君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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救いがあるから自分の汚さを認めることが出来る
僕が小さい頃から周りにはキリスト教が溢れていた。
両親はクリスチャン、一番仲の良い友達もクリスチャン。
初めて接する他人の大人は教会にいて、社会性も教会から学んだ。
自分の汚さなど目に入る前から救いを与えられていた。
それが良いか悪いかなんてことは知らないけれども。

だけど、僕のような二世クリスチャンとは違い一世クリスチャンの人たちは
救いを与えられたことに多大なる感謝と思い出を持っていた。
それを横目に見ながら羨ましい気持と同時に、埋められない溝を感じていた。
僕にとっては常識だったものが、彼らには文字通り救いだったのだから。

自分の汚さに苛まされて、人生の羅針盤を見失っていたときに見つけた灯台。
夜道を照らす街頭があるのが当たり前の生活。
そのぐらいに僕は救いという光の捉え方が違っていたのだと思う。
確かに、前者の方が感動は大きいだろう。

ただ、この年になって感じることがある。
自分の汚さ、醜さを認めたから救いを受け入れたのではないと。
救いがあるから、自分の汚さや醜さを受け入れることができるんだと。
街灯があるから、夜道を歩けるということを感じるようになった。

僕らの心は決して強くない。
自分の価値を認めずに、自分の汚さや醜さを受け入れることなんて出来やしない。
いつだって誰かに自分の価値を認めてほしくて、受け入れてほしくて仕方が無くて喘いでいる。
仮に何もなしに自分の醜さを受け入れてしまったら、それは心が壊れてしまう。
悲しいほどに、弱さには無力だ。

だから、自分の汚さや醜さを心の奥底に押し込めては疼き続ける心を押し込めて
決して見ようとはせずに自己を確立させていく。
いつだって自分に嘘を言い聞かせながらまるで自分が価値があるかのように錯覚させていく。
そうしなければ、生きることなんて出来ないもの。
自分の汚さを感じていても、決して認めることが出来ない。
僕は、そう思うようになった。

救われている、愛されているということを感じなければ自分の醜さを受け入れることが出来ない。
絶対的な愛を信じていないと、とても自分が醜く価値が無いなんてことは受け入れられない。
救いという恵が先にあり、自分の罪や汚れを知るのが後だった。
自分自身に嘘を吐かずに、ありのままの自分を愛されていると知ること。
それを信じることが、僕はキリスト教の信仰だと思ったんだ。

信仰によって救われるのではなく、恵みを受け取っていることを信仰する。
それが僕にとってのキリスト教であり、君に伝えたいことなんだよ。
それは君の信仰とは遥かに違っていても、そう信じているんだ。

僕はひどく醜く汚い人間だよ。
本当にそう感じる時があるんだ。
だけど、神様はそんな僕を愛してくれた。
そいつは僕の信仰によってなんかでは無くて単なる恵としか思えなくなったんだ。
それは、多分だけれども一生変わらない。
そう感じて、生きていきたいよ。




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