君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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パーフェクトビリーブ パーフェクトスタイル
僕らクリスチャンの落とし穴
それは人を「信じている」か「信じていない」かで決めること
だけど、よく考えよう
信じるとは何か

僕の友達はこう言った
「キリスト教とかはよくわかんない、だけど私神様はいると思う」
彼女は無心論者ではない
だけど、キリスト者ではないと言えるだろう

信じることの意味
それは、心をそこに置くことだ
だけど、じゃあなぜキリスト者どうしですら争いが起きるのか
それは何を信じているかが違うからだ

色んな派閥に分かれている
超教派でさえ、条件がある

そもそも人間に100%の信仰は無理だ
いや、100%になるとそれは精神に異常をきたさなきゃ無理な話だ
なぜなら、人間の精神はそう作られているから
健全な人間の精神はどこかで疑いを残しておく
そうしないと、心がおかしくなってしまうから
だから、僕達にはもともと100%の信仰なんて無理なんだ

だからこそ、神様の愛がある
パーフェクトになれない僕等をパーフェクトにしてくださる
じゃあ、次の疑問だ
何%から神様の愛を受けられるんだい?
90%?
80%?
70%?
60%?
50%?
1%?

個人的にはないと思うんだ
だって、神様は愛の方だろう?
1%でも信仰があれば救ってくださる
さっき言ったように100%の無信仰すらない
どこかでみんな神様を信じている
じゃあ、垣根はどこに?

ないんだよ、垣根なんて

神様は愛の方だ
愛は無条件だろ?
神様の愛は条件つきかい?

信仰よりも偉大な愛
愛そうよ
ぜんぶぜんぶ



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この記事に対するコメント
人間に100%の愛がないように、100%の信仰というものもないと私は思います。
時々疑うこともあるが基本的には信じている、というのが一般的ではないかと思います。

感動しやすい人もいれば、冷静な人もいます。
情熱的に信じていれば信仰が深い、というのも違うと思います。

何を信じているか。
大切なのはここだと思うのです。

現代のキリスト教には、いろいろな派がありますが、一つ共通していることがあります。
それは、イエスのみわざが一つ欠けていることです。
十字架の血については、みなさん詳しく説明できるのですが、イエスのバプテスマとなると、とたんにわからなくなるようです。

イエスがユダの家系の生まれであることは誰もが知っていますが、バプテスマのヨハネの家系を知っている人はほとんどいません。
また、イエスが十字架で血を流された理由は誰もが知っていますが、イエスがバプテスマを受けた理由はほとんど知られていません。
その理由として、謙遜さを示すためだと一般的に考えられていますが、その見解はばらばらです。

救いのみわざを半分しか知らせていないため、現代の教会から命の力は失われています。
この世界ではサタンも働いており、毒麦をどんどんまくのです。
使徒時代の教会でも、パウロがいない間に、すぐに命を失わせる教えが出てきたため、パウロがそれを戒める手紙を書いています。
イエスも、広い道ではなく狭い門から入れ、とあらかじめ警告しておられます。
私たち人間は、神のことばを真摯に受け入れ、よく吟味する必要があると思うのです。
【2008/03/23 23:40】 URL | たんぽぽ #- [ 編集]

>たんぽぽさん
宜しければ、バプテスマ の意味を教えていただけないでしょうか。
僕も、そのことについては勉強不足でした。

また、神の言葉を真摯に受け入れ、よく吟味することが必要だというのは僕も同じ考えです。
【2008/03/26 00:33】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

イエス様のバプテスマの意味を知るには、まず旧約の時代に、罪がどうやって贖われていたかを知るとよいです。

まず、いけにえの頭に、罪人が手を置きます。
そうすると、いけにえに罪が移りました。
そうやって、いけにえに自分の罪を移してから殺していました。
いけにえは、罪を背負ったために殺されました。
手を置いた人の罪は、いけにえに移ったので、その人の罪はなくなりました。
(詳しくはレビ記をご覧ください。)

このように、罪を贖うには、罪をいけにえに移さなければなりません。
イエス様は神の子羊です。
つまり、罪人のためのいけにえです。
だから、私たち人間は全員、イエス様に罪を移す必要があります。

ところが、すべての人がイエス様に手を置いて、罪を受け取ってもらうことは不可能です。
そのために神は、祭司をお立てになりました。
祭司は、罪人の代わりに、いけにえに手を置いて、罪を移すことができます。

旧約の、年に一度の贖いの日には、祭司アロンが、民全員の代わりにいけにえに手を置いて罪を移しました。(レビ記16章に詳しく書かれています。)
この時アロンは、イスラエル人全員の1年分の罪を、一気にいけにえに移しました。

旧約の年に一度の贖いは、新約のイエス・キリストの贖いを預言しています。

人間の罪を全部、すべての人に代わってイエス・キリストに渡した祭司が、バプテスマのヨハネです。
ルカ1章5節に書いてあるように、バプテスマのヨハネは、祭司アロンの家系に生まれました。
神の掟では、祭司になれるのはアロンの子孫だけです。(出エジプト記29章9節)
レビ人は、祭司の手伝いをしますが、決して祭司にはなれませんでした。
もし、ただのレビ人が祭司になろうとしたら、間違いなく死んだでしょう。
これは神の掟だからです。

つまり、イエス・キリストがバプテスマを受けた時、祭司アロンの子孫であるバプテスマのヨハネの手で、すべての人の罪が、イエス・キリストに移されました。

イエス様が十字架へと歩まれたのは、すべての人の罪を背負っておられたからです。
主が宣教を始める前に、まずヨハネのところへ行ってバプテスマを受けたのは、罪をかぶるためでした。
宣教の中でイエス様は、「あなたの罪は赦された」と人々におっしゃいました。
イエス様がそうおっしゃったのは、イエス様がすでに人々の罪を取り除き、その罪を背負っておられたからです。

2千年も前に、イエス様は人間の罪を背負い、すでに裁かれています。
だから実質的にはすべての人にもう罪はありません。
その恵みをありがたく受け取るか受け取らないかは、個人にゆだねられています。
【2008/03/27 23:28】 URL | たんぽぽ #- [ 編集]

>たんぽぽさん
なるほど、勉強になりました
それでは、恵を受け取らなかった人たちの罪は誰が背負ってるんですか?
【2008/03/28 01:16】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

ローマ人への手紙3章を読んでください。
そこに、一重まぶたさんの問いに対する答えがあります。

私は、聖書を全面的に信じています。
たとえ受け入れがたいことが聖書に書いてあったとしても、神のことばが真実だと思います。
一重まぶたさんとの意見の食い違いは、そこにあると思います。

ローマ3:9以降にあるように、すべての人は罪人であり、裁かれる定めにあります。
人に愛があろうが、親切であろうが、生まれつき人の心の中にはどろどろと罪が渦巻いており、そのために人間は裁かれる運命にあります。
神に人を救う気がなければ、人間はとっくの昔に滅んでいたでしょう。

人が裁かれずに生きるのは、恵みなのであって、あたりまえのことではありません。
私たちはそこを勘違いしないようにしたほうがよいと思います。

神が人を裁くのは、罪のためです。
やさしいとか、親切とかいうのは関係なく、誰もが罪を持っているからです。
神は罪人をあわれんでくださっていますが、だからといって、罪を裁かずにいることはおできになりません。
神は愛であり、神聖であり、公正であられるからです。
神は御子を愛しておられますが、それでも御子を裁きました。
神は愛だから、人を裁くなんてそんな愛のないことをなさるはずがない、などと、神を軽んじないほうがよいと思います。

イエス様はすべての人の罪を全部背負ったので、すべての人は救われます。
「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。 」(マタイ12:31)
この聖句にあるように、赦されない罪があります。

罪とは「的をはずす」という意味で、神のことばからはずれることが罪です。
「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」(ヨハネ第一3章4節)

つまり、悪いことをすることだけが罪なのではなく、神の言葉に反することが罪なわけです。

主はパリサイ人たちを非難しておられますが、そのときに何とおっしゃいましたか?

「『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。』」(マルコ7章6-9節)

ここで主が問題にしているのは、人がどれだけ悪いことをしたかではなく、人間の考えを重視し神の言葉をないがしろにしたことです。

人間の目から見ると、とても親切だけど神のことばを信じない人のほうが、姦淫の罪を犯してしまったが神のことばを信じる人よりも、よい人に思えるかもしれません。
ところが神の目には、どうやら逆のようで、神の言葉をかたくなに拒む人のほうを、より重い罪人としてご覧になります。

神は、パリサイ人を非難なさいましたが、ほかの売春婦や取税人たちを罪に定めませんでした。
それは、その人たちが神のことばを信じたからです。
そうすれば、弱さのために犯す罪は贖われます。

神のことばを信じない罪は、贖われません。
それは、パリサイ人の例を見ればわかります。
姦淫の現場で捕らえられた女は、イエス様に「あなたを罪に定めない。」と言われました。

この例は、客観的に読み物として読めば、受け入れられるかもしれませんが、現実に私たちの周りで実際に起こると、受け入れがたいことかもしれません。

人は悪いことをしようとして罪を犯しているのではなく(中にはそういう人もいるでしょうが)、無意識に罪を犯してしまうような弱い存在です。
でも、神のことばを信じることなら、どんな悪人にでも簡単にできます。
しかし、どんなに親切な人でも、神のことばを信じることは簡単ではありません。
神の見方と、人間の見方は異なるということを、心に留めるべきだと思います。
【2008/03/28 16:27】 URL | たんぽぽ #- [ 編集]

>たんぽぽさん
神学的な問題だと思います。
地獄に行く人の罪がどこへ行くのか。
それは論争の対象だと思うのです。
僕も聖書は信じています。
しかし、時代背景は考えます。
その結果、解釈が変わることもあると思うんですよ。
愛があるから裁かないではなく、イエス様が罪を贖ったのならばなぜ裁かれるのか?
という問題です。
【2008/03/30 15:13】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

「信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:16)

「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」(テサロニケ第二2:10)

「真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(テサロニケ第二2:12)

「彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。
あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。
それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。

忌まわしいことです。彼らは、カインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。

まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。

見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。
すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」(ユダ4-15)

「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」(雅歌8:6)

「あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。」(申命記 6:15)

「万軍の主はこう仰せられる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。」 (ゼカリヤ 8:2)


これらのみことばから、何かが読み取れることと思います。
【2008/03/30 22:38】 URL | たんぽぽ #- [ 編集]

>たんぽぽさん
残念なんですが、聖書を細切れにした御言葉では僕は納得できません。
そもそも「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
これは好きですけどね。
また、初代教会の考え方はキリスト教的か?という疑問もあるくらいですしね。
【2008/03/31 02:35】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]


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