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幸せになりたいから神様を信じる、というのであれば、何もキリスト教でなくても、仏教でも神道でも、幸せを提供してくれます。
一重まぶたさんが信じる神様というのは、イエス様のことですか?
それとも、この世界を創造した神様を漠然と感じていらっしゃるのでしょうか。
聖書の神様が私たちにくださるのは、魂の救いであって、この世での幸せ、人との平和といったものではありません。
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。
わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)
この聖句を、一重まぶたさんがどう受け止めるかはわかりませんが、少なくとも、イエス様は地上に平和をもたらすために来たのではないと断言しておられます。
聖書には、信じた人は平和どころか、かえって迫害され、困難に遭うとあります。
「今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ10:30)
とあるように、この世では迫害、後の世で永遠のいのちを受けます。
クリスチャンになるということは、大変なことなのです。
でも信じた人は魂が救われているので、迫害されても喜ぶことができます。
「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:12)
ヘブル11:1にあるように、信仰は目に見えないものを確信させるものです。
幸せになるために神様を信じるなら、キリスト教を選択なさらないことです。
【2008/04/06 23:55】
URL | たんぽぽ #- [ 編集]
>たんぽぽさん
僕に幸せを与えてくれるのは、キリスト教だったという話です。
マタイ10:34-39でも言われている通り、確かにイエス様は平和をもたらすために来たのではないのかもしれません。
でも、思うのがそれならばなぜ信仰よりも愛のほうが価値があるのでしょうか?
互いに愛し合いなさいといわれたイエス様が、平和を望まないわけがないと思うのですよ。
そして、迫害されると仰いますがそのことについてはそれは2000年前だからだと思います。
この時代に、少なくとも日本では迫害はされていないと思います。
幸せになりたいなら、キリスト教を選ばないほうが言いといわれたのは、ショックでした。
僕の生きている根底が崩れるような気分です。
死後の世界があるから、今の人生が幸せで無くていいとは思えないんです。
みんな笑って欲しいから、その世界が生前にもあれば素晴らしいと思うからクリスチャンなんです。
たんぽぽさんの目から見たときものすごい不快に映るかもしれません。
そのことについては深く陳謝いたします。
【2008/04/07 01:15】
URL | 一重まぶた #- [ 編集]
「幸せ」の基準は人によって違うと思います。
友達と仲良くしているから幸せ、と思えない人もいます。
好きなことをやって成功し、良い仲間に恵まれていても、心の奥底には罪がくすぶっています。
イエス様は、その心の奥底にある罪を消してくれます。
罪の赦しは、たとえ誰からもそっぽを向かれても、生活が苦しくても、喜びをもたらすものです。
今の日本では迫害されることはないかもしれません。
せいぜい、へんなやつという目で見られる程度かもしれません。
それでも、親が仏教なのにあえてキリスト教を選択するというのは、勇気のいるものですし、偶像崇拝を拒めばある程度の親族からの迫害はあります。
神以外の偶像を拝まないというのは、この日本であっても、結構大変なことだと感じます。
これから結婚し、子供が生まれればよくわかることと思います。
また、聖書を正しく理解しようとすると、今度は教会にいづらくなったりします。
そして、「愛」というのは、もちろん人と人との愛も含まれますが、人への神の愛、神への人の愛もあります。
聖書に書かれている「愛」は、人同士の愛だけに限定されていません。
私が気になっているのは、一重まぶたさんには、人同士の愛にはとてもこだわっておられるのですが、神との愛、神との平和という部分が抜けておられるように思うのです。
神は、世界平和の前に、神と人が和解することを望んでおられます。
世界平和はその後です。
私の文章力がつたなく、攻撃しているように感じられたでしょうか。
私に謝らないでください。
私はただ、聖書の神への誤解を解き、正しく知ってほしいと思っているだけです。
一重まぶたさんの考えに気を悪くしているわけではありません。
私も昔は一重まぶたさんと同じ道をたどりましたし、素直に自分の思ったことをつづってらっしゃるので、偽善的でなく、かえって好感を持っているほどです。
嫌な感じを与えていたようで申し訳ありませんでした。
【2008/04/07 11:27】
URL | たんぽぽ #- [ 編集]
>たんぽぽさん
聖書を正しく理解というのは、どういうことなのでしょうか。
色んな派閥がある中で、どれを選択するという問題に繋がると思うんですよ。
それほどに聖書の解釈が多種多様にあるなかに、どうやって「正しい」を見極めるのでしょう。
そして、神様の愛が抜けていると仰いましたね。
確かに、僕の言葉にそれは抜けていました。
前提条件なんです。僕の中でそれは。
神様への信仰、神様への愛が無ければ僕は人を愛することが出来ません。
神様の存在抜きでは人を信用することすら出来ない歪んだ人間なんです。
僕は、神様を愛しています。それは言わせてください。
僕も、神様と人の和解が必要だと思います。
ただ、それと同時なんです。僕にとって世界平和って。
甘っちょろいと思うんですけど。
未だに、人類への希望を捨て去ることが出来ないんです。
【2008/04/07 21:18】
URL | 一重まぶた #- [ 編集]
「正しい」つまり、神が意図されたことを見極めるには、聖書が鍵だと思います。
神様は今の時代、人間の前に現われて、直接言葉を発することはなさいませんが、完成された聖書を与えてくださっています。
これには、神の言葉がびっしりつまっています。
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 」(テモテ第二3:15-16)
この後の聖句で、原始教会の時代の後に、どんな時代が来るかが預言されています。
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(テモテ第二4:3、4)
今は確かにいろんな教派がありますが、一つ共通していることがあります。
それは、イエス様のバプテスマを無視していることです。
福音書に書かれている主のみわざが、ないがしろにされています。
バプテスマを無視し、十字架だけを強調しているのが、今の時代の多数派ですが、聖書にはバプテスマのこと、きよめの洗いのこと、いけにえには罪を移さなければならないことなどが書かれています。
このように、教義と、聖書が対立した場合、優先されるのは聖書だというのが、私の意見です。
聖書には、後の時代には偽預言者が多く起こる、と預言されているのですから、どんな教えも、聖書に照らして確かめる必要があると思います。
真理を見極めるのは、どの時代でも難しかったのではないでしょうか。
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。」(マタイ13:44)とあるように。
だからイエス様はこうおっしゃったのではないでしょうか。
「求めなさい。
そうすれば与えられます。
捜しなさい。
そうすれば見つかります。
たたきなさい。
そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 」(マタイ7:7、8)
【2008/04/12 00:46】
URL | たんぽぽ #- [ 編集]
>たんぽぽさん
僕は聖書が完成された神の言葉とはとても思えません。
現在の聖書は、昔編集されたものです。
カトリックではプロテスタントと違い聖書外伝があります。
また、一般の聖書とは違いトマスによる福音書やマリアによる福音書もあります。
なにを持ってして、今の聖書を正しいというのでしょうか。
【2008/04/12 19:27】
URL | 一重まぶた #- [ 編集]
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