君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
プロフィール

一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



FC2カウンター



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


限定的な愛でも癒される
キリスト教会にいると、愛についてよく聞く。
僕らは神様から無条件で愛されていて、それは最高の愛だと。
無償の愛、ただひたすらに与える愛をアガペーと言ったり、
見返りを期待する愛をエロスと言ったりする。
そんな風に、人間には出来ない神様の愛を強調して人間をくだらなくする。

生まれてきてくれと良かったと言われた時もあった。
だけど、その理由は自分に対して優しくしてくれるというものだった。
僕は、そういった言葉は俗に言うエロスだと思ってくだらないものだと思っていた。
だけど、それはただ単純に僕が僕自身に対して絶望しておらず自分に対して驕っていたからだと
気づいたときに、その言葉が変わった。

こんな僕でも人に優しくしたり、大切に出来たりしたんだなと思えた。
それは、ただ無条件に愛されるだけでは気づくことが出来ないことだった。
そう感じ始めたときから、気づいたことがある。

僕もこれまで他人を無条件で受け入れることが正しいことだと思っていた。
だけど、無条件に愛されてもそれは人間を見ているだけで、その人自身を深く見ることが
出来ていないと感じてしまう。
神様には可能だけど、僕は神様にはなれないことをこれでもかと思い知らされた。
僕自身の矮小さに気がついた。

拙い心しか持ち合わせていない僕のような人間にとっては、限定的な愛にすら癒される。
それが愚かなことだとは思えない。
その人自身が持っている限界の愛を駆使していると思ったからだ。
本来不可能なはずの、全てを受け入れる愛を行おうと演技するよりは
その人自身が持つ限界の愛、限定的だろうが愛することの方が僕は人間味があって好きだ。

あの人が好きだとか、あの人が嫌いだとかに左右されがちな僕らの愛だけれども
それでも、どんな形であろうと愛は癒される。
そう、思えるんだよ。

キリスト教の価値観以外の愛をエロスと決めつけて、アガペー以外の愛が無価値かのように
言う様は、果たしてそれはアガペーなのかなと疑いたくなる時がある。
無条件に受け入れるだけが、愛じゃないと思うようになった。
限定的な愛にすら癒される僕らの心は、本当はとても弱々しい。

だから、悪いことだとは思わない。
条件付きで人を愛することは悪だなんて価値観がキリスト教会に藻のようにこびりついてるけど
もう少しだけ、考え直しても良いと思うんだ。
もちろん、その愛の弊害はあるだろうけれどもそれ以上にやはり素晴らしいと思う。

そう思えば、今の世界も少しはましに見える。
限定的な愛が溢れかえっている世界。
愛が溢れかえっている世界。
少しだけ足りない世界。だけど、減点されているわけじゃない。
そんな世界の見方も悪くはないと思うんだ。

誰もが素晴らしい世界と、悲しい世界を持ち合わせている。
そんな中にある愛。
僕には煌めいて見えるよ。
それを間違っているとは、とても思えないんだよ。







にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。








スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://hitoemabuta56.blog87.fc2.com/tb.php/282-99033dd3



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。