君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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信仰と聖書、そして僕の中の黒い箱
随分久しぶりになってしまいました
卒論がとても忙しいです
だけれども、孤独感と自我同一性の研究でまた一つ人間の心理の面白さを知りました

そして、今回の思うこと
信仰と聖書は、実は直接的には結びついていない
僕が思うのは、自分の信仰のあり方が聖書の読み方に影響を及ぼすということ
聖書→信仰ではなくて
信仰→聖書だということ

たとえば、僕は聖書に対してとても懐疑的な人間だ
だからこそ、おかしいものはおかしいと思う
だけれども、聖書は全て正しいと思う人が聖書を見れば
聖書にはなんら矛盾点がなくなるように見える

聖書が人間のあり方を決定するのじゃない
人間のあり方が聖書を決定している
その方が多いような気がするんだよ

だけどね、僕は思うんだよ
聖書を全肯定したら、カナンの虐殺を神様が命じたと信じなきゃいけない
奴隷制度も、旧約時代は神様が許したと信じなきゃいけない
時代時代によって、神様の言うことが違うんだ
だから、僕は聖書の中の神様をただ信じることが出来ないんだ

それは、僕の信仰が劣っているからなのかい?

僕にとってはね、聖書の内容が逐一正しくなきゃいけない理由はないんだ
僕が信じているのはイエス・キリストさ
彼の贖いがあるということを信じている

ああ、神様がこの世の中を作ったということも信じているよ
だけど、同時に進化論も信じている
別に僕にとっては、そこはどうでもいいんだよ
ミジンコから始まったとしても、ミジンコにも意味があるのだと思うのだし

僕等の信仰の根源とはなんなのだろうね
聖書と言っても、神学の壁が色々な宗派に見てとれる
僕は、一致というものはどうなったらありえるのかすら分からないよ

だけどね、君と話したいというのは本当なのさ
もし、君のことを全て理解できたとしたら話す必要なんてないだろう?
だから、僕は君と話したいのさ







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