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今まで一重まぶたさんのご意見を読ませていただいて感じていたこと。
それは、一重まぶたさんが聖書を信じていないようだということでした。
それを改めてはっきりおっしゃいましたね。
だから私は疑問なのです。
一重まぶたさんが、いったいどの神を信じているのか。
キリスト教の神は、聖書の中にご自身を示してくださっていると私は信じています。
私が今まで書いてきたことは全部、一重まぶたさんがクリスチャンであることを前提としたものでした。
聖書を信じていないなら、その人はクリスチャンではないと私は思います。
もし聖書が神の言葉ではないとおっしゃるのなら、どうしてキリスト教の神を信じているのですか? と私は逆に問いたいのです。
聖書が真実ではないのなら、なぜ人間が天国に行くと思うのですか?
なぜ神が愛だと思うのですか?
イエス様って誰なのですか?
天国のことも、神の愛のことも、イエスのことも、聖書に書いてあることです。
それが嘘だと言うなら、何をもとに語ってらっしゃるのでしょうか?
そもそも現代のキリスト教は、聖書と一致していません。
独自のキリスト教教義を作り出しています。
現代のキリスト教と、聖書は別物だと私は考えています。
だから、「信仰があるなら疑え」ということは、私も、クリスチャンに対して言いたいと思います。
でも、聖書は別です。
キリスト教は人間が作り出したものですが、聖書は神の言葉だと私は信じています。
教会で教えられたことが本当かどうか、聖書でその真偽を確かめる、というのが筋だと思います。
「人それぞれに真実がある」?
私にはそうは思えません。
私は、自分の中に真実があるとは思えません。
罪人の中に、いったいどんな真実があるのですか?
私は、自分がとても不確かだと感じています。
いつも迷い、悩み、惑っています。
だからこそ、聖書に信頼を置いています。
聖書は、旧約の初めから新約の終わりまで、一貫して、罪の赦しを教えています。
人間のように、途中で目標を変えたり、迷ったり、やめたりしていません。
私は、聖書の中に、人間にはないものがあると感じました。
それだけは言いたいと思います。
【2008/04/13 23:45】
URL | たんぽぽ #- [ 編集]
>でも、聖書は別です。
キリスト教は人間が作り出したものですが、聖書は神の言葉だと私は信じています。
たんぽぽさんもそうやって聖書を信じているということであって、「聖書」そのものに対してもさまざまな理解があるわけで。
たんぽぽさんがいわれることも一つの信仰理解に基づいての「聖書」理解ですよね。
聖書が私にとっては「神の言葉」であるけども、無条件に絶対的な神の言葉であるとは私は思いませんね。そこにもやはり聖書に対する信仰があって神の言葉となるというのが私の理解のしかたです。
この記事の主張からすると、信仰があるからそこ、神を信頼するならば、もっと自らの信仰、聖書理解を疑うことができるはずということでしょう。
それは私もクリスチャンとして大事にしたいとおもっていることです。
【2008/04/14 11:47】
URL | ブログ村から #- [ 編集]
自分の信仰、聖書解釈を疑う姿勢は私も大事だと思います。
聖書そのものに対する考え方は、2つありますよね。
「聖書は人間が勝手に書いたもの。」
「聖書は御霊を通して人間の手で書かれたもの。」
もし前者を信じているなら、そもそも聖書に書かれている神に対する信仰が持てるものなのでしょうか。
嘘あり真実ありの本に書いてあることを、自分の人生の柱とすることができるものなんでしょうか。
と、私は純粋に不思議だなと思うんですが…。
【2008/04/14 22:23】
URL | たんぽぽ #- [ 編集]
>たんぽぽさん
聖書は何を持ってして聖書というのでしょうか
私が言いたいのは、たとえ聖書が神の霊感によって書かれたとしても、人間はそれを編集しあるものを聖書、あるものを聖書ではないとしています。これは歴史的な事実です。
では、何をもってして今の聖書は聖書とするのでしょうか?
それは信仰によるものです。しかし、その信仰は自分だけのものであるのです。なぜなら自分以外に証明できないですから。よく、みんな信仰の共有をしているように見えますが、それは自分と同じ事を言っているだけで同じかどうかは決してわからないものなのですよ。
たんぽぽさんにとって聖書とは何から何までを聖書というのですか?
創世記からヨハネの黙示録までですか?カトリックが認めている外伝はどうなのですか?
>ブログ村からさん
信仰とはその出来事を、自分の中で真実だとすることだと思うのですよ。
しかし、それを他人にとっても事実だとすることなど可能なのか?
といったことが、最近の私の疑問です。
【2008/04/15 00:02】
URL | 一重まぶた #- [ 編集]
2つ常々思っていることを書かせてください。
1つは、信仰は賭けだと思うんです。絶対がない。神はいないかもしれないし、他宗教の神が本物で、キリスト教の神はいないかもしれない。科学とかいいながら、人間はまったくお門違いのことを考えているだけで、宇宙は違ったルールで進んでいるのかもしれない。
それらのいろいろな選択肢がある中で、どれかに1点買いで「馬券」を買ってください、と言われているようなものだと思うんです。
で、僕はそのなかで一番勝てそうな券を購入しただけで、勝つ確立は運次第だと思っています。ただなんとなく勝てる気がしているのはギャンブラーと一緒なのかもしれません。
もう一点は、聖書は神がくれた時点までは正しいと思っています。それは上記のギャンブラーならではの嗅覚です。
でも、いかに聖霊がついていても神のレベルからはるかに劣る人間は「燕雀いずくんぞ、鴻鵠の志を知らんや」です。
飛行機を見てあこがれる子どもが両手を広げて「キーン」と言いながら走り回るのと同じ感じがします。
でも、じゃあまったく聖書はあてにならないのか?と言えば、飛行機と真似をする子どものような関係で、「憧れ」を抱いて何とか本物に近づけようと言う意思とか、一部の忠実性はあるのではないでしょうか?
僕はざっくりとした流れ、何を伝えようかとしている点は聖書は真実だと思っています。
と言っても単なる一信徒の戯言であてにはなりませんが(笑)
【2008/04/15 13:53】
URL | Take #mCZlqnv2 [ 編集]
>信仰とはその出来事を、自分の中で真実だとすることだと思うのですよ。
しかし、それを他人にとっても事実だとすることなど可能なのか?
といったことが、最近の私の疑問です。
私は、聖書が神の言葉であり真実だと絶対であると信じています。そしてそれが嘘ではなく自分の人生において意味を持ち、真実であると日々体験しています。だからこそ他人にとっても真実だと信じているんです。
一重まぶたさんが信じられないこと疑いたいこともわかります。私だって最初から疑いがなかったわけじゃないし。でも日々神様を体験することで疑いが確信へと変えられていきました。もちろんその体験も、人にはなかなか信じてもらえないけど。自分の信仰の確信へとなるんです。そしたらこれは本物だって思うでしょ。そしたら他の人にも伝えたくなるでしょ。信仰は、個人のものですけど、その信仰によって人は突き動かされるんです。聖書に書いてある言葉がただの言葉じゃないこと体験してほしいな。そしたら信仰がただのギャンブルじゃなくて絶対だってわかるのに。神様に求めてみたらどうですか?あなたを見せてくださいって。一重まぶださんにわかる形で神様教えてくださいますよ。「求めなさい。そうすれば与えられる。」2千年経っても朽ちることがない聖書の神の言葉の力体験してみてください。
【2008/04/15 15:08】
URL | JJ #DYQhHKEg [ 編集]
私の信じる聖書は、創世記からヨハネの黙示録までです。
他にもいろいろあるのでしょうが、神様があえて、この範囲の書を一冊の本の形にし、世界中に流通させておられるからです。
カトリックの外伝は信じていません。
カトリックの外伝は読んだことがありませんが、カトリックの教えと、聖書に書かれていることが一致していないため、聖書の著者とは違う誰かが書いたものだと、私は判断します。
【2008/04/16 11:29】
URL | たんぽぽ #- [ 編集]
>他にもいろいろあるのでしょうが、神様があえて、この範囲の書を一冊の本の形にし、世界中に流通させておられるからです。
神様がそうしたとうのが信仰であって、歴史的には聖書文書の取捨選択は教会会議、より正確にえは、当時正統派として力をもっていた者たち(男性たち)によって行われたのですよ。
それを信仰をもって受け止めた時に、私たちにとって命の書になるんだと私は受け止めています。
外伝について読んだことがないのに批判するのはどうかと思いますね。外伝は外伝でプロテスタントでは正典とはされていませんが、カトリックでは重んじている文書ですし、実際、66巻の聖書文書と歴史的にも思想的にも響き合うところはあるし、かなり重要な信仰文書です。
わたしもプロテスタントなので正典として外伝を受け止めてはいませんが、大切な文書であるとは思っています。一読されることをおすすめします。
【2008/04/16 21:27】
URL | ブログ村から #- [ 編集]
Takeです。
思い出したことがありました。追伸、です。
「信じる気持ち −はじめてのキリスト教−」 日本キリスト教団出版局 は結構面白いと思っていただけるかと思う本です。
ご参考までに
【2008/04/16 22:02】
URL | Take #mCZlqnv2 [ 編集]
カトリックでは重んじている文書なのですよね。
カトリックでは、イエスではなくマリアに祈ります。
マリアの像を作り、その像に向かって、「アベ・マリア」と唱えます。
旧約時代に、金の子牛を作って、それに向かって神を拝んだヤロブアムの時代と似ていませんか。
イスラエルの民は、以前とはちょっとだけやり方を変えただけなのです。
神はその時どうなさいましたか。
私にとってカトリックは、金の子牛を拝んでいるように見えるのです。
【2008/04/16 23:11】
URL | たんぽぽ #- [ 編集]
>Takeさん
ギャンブルというのは正しいのかもしれませんね。
証明が出来ないことを信じるということは確かに僕もギャンブルになると思います、天国に行くことを目的としいるとしたらですけど。
僕が欲しいのは人生の指針なんです。
しかし、心の置き所が分からなくて、苦労しています。
>JJさん
あまり、言いたくないのですがそれは「JJさんにとっての真実」であり僕の真実はないのです。
自分の中に、確信があるといってなぜそれが他の人にとっても真実だといえるのでしょうか?
昔は僕もそう思っていましたが、それが僕の今の一番の悩みです。
>たんぽぽさん
なぜ、そう言えるのでしょうか?
カトリックの人たちの信仰を全て偽者だとしましよね。
それは世界で自分が一番正しいと言っているのと同じだと思うのですよ。
>ブログ村からさん
私も外伝は、大切な文書だと思っています。
【2008/04/16 23:18】
URL | 一重まぶた #- [ 編集]
そのような見方自体が恐いし、一重まぶたさんがブログで問いを発していることなのではないですか?
なぜカトリックが金の子牛を拝んでいるというのに、自らにその危険性があることには棚上げされているのか。
金の子牛から自由な人はいないし、人であるかぎり、そのような「像」を作り出す罪を背負っているでしょうに。
それがなぜカトリックだけが「金の子牛」の対象とされるのか。
たんぽぽさんのその自己絶対化も「金の子牛」とよべるように思えるのですがね。
【2008/04/16 23:21】
URL | ブログ村から #- [ 編集]
ええ、私はカトリックを偽者扱いしました。
一重まぶたさんも、聖書は嘘だと言いました。
たいして変わりないと思いますが。
【2008/04/16 23:32】
URL | たんぽぽ #- [ 編集]
天国に行くのは、僕にとって憧れです。でも誰だったかわかりませんが、「自分は地獄に行って、天国にいけなかった仲間と一緒にいたい」という方がいましたが、それも憧れです。
でも、
死後の世界があるのか? 死語僕は天国に行くのか、地獄に行くのか、はたまた死語の世界はないのか、は僕が選択できる余地はなく、ただ神に委ねるだけなんですよね。
そうしたら、僕はただ聖書の言葉に従って「生きる」ことが、聖書を読む理由であり、聖書は「神に委ね、隣人を愛す」に尽きるかな?と思います。
僕が他人からみたら何でボランティアをするのか? 宣教は二の次であるのは、僕がまったく歯が立たないような大きな存在の神には生まれたばかりの赤ん坊のようにわがままに愛されて、完全に任せる(委ねる)しか神様にはできないことと、そんな僕でも隣人と一緒に生きることができることの実践だからです。
【2008/04/16 23:35】
URL | Take #mCZlqnv2 [ 編集]
>たんぽぽさん
私は嘘だとは言っていません。
事実だと証明することが不可能だと言っているのです。
それを事実とするのならそれは個人の信仰であり、他者に当てはめることが出来ないものだということです。
【2008/04/16 23:36】
URL | 一重まぶた #- [ 編集]
>Takeさん
僕はまだ委ねることが出来ないクリスチャンです。
出来ればいいのですけどね。
でも、それを行った時に今の僕は死に絶えているのですよ。
どちらが正しいのかなんて分からないですけどね。
【2008/04/16 23:40】
URL | 一重まぶた #- [ 編集]
他者を偽者と呼ぶことは、自らを正しい側においていることになりますよね。
イエスさまは自らを正しいという人にとても厳しい方であったと私は思いますが・・・・・・。
【2008/04/16 23:45】
URL | ブログ村から #- [ 編集]
ブログ村からさんは、金の子牛を作って拝むことは正しいことだと思われますか?
そして、マリア像を作って拝むことは正しいとおっしゃるのですか?
私は自分の考えで言っているのではありません。
聖書に、金の子牛を作って拝んだ人々に、神が怒りを発せられたと書いてあるからそう言ったまでです。
では、ブログ村からさんは、何を根拠に、マリア像を作って拝むことは正しいとおっしゃるのですか?
その根拠を聖書から示してください。
もし示すことができないなら、それはブログ村からさん自身の考えで、そうおっしゃっているのではないですか?
カトリックを否定すれば、カトリックの人たちに悪いから、という理由でカトリックを肯定なさっているのですか?
【2008/04/17 00:23】
URL | たんぽぽ #- [ 編集]
たんぽぽさん
わたしは一言もカトリックが「正しい」などといっていませんよ。
金の子牛を拝むのが正しいとも一言もいっていません。
私が言いたいのは、カトリックを問題にする前に、まず自分が正しいと主張する、その自己絶対化を問題にすべきだということです。
【2008/04/17 09:24】
URL | ブログ村から #- [ 編集]
ブログ村からさん
私は自分が正しいとは言っていません。
自分の意見を言っているわけではなく、聖書にはそう書いてある、と言っているのです。
だからもし、ブログ村からさんが、カトリックの教えが間違っていると言うことが悪いことだと、聖書から納得のいくように説明してくださるなら、態度を改めます。
聖書の至るところに、間違った教えを避けるようにと書かれています。
一つの例ですが、ステパノが殺された理由をご存知ですか?
ステパノが、間違いをはっきり指摘したからです。
ステパノは、ユダヤ人たちが、昔金の子牛を作った先祖たちと代わらないと批判しました。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(使徒7:51)
ブログ村からさんは、カトリックが正しいと言っていないとおっしゃるということは、カトリックは間違っていると思っておられるのですか?
間違っていると思っているのに、はっきり「間違っている」と言わないのはどうしてですか?
私は、おかしいと思ったことは指摘します。
その上で、間違いであるとわかれば改めます。
それを、「自己絶対化」とおっしゃるのは、飛躍しすぎではありませんか。
【2008/04/17 11:24】
URL | たんぽぽ #- [ 編集]
色々言いたいこともあるでしょうが、コメント欄は議論をするべきではないと思います。
ですので、とりあえずここはこの場で終わらせましょう。
たんぽぽさんに言いたいことも含め、ブログで思いを書いていきます。
【2008/04/17 20:59】
URL | 一重まぶた #- [ 編集]
ここは長くなったので拙Blogに、ここでのやり取りに関して書かせてもらいました。
よろしければお越しください。
【2008/04/18 01:17】
URL | Take #mCZlqnv2 [ 編集]
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