君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
プロフィール

一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



FC2カウンター



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである
最近まで忘れていた御言葉がある。
この御言葉を最近忘れていた。

マタイによる福音書 / 25章 35節~40節
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』


この御言葉が僕には小さい頃よく分からなかった。
誰かに優しくすれば、それはイエス様にするのと同じこと。
それは、とても素晴らしい、ハレルヤだ。
そんな程度の認識だった。

どこの宗教でもありそうな、誰かに優しくすれば天国に徳を積む分けではないけれども。
ただ単純に、優しくする動機づけをイエス様によってしている。
そんな穿った目で見るから、教会の慈善事業を結局は自己満足の場として捉えていた。
自分が幸せになりたいから、相手に親切にしている偽善者とすら見ていた。
自分が助かりたいから、自分が救われたいから、自分が幸せになりたいから。
そんな理由で人に優しくして悦に浸っている人間を嫌いだと思っていた。

だけど、人間はそういうものだということも知った。
自分自身が利己的な人間であることも知った。
無償の愛なんてものを与えられることがは出来ず、いつだって利己的な愛ばかり。
義人なんてものはどこにもいなくて、全ての人が罪人で。
時折、そんな罪人の中でも純粋な優しさと思えるものも目にするけれども。
それは、結局神様から来ているものなのに。

それなのに、イエス様は僕たちにそんな不完全な優しさに対して自分にしてくれたと言ってくれる。
利己的な愛、利己的な優しさ、利己的な慈しみ。
そんなものしか持っていない僕らの行動を、自分にしてくれたと言ってくれる。
優しさも、愛も、この心にある全て素敵なものはあなたから来ているというのに。
それなのに、自分にしてくれたと言ってくれる。

こんなに嬉しいことは無い。
自分の存在を認められた。
こんな自分が行ってきたことを、そんな風に言ってくれるなんて。
そう思うと、涙が出た。

僕の聖書解釈は間違っているのかもしれないけれども。
それでも、僕にとってイエス様の存在は大きくて。
必死になっている自分を否定せずに、より大きな愛を与えてくださると思える。

僕は、これからの人生で大きなことは起こせないだろうけれども。
指導者になることも無いだろうけれども。
立派で愛溢れる人間になることもないだろうけれども。
こんな利己的な自分の不完全な愛の結果すら、自分のためにしてくれたと言ってくれるイエス様がいる。
それだけで、まだ生きていける。

僕は、クリスチャンでいて良かった。




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。



スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://hitoemabuta56.blog87.fc2.com/tb.php/317-a14b6349



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。