ることなんて不可能なんですよ。
また、逆も叱りです。ノンクリスチャンであってもどっかて、信じている自我がどこかにあるはずでしょう。
100%の信仰でなければ救われないのならば、誰一人救われることはありません。
何%~と言われてもそれは正しくないというのはお分かりですよね?
もし、洗礼を受けなければ駄目だというのなら結局信仰より儀式が勝るだけです。
ですから、万人救済説なんですよ。別に信仰によって救われると言われても多分皆天国に行きますよ。

そして、もう一つ
「死後のことは心配しなくていいから、今を一生懸命生きてもいいんだよって伝えること」がそんなことですか?
僕は地獄の恐ろしさを知りません。行ったことがないですし。どんなに、恐ろしいところかと言われても皆行ったことないでしょう。
しかし、「今」苦しんでいる人たちの気持ちは少しでも分かります。
現に僕も「苦しみ」を体験しましたし。
その人たちを苦しみから解放したいというのがそんなことおですか。
そのために、人生使いたいと思ってる僕は愚か者なのでしょうかね。

そして、愛するから否定していない?
僕は、そんな馬鹿なと言いましょう。
その人たちがどんなに霊感を受けようと真実を知ろうと、それは結局「その人だけの真実」に過ぎない。
それが、他人にも通用するかどうかを証明することもなく、信じなければ地獄に行くというのが愛だというのですか。
時代は変わったんです。
使徒達の時代とは違う。それは覚えてください。
人間は、心の共有が出来ないという事を解き明かしてしまったんですよ。

そもそも、簡単に愛を語られても僕にはどうしようもありません。
僕が信じているのは、皆が愛を持っているというだけです。
愛が何かとすら僕は分かりません。
てか、原理的に神様以外に誰も出来ないのです。
説明しようとしても、結局その説明の説明になりそのまた説明になり決して終わることがありません。
だから、僕等は、「信仰」も「愛」も本質的に何も知らないのですよ。
なのに、なんで人を二分化するのか?
僕にはまるで全く理解できない。
と、いったところですがどうでしょうか。
【2008/07/19 04:08】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]


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