君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

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一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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罪を赦される、罪を忘れる
自分の幸せだけを考えて生きている。
車が欲しい、家が欲しい、友人が欲しい。
あれが欲しくてこれが欲しくて、そのために金が欲しくて。
誰かからの尊敬の眼差しが欲しい。
そう思って生きている。
自分自身を肯定するはずのたった一人の自分自身にすら自身が持てない。
誰かからの承認が得られなければ、生きてはいけないと思った。
だけど、それが別に悪いとも思わなかった。

幸せに生きたいと願うことも、何かを欲しいと願うことも。
それも全て神様から与えられたものだということを僕は知っている。
だから、僕は何かを求めることを罪だとは思わない。
思わなかった。

ただ、一つ忘れていた。
僕は、罪人だった。
どうしようも無いほどに罪人だった。
人を傷つけた、人を陥れた、人を見離した。
勇気が無かった、愛が無かった、義が無かった。
何かが足りなかったのか、悪があったのか。
その要因は数え上げれば切りが無いほどにあるけれども。
全て僕で、全て僕の罪だった。

その罪を赦された。
僕はクリスチャンだから。
僕の罪を赦されたことを覚えている。
僕は人間だから。
僕が罪を犯したことを忘れている。

忘れて、何も無い顔をして。
法律には触れていないから。
人と人が生きていく上で「しょうがない」と言われる範囲の傷つけ方や陥れ方や見離し方しかしていないから。
まるで優しい顔をして、まるで正義の様な顔をして、まるで幸せを求める権利があるような顔をして。

ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。

神様が赦していてもきっとあなたは赦さない。
なぜなら、人は神様にはなれないから。
だから、僕はきっと僕の中で罪人のままで。
僕は罪人のままで生きていくのだろう。

解放も癒しも、きっとどこかにあるのだろうけれども。
今の僕にそれを追い求める暇は無い。
罪滅ぼしを誰かにしても意味が無いとは分かっているけれども。
自分の罪を思い出すたびに、贖いを求めてしまう。

少しでも神様の贖いを受け入れることが出来るように。
僕は悔い改めを行動でしなければいけないと思ってしまう。
本当はそんなことをしなくてもいいはずなのに。
自分自身が赦せなくなる。
でも、神様はきっとそんな僕の心も分かっていて。
間違っているはずの僕の人生も愛してくれるはず。
だから、このままに生きていって。
いつか、自分自身の罪の贖いを受け入れることが出来るように。
今は、ただ苛まされながら歩いていこう。



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この記事に対するコメント
前回の記事に初コメさせて頂きました。記事が更新され嬉しいです。一重まぶたさんは本当に優しい方なのだと、いつも感じます。
【2012/06/14 23:22】 URL | タクヤ #- [ 編集]

人を傷つけた、人を陥れた、人を見離した。
こういうことだけが罪ではありません。
こういうことをすると都合が悪いから、とりわけ罪の意識を感じやすいのでしょう。

十戒には欲しがってはならないとあります。
マルコ7:22にも、人から出てくる悪の中に貪欲があります。
聖書によると、あれが欲しい、これが欲しいと思うことも罪です。
欲しいと思うことは人には迷惑をかけないから罪ではないのでしょうか?
それは自分に都合のいい解釈をしているだけであって、神の御言葉とは合致しません。

人はそれぞれ、自分の心に、これは良い、あれは悪いと罪の基準を持っていますが、それはみんな違います。
日本と、他の国でも違います。文化によって罪の基準は変わります。

だから聖書には、神が何を罪となさるかが書いてあります。
どの国の人にも、どの文化の人にも、神の基準を教えるためです。

自分の罪の基準に当てはめると、人はそれほどの罪人にはなりません。
ところが神の基準に当てはめると、人はかなり深刻な状態になります。神は完全に聖であられるからです。
でも、完全に自分が悪だと知り、自分に良いところがまったくないと知った人は、神の完全な贖いを受け入れます。
自分には誇るべきものが何もないことを知っているので、自分の行為によって信仰が左右されません。

ところが、自分には悪いところがあるが、良いところもあると思っている人は、神の贖いを少しだけ受けようとします。そして自分が良いことをしたら心の中で誇ります。
良いことをすればするほど、上から目線で人を見ます。悪いことをすれば打ちのめされます。
自分の行為で心の状態は左右し、とても不安定な信仰生活を送ります。

本当に救われるには、神の完全な基準を知って、自分がどれほど深刻な状態にあるかをまず知る必要があります。
【2012/06/16 16:24】 URL | たんぽぽ #- [ 編集]

>>タクヤさん
いえいえ、これがまた全然優しくないんですよ。

>>たんぽぽさん
預言や律法は廃れるものでは無かったでしたっけ。
思えば、最後に残るものは義では無く信仰、希望、愛と書いてあるのが聖書の面白いところであると思うんですよ。
【2012/06/17 22:29】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

マタイ5:17「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 」

コリント第一13:8「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」
【2012/06/19 22:55】 URL | たんぽぽ #- [ 編集]

東韓民国の皆様へ
Rfv35C9R
東韓民国の皆さんこんにちは(笑)
あなたがたは情報の伝達が遅いので
こんなレアな情報は知らないのではないでしょうか(笑)

情報後進国の皆さんへ(笑)
http://0324hO12.east-korea.com/0324hO12/
【2012/07/18 09:58】 URL | キム兄 #- [ 編集]

初めまして
探し求める答えは、シルバーバーチのメッセージで全て分かります。
キリスト教を探求しても、答えに行き着くことはありません。
是非読んで頂けたらと思います。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sb-teachings/index.htm
【2012/08/02 18:51】 URL | マグナムやまと #- [ 編集]

伝道活動とは?
 題:キリスト教の伝道活動について
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の実体が判らなかった明治は、
 西洋のすぐれた学問などの知識を得たいの機運から、
 日本人の優れた特性「進取の精神」から、
 西洋の学者や教師を招いて学ぶ時代だった。
 何でもかんでも勉強しよう、学ぼうの日本の民だった。
 その様な時代は、「西洋の総べてが良い」の気運で、
 その時代の想いからキリスト教もよいと思った。
 それ故、進取の思考の明治の学究の徒の人たちは、キリスト
教も一生懸命に学んだ。
 そして、まだ、よく分からない内にキリスト教化した人もい
た。
 しかし、今現在、キリスト教の事が、種々、分かってきた日
本において、
 また、最近のキリスト教研究において、
 それらの研究成果などの情報から、キリスト教の問題点が、
種々、分かり、明らかとなって来た。
 しかし、それ故、キリスト教は、プロパガンダ(キリスト教
は素晴らしいという嘘宣伝)に専心している。その為もあり、
その悪さ加減が隠されているけらいがあった。
 今、西洋・ヨーロッパは、脱キリスト教が、大分、進んでいる。
 アメリカにおいても、知識層は、特に、脱キリスト教の状況
となっている。
 それ故、キリスト教側も、教勢の維持の行動を強く行なって
いて、例えば、学校などの場でのキリスト教教育について、問
題が多発し、裁判事例も多い状況となっている。
 その多くで公正な宗教教育が大義である事により、キリスト
教側の敗訴という状況の中にある。
 その様な現状の世界の中で、日本においても、活動や働き掛
けがある。
 例えば、NHKを利用したキリスト教の巧妙なる伝道行為が
多く見られる。
 以下は、その事例の1つ。
(参考)しん‐しゅ【進取】 みずから進んで物事に取り組むこと。
「―の気性に富んだ人」
(参考)がっ‐きゅう【学究】 もっぱら学問の研究に携わること。
また、その人。「―の徒」「―肌の人」
            (つづく、後はブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp
【2013/05/19 03:12】 URL | ねこにゃんちゃん #4fB9XOpA [ 編集]

キリスト教の本路線・・・
題:キリスト教の本路線・・・。
.
 死んでくれたという恩義という『義』を、
 信仰のエネルギーにしているキリスト教。
 その様に設定したのは、パウロ。
 パウロは、ユダヤ教のガチガチの聖職者だった。
 キリスト教の旧約聖書は、
 ユダヤ教の正典でもあるが、
 パウロの頭には、
 このユダヤ教の正典が頭にこびりついていた。
 このユダヤ教の正典には、
 スケープゴート(生け贄の山羊)・
 供犠(くぎ)の観念が
 嫌と言うほど書かれている。
 血の供犠である。
 この観念に染まったパウロは、
 十字架上の死の血を供犠とし、
 復活と共に、
 キリスト教の宗教企画の骨格とした。
 また、
 『復活』もユダヤ教正典に出ている一般的な事。
 今、
 パウロが宗教企画したキリスト教が、
 キリスト教と呼ばれているが、
 イエスの流れをくむイエスの弟・ヤコブを教会指導者とする
 イエスの親族方たち、
 及び、
 イエスの直弟子たちのキリスト教の流れは、
 このパウロのキリスト教とは違う。
 このイエス親族の本路線と、パウロの路線があり、
 今、キリスト教は、
 パウロ路線のパウロ・キリスト教と言える。
           (つづく、後はブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp
【2013/05/23 01:29】 URL | ねこにゃんちゃん #4fB9XOpA [ 編集]

 題:ザビエルたち、キリスト教宣教師について・・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 日本に来たキリスト教宣教師たちは、最初の頃は、清貧
をかこっていたが、
 金持ちの貿易商人とかかわるようになると、次第に贅沢
になって行った。
 教会での食べ物をはじめ、衣服も贅沢化して行った。
 従僕をかかえるまでにもなった。
 あげくの果ては、祈祷や仕事に熱意を欠く者も出て来た。
 また、衣服に関しては、日本人は、はなはだ外見を重ん
じる国民だからと異論を唱える者もいた。
 つまり、規則通りのものでなく、華美なぜいたくな服装
をしたいという。
 また、ザビエルは、清貧に甘んじたではないかとの論議
も出た。
 しかし、実際は、ザビエルは、「日本人は外見によって
人を評価する国民だから」と言い、ザビエルは、華美に装
っていた。
 この頃のキリスト教宣教師のフロイトは、嘘をつく事の
多い宣教師だったが、その1例だが、
 頼りにしていた信長の家臣の和田惟政を過大にして、嘘
の報告をしていた。
 例えば、姉川の合戦に参戦し、「信長軍中にある最も強
力な武将で、総司令官」だと、報告しているが、
 和田惟政は、姉川の合戦に参戦もしていない。
 姉川の合戦の当日、自領の神社に行ったとのはっきりし
た記録が残っている。
 キリスト教はプロパガンダ(嘘宣伝)が多いが、日本へ
来た当初の頃から、この様な嘘体質だった。
 そして、また、
 日本に来たキリスト教宣教師の棄教は多かったが、
 徳川幕府の見解をうかがい知る1例。
 寛永20年に来日して、キリスト教を棄教したキリスト教
宣教師が、棄教した時に、
 偽りの棄教でないことの確認をするため、誓文を書かせ
た。
 その誓文に、キリスト教宣教師を取り調べ、書いたその
要旨に、その主旨がよく表れている。
 その文には・・
 「イタリアの国・ローマという所にキリシタン宗門の頭
・パッパという者(ローマ教皇のこと)がある。
 国々へバテレンを遣わし、宗門を広め、その国がパッパ
に従えば、奉行を遣わして仕置きする。
 ルソン・ゴア・ノビスパンなどその他多くの国をむさぼ
り取っている。
 日本は、軍勢で従わせるには困難なので、後生のために
宗門を広めることにして、バテレンを渡した。
 宗門がおおかた広まったら戦争をし、日本の多宗を打ち
たいらげ、パッパに従わせようというたくらみである」。
.
  (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/
【2013/09/28 02:20】 URL | ねこにゃんちゃんねこにゃんちゃん #4fB9XOpA [ 編集]

パウロは・・・
 題:パウロは、「イエスは人であると見ていた」。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 (「ピリピ人への手紙」3章8~11)で・・、
 パウロは言う・・、
 「キリストとその復活の力を知り、その苦難にあずかっ
て、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のう
ちからの復活に達したいのである」・・と。
 この時、パウロは、苦境にたっていた。
 そこで、キリスト・救世主を知り、イエスの復活の力を
知って、イエスの刑死の際の苦難を自分のものとし、
 イエスが経験した死を、自分も実体験した様になり、
 何も無い様に見える死の淵(ふち)より、復活する様に
再生したいのである・・と。
 ただ、パウロは、この言葉を言う時に、「律法を捨てて
いる」。
 逆に、イエスは、「律法を大切にしなさい」と言ってい
るのに・・である。
 イエスは言っている、「神の義であるが故に、律法は大
切にしなさい」・・と。
 パウロは、キリスト教徒を殺したりしていた「パリサイ
派」の、「ガリガリのユダヤ教徒」の時の反動で、
 そして、その体験で、律法を捨てようと考えているだけ
なのである。
 しかし、パウロは、別の、『律法と言ってもいいもの』
を作るという『自己矛盾をしている』のである。
 また、詳細を見れば、『捨ててない律法を持っている』
のである。
 また、パウロは、イエスを予言者としか見てない。
 パウロが、この様に言うイエスは、新約聖書では、実質
「予言者」とみなしている。
 この事は、公会議でも、喧々諤々(けんけんがくがく)
「イエスは神か?人か?」で、大きく揉(も)めた事であ
る。パウロは、「イエスは人であると見ていた」。
 (「へブル人への手紙」9章11~14)には、
 「しかし、キリストがすでに現れた祝福の大司祭として
こられたとき・・」・・と、イエスを、神と人との仲立ち
の祭儀をつかさどる祭司の人としている。
 祭司の重要業務と言えば、民が持ってきた捧げ物を、民
に代わって神に捧げる事である。
 パウロは、イエスをそう見ている。
 ただ、イエスの場合、自分自身の身を捧げたとした。
 当時、洗礼者ヨハネもそうだが、予言者の多くが磔刑と
なっている。
 また、パウロは、ユダヤ教の聖職者であることから、ユ
ダヤ教正典(キリスト教の旧約聖書)をよく知っていた。
 そこで、(「イザヤ書」53章1~5、12)に、
 「(とがある)彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられ
たのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲(
こ)らしめをうけ、われわれに平安を与え、その打たれた
傷によって、われわれはいやされたのだ。・・(彼は)
とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多く
の人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」・
・と。
 ユダヤ教聖職者のパウロは、この条からキリスト教の宗
教の創作、企画をした。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
http://www.youtube.com/watch?v=qlnkudtpet4
http://www.youtube.com/watch?v=nKNQXEqBZsQ
http://www.youtube.com/watch?v=EE_KtK311aA
【2014/04/17 01:40】 URL | ニコアライド #4fB9XOpA [ 編集]


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自分の幸せだけを考えて生きている。車が欲しい、家が欲しい、友人が欲しい。あれが欲しくてこれが欲しくて、そのために金が欲しくて。誰かからの尊敬の眼差しが欲しい。そう思って... まとめwoネタ速neo【2012/06/13 09:44】



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