君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
プロフィール

一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



FC2カウンター



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


理論的に批判
今日は理論的にキリスト教のおかしいと思うところを批判したい
まず、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」
次に、「イエス・キリストを信じなきゃ救われない」
これは、どっちでもいい
主観的な判断で分かれることだ
人によってどっちにもなるさ

問題は、イエス・キリストを信じると救われる
これだけだ
つまり、イエス・キリストを信じないと救われない
そういうことだ

じゃあ、知能的に信じられない人は?
もちろん地獄に行く
ということにはならない
知的障害者に至っては
純粋だから、霊的に直接神様の霊を受けていると言うのをよく聞く
だけど、聖書のどこに書いてあるかを教えて欲しい
知能と霊的なものって関係あるのかな?
そうしたら、知能指数が高ければ高いほど、霊的に離れているって言っているのと同じだと思うんだ

そして、幼児はどうなる?
日本においても、殺人犯の最少年齢は2才だ
つまるところ、幼児でも罪を犯す
そういう子はどうなるんだ
正直、信仰義認説の人の意見を聞きたい

そういうわからないところは神様に任せるとも聞く
だけど、実際君達は信じなければ救われないと言っているだろ?
なのに、その責任を全て神様に任せて自分達のわかるところしか話さない
その姿勢は不誠実だと思う
なのに、自分達は正しいという姿勢は変えない
それを、人は傲慢と呼ぶ

僕は、そう思うよ




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン
スポンサーサイト


この記事に対するコメント
>責任を全て神様に任せて自分達のわかるところしか話さないその姿勢は不誠実だと思う
そうでしょうか?もともと人間は全ての責任なんて負えない不完全な者なのですよ。
わからない事を正直に言う姿勢は誠実であり,わからないのにわかったふりをして話すのは逆に不誠実だと私は思いますが?
知る必要が人間にはないので神様は聖書にはっきりと明記しなかった。
逆に全てを知ろうとする事は、神のようになろうとする傲慢の罪にもつながると思います。
クリスチャンは謙遜であるべき、思うべき限度を越えて思い上がってはいけないという教えもあるので自分をわきまえてわからない事はわからないと話しているのです。
だから傲慢と呼ぶにはかけ離れていると思いますが?

【2008/09/26 15:07】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
わからないことは、わからない、理由もわからない。
だけど、神様が言っているから正しい。
その理論は神を信じるクリスチャンには通じなく、自己の絶対性は同じコミュティの中だけのものです。
それをノンクリスチャンにも通用すると思うのが、傲慢だと言っているのですよ。
そして、知る必要が無いから聖書に書いていない?
それは、聖書のどこに書いてあるのでしょう。
【2008/09/27 02:57】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

>その理論は神を信じるクリスチャンには通じなく、自己の絶対性は同じコミュティの中だけのものです。
そうでしょうか?
私にとって神を信じるクリスチャンとは、神の家族という同じ大きなコミュニティのものであり、その方々と意見は一致しています。
そして別なコミュニティのノンクリスチャン(私からすると信仰義認を否定する方もその中にいる)もその理論が全く通じないわけではありません。
>わからないことは、わからない、理由もわからない。
だけど、神様が言っているから正しい。
ヨブ記はその事を記してあります。そして私が言うクリスチャンという人たちもそのヨブ記から人間の知識の限界と愚かさと神の正しさを信じています。
>ノンクリスチャンにも通用すると思うのが、傲慢だと言っているのですよ
先にも書いたようにノンクリスチャンであっても幼子のように、素直に耳を傾け理解する方もいますよ。
一重まぶたさんや他の方々に傲慢だといくら言われても、神様だけが正しい評価が出来る唯一の御方であるので、私達は神様の評価に希望と価値を置いています。
>聖書のどこに書いてあるのでしょう
聖書に書かれていなくてもわかりませんか?
聖書は人の必要の為に与えられた書物です。
そこに明記されていないという事は、私達が知らなくてもいい事の範囲ではありませんか?
【2008/09/27 23:13】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
聖書には、三位一体も書かれていない話ですよ。
そもそも、聖書に書いていないことは人間に必要ないと言うのなら、育んできた知識をも放棄しようとしている。
それは、飢えた子供に魚だけを与えて釣りの仕方を教えないこととよく似ています。
そもそも、ノンクリスチャンに通じると言うのはそういう意味ではありません。
自分達が正しいものがあるのと同じく、ノンクリスチャンにも同じようなものがあります。
つまるところ、それは「信仰」です。お互いに信じるしか出来ないもの。証明できないもの。
しかし、クリスチャンはそれをさも事実のように話す。
証明も出来ないのに、自分の考えを絶対にする。
その態度が、傲慢だと言っているのです。
【2008/09/28 23:33】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

>育んできた知識とありましたが、前回も書いたように人間の知識には限界と愚かさがあります。

>ノンクリスチャンにも同じようなものがあります。 つまるところ、それは「信仰」です。
そうでしょうね。熱心な仏教徒やイスラムの信徒もその他の宗教の方々もクリスチャンと別なものを信じて「証明も出来ないのに、自分の考えを絶対」としていますが、一重まぶたさんに言わせれば彼らも傲慢なのでしょうね。
それなら多くの人がそれなりに「証明も出来ないのに、自分の考えを絶対」として生きていますよ。
ならばクリスチャンに限らず、全世界の多くの方々が傲慢ということになりますね。
【2008/09/29 01:39】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
ええ、まさしくその通り。
だから、クリスチャンには傲慢になって欲しくないんですよ。
【2008/09/29 02:03】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

なぜ、他の方々は傲慢でいてよくて、クリスチャンは傲慢でいてほしくないのですか?
一重まぶたさんは、自分は傲慢の人々の一人だと思われますか?
傲慢でいてほしくないからと、批判する矛先がクリスチャンのみという事は、偏った意見だと思いませんか?
【2008/09/29 08:42】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
別に他が傲慢でいいとは言ってませんよ。
ただ、愛を謳っているのに傲慢であることはおかしいと思いませんか?
【2008/09/29 23:28】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

他の宗教も慈悲や愛を語っていますよ。

クリスチャンの伝える愛は神様の愛であり、神の前に傲慢なこの世の全ての人間は、救われて新しく生まれることにより、神の愛を求めて生きれるようになると語っているのです。
そして救われても、自己中心の罪の性質がまだ残っているので傲慢な時もあるので、クリスチャンは愛を追い求めなさいと言っているのであって、傲慢やその他の罪を犯さなくなるとは聖書は書いていません。
だから愛を語っているのに、傲慢であることはおかしくはありません。

ま、一重まぶたさんのステージ上ではおかしいままなのでしょうけど。

2番目の質問は答えていただけませんか?
【2008/09/30 07:57】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

上記の、かあちゃんさんのお話が、私の心に沁みました。
確かに、この私自身がいつも言ったりやったりしていることは、全て傲慢から来ています。
自分はブレていない(これも傲慢からくる思いですね(笑))と思って、
自分のこの言動は謙虚だと思ってやっていることさえも、突き詰めていけば傲慢な思いから来ていて、歩んでいることばかりです。
この傲慢は、この自分からは絶対にいつどんな時も無くならないでしょう。
でも、それを神は、この傲慢の塊な私を、このままで、許してくださっている、ということですね。
(うーん、こう思うことさえも傲慢か・・(苦笑))

かあちゃんさんからいただいた、今日のこのヒントを、ちょっと大切に心に留めておきたいと思います。
ありがとうございます。感謝します。
【2008/09/30 12:49】 URL | Mie #mQop/nM. [ 編集]

Mieさんの心に働いて下さったのは、私ではなく神様です。
神様に栄光をお返しします。
Mieさんは深くご自分の内面を日々見つめられているのですね。
>この傲慢の塊な私を、このままで、許してくださっている
私もそれを感じて感激し、涙する事が多いです。
それは傲慢なことではなく、何もできない弱い存在だと認め、だから神様が必要でなのですという神の前に心砕かれて、へりくだらされた姿だと思います。
そんなぼろぼろの私達を神様はさげすむことなく、「高価で尊い。私はあなたを愛している。あなたの罪は許された」と言って下さっています。
だから人は立ち上がって、再び歩み出すことが出来るんですね。

本当に感謝です。神様、ありがとうございます!!
【2008/09/30 17:41】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
ああ、僕はとても傲慢な人間でしょう。
また、それを直そうとしてもうまく出来ない。
本当はかあちゃんさんとも、もっと話したいのに。
自分のプライドとブログのランキングとかを気にしてうまく出来ない人間ですよ。
ただ、僕はその解決方法を神様に任せることが出来ナック、心理学で何とかしようとしてしまうんですよ。
ええ、確かに浄土真宗などはある意味でキリスト教に近いですよね。
そして、あなたが言ったのと全く同じように傲慢であることを受け入れることは素晴らしいことです。
しかし、傲慢であることを是とするの、それは違うでしょう?
また
>クリスチャンの伝える愛は神様の愛であり、神の前に傲慢なこの世の全ての人間は、救われて新しく生まれることにより、神の愛を求めて生きれるようになると語っているのです。

ならばこそ、傲慢である部分を見つけたら同じ共同体の人間としてそれは、傲慢じゃないのかと言うのはそんなにもおかしいことでしょうか。

また、「世界の多くの人々が証明も出来ないのに自分の考えを絶対視している」
正にその通りです。それは、なぜか。知識が足りないからだと僕は思っています。
なぜなら、僕もまた信仰では無くて知識により、それを知ったからです。
ならばこそ、信仰の大切さが分かる。
なのに、自分の信じている場所でも相も変わらず、知識を捨て信仰のみを是としている。
それを、おかしいと僕は言っているのですよ。

>Mieさん
傲慢であること、全てが神様は受け入れてくれる。
確かに、その通りですね。
深い愛、そう深い愛です。
だけど、自分の中にある傲慢な思いが自分を傲慢であることを拒絶する。
僕は、そう感じていますね。
わけがわかりませんね。
【2008/10/01 01:14】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

何か今までに無く質問をそのまま答えて下さり、一重まぶたさんが私と向き合ってくれたような気がしました。
ちょっとうれしかったです。

>傲慢であることを是とするの、それは違うでしょう
うーん、人間的にはそう思いたいところですが、一重まぶたさんの嫌がる聖書からの知識によると、罪の性質のひとつである傲慢さは救いを受けても残り、クリスチャンはその事で悩まされますが、だからこそ高慢にもなかなかならないものです。
自分にはそれはあると認める事は真実を認めることだから、わたしは是としていいと思います。
>傲慢である部分を見つけたら同じ共同体の人間としてそれは、傲慢じゃないのかと言うのはそんなにもおかしいことでしょうか。
一重まぶたさんが同じ共同体の人間として、私達を見ているのは驚きです。
同じ共同体なら聖書の全てを認め、神様の御心を行おうとすると思います。
>解決方法を神様に任せることが出来ナック、心理学で何とかしようとしてしまうんですよ
このような生き方をクリスチャンは無意識でやってしまって、悔い改める事こそはあっても、これを公言して神様を頼っていないと宣言するなら、残念ながら共同体を同じくはやはり出来ていないでしょう。
きつい言い方かもしれませんが、一重まぶたさんは神様に対して降参をしていないのですよ。
神様の提示したものでは不満だと、神様と戦っているように私には見えます。
それは気がついたら傲慢だったというものではなく、あからさまな傲慢の罪であり神への挑戦だと思います。

>「世界の多くの人々が証明も出来ないのに自分の考えを絶対視している」
正にその通りです。それは、なぜか。知識が足りないからだと僕は思っています
そうでしょうか。
私は人は自己中心の塊だから、自分の考えが一番だと考えるのだと思います。
そしてその原因は、その中に神様がいないからだと思います。
神中心の考えに変わればだれもが自分が一番と思わず、神様の御心を分かち合う互いを思いやるものになるのではないでしょうか。

一重まぶたさん、完全な知識は神様のもとにあります。
その神様に信頼して信仰を持って生きる事は、崇高で完全な知識に導かれて生きることだとわたしは思うのです。
【2008/10/01 08:29】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
心を開くとこうなると思っていたので、今までそうしなかったんですよね。

あなたが僕を同じ共同体として見てくれていないことにとても心が痛みます。
僕も、イエス・キリストの贖いを信じているのに。
分かりますか?あなたは、僕をクリスチャンはないと言ったんですよ。
あなたは、僕を聖書に従っていないと仰いました。
しかし、僕にはあなたが聖書に従い神様に従っていないように見えます。
あなたは、自分の思いを神様の想いとしていることに気がついていない。
あなたは、神様の偉大さをまだ分かっていない。
ここまで言うのは心が痛みます。

>私は人は自己中心の塊だから、自分の考えが一番だと考えるのだと思います。
そしてその原因は、その中に神様がいないからだと思います。

理論で確立しているものをわざわざ、神様に頼るのですか?
あなたが言う神様はなんですか?あなたの中の神様は僕と違う。
しかし、あなたは僕を否定する。聖書を使い、自分の言葉を神の言葉として。
僕は確かに攻撃してくださいと言いました。しかし、それは聖書を使ってじゃありません。あなたの言葉で僕を攻撃して欲しかった。
自分の思想が正しいものだとし、それ以外を否定する。
なぜ、その様なことが出来るのでしょう。
【2008/10/03 03:08】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

>あなたが僕を同じ共同体として見てくれていないことにとても心が痛みます
私も残念です。
残念ながら私達と一重まぶたさんとの共通点は>僕も、イエス・キリストの贖いを信じているのに という一部分なのですから。
それならサタンも信じていますよ。
>あなたの中の神様は僕と違う。と御自分でも認めておられるのですから、親が違うのに同じ親を持つ兄弟としての家族だとは言う事はできません。

>僕にはあなたが聖書に従い神様に従っていないように見えます
一重まぶたさん、この今の時代に、聖書に従う以上に神様に従う術というものがあるのですか?また一重まぶたさんの神様に従うという事は、どういうことを意味するのですか?
自然も世の中にある物からも神様の愛を感じる事は出来ると思いますが、具体的に
人間の言葉ではっきりとわかる従うべき神様の教えが他にあるのなら、ぜひ教えて下さい。
>自分の思想が正しいものだとし、それ以外を否定する。
私は単なる思想を、こんなに時間を使ってまで話しているわけではありません。
正確には「自分の神を正しいものだとし、それ以外を否定する」です。

【2008/10/03 09:08】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
ああ、あなたには正しい信仰を見分ける目がおありなのですね。
ならば、そのコミュニティはさぞ素晴らしいものでしょう。

>一重まぶたさん、この今の時代に、聖書に従う以上に神様に従う術というものがあるのですか?また一重まぶたさんの神様に従うという事は、どういうことを意味するのですか?
ああ、通じませんでしたか。
あなたは、聖書を知らない。聖書を認めてすらいないと言っているんですよ。
偽パウロ書簡については、どのようなお考えですか?

>正確には「自分の神を正しいものだとし、それ以外を否定する」です。
ああ、その通りですね。
なぜ、それが正しいと言えるのかが疑問です。
神学が腐るほどあります。
なぜ、あなたの神学が一番正しいと言えるのでしょう。
【2008/10/04 00:47】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

>偽パウロ書簡については、どのようなお考えですか?
以前一重まぶたさんは
「だけど、パウロの言葉を全部鵜呑みにしてさしかも、新約聖書の中のパウロの言葉は実際は何個か偽パウロ書簡なんだぜ?歴史的背景もすっとばすし」とブログに書いていましたけど、多分その思想等により聖書が全部神の言葉ではないという立場に立たれているのですね。
ではパウロ書簡が偽典であり正典ではないと思われているようですが、だからと言ってそのような理由で現在も過去も、パウロ書簡が抜かれて作られているような聖書はありませんよね。パウロ書簡が含まれる66巻の聖書が幾世紀もの間、世界のベストセラーであることからも神がその聖書を支持し、その存在を維持しているのだから私はパウロ書簡も神の霊感を受けた正典であると信じています。
>神学が腐るほどあります
本当にそうですよね。あるものにこう書かれていました。
「全ての「神学」は「誰かが聖書からの特定の部分を選びだした物にすぎない」と言う事なのです。と言うことは「神学」と言う物は確かに元は全て聖書から出ているけれども全ての「神学=聖書ではない」と言うことなのです。聖書研究は、ある時には帰納的に無心に聖書を読み、またある時には演繹的に一つの主題について聖書を読み、そこに見いだされる一致点と矛盾点を調整しながら、時間を掛けて読み進んで初めて、聖書の真の理解に至る事が出来るのです」と。
一重まぶたさんは聖書を通読されていますか?
私は歳をとっていますので、30年以上聖書を創世記から黙示録まで繰り返し読んでいますが、その中で聖書が語っている主なメッッセージは
イエスキリストは人間の姿を取られた神である。
聖書は人間が書いたけれども神の言葉である。
教会は人間の集まりだけれども神の所有物である。
神様が世界を作られたけれどもやがて世界を滅ぼされる。
神様が作られた世界は完全であったのに人は罪を犯した。
その人を罪から救うために、イエスキリストはこの世に来られた。
イエスを救い主と信じ悔い改めた者だけが、恵みによって永遠のいのちを受ける。
というものです。(細かくはまだまだいっぱいありますが)
>なぜ、あなたの神学が一番正しいと言えるのでしょう
これは私の神学ではありません。なぜなら聖書からの特定の部分を選びだした物ではなく、色々な聖書箇所で繰り返し語られている神のメッセージであり、多くの者が先入観を挟まず聖書を読みそう理解しています。
聖書が神の言葉だと信じているなら、聖書が言っている事は神の言っている事なので正しいという事になります。
【2008/10/04 12:11】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
いや、聖書が今の形をしているのは、それこそ後世の人間の仕業でしょう。
会議で決まったものですよ、聖書は。
そういうのを歴史的背景をすっとばしていると言っているんです。
あなたの主張は神学の問題ですよ。
そもそも、イエスキリストが神様だと言うのも、一神学の一つですよ。
それなのに、自分は聖書どおりだと言っているのがおかしいと言っているのですよ。
【2008/10/06 23:46】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

横から失礼。

>そもそも、イエスキリストが神様だと言うのも、一神学の一つですよ。

その通りだと思います。

マタイ27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マルコ10:18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。

私は45年以上、何度も聖書通読してきました。これらの聖句を素直に読めばイエスと神は別の存在で、あくまでも神は一つ(ひとり)です。(エフェソス4:5.6)
【2008/10/07 10:07】 URL | 辻風 #yY6XORug [ 編集]

ついに私達は聖書の正統性にまで議論が及びましたね。
ええ、ええ。一重まぶたさんの言いたい事は理解できます。
その考えは私とは全く違いますが、あなたがそれを信じている事は一重まぶたさんの自由だし、それは違うだろと押し付けるつもりで言うのではない事を前提に、あなたの考えは考えで尊重しながらも自分の考えを書かせていただきます。

>聖書が今の形をしているのは、それこそ後世の人間の仕業でしょう。
会議で決まったものですよ、聖書は
会議で決まった事というのは一部認めます。
でもそれは私達が人間の親によって生まれたと言ったからとして、その事自体で神様が私達に命を下さり、生かして下さっているという事実を否定しないのと同じだと私は思います。
つまり言葉が不適切かもしれませんが親は媒体であって、二ケア会議も媒体として神が用いたものだと私は信じています。
一重まぶたさんはどうかわかりませんが、クリスチャンは全ての事は背後で神様が支配していると信じています。
この世の中のもので何一つ神様が許さないで起こった事は無いとも信じています。
この地を支配していると思い込んでいるサタンでさえも、ヨブ記を見ると神様の了解なしにはヨブの周囲に災いを起こせませんでした。
だから御自分の事を世に広めようと用いられた聖書が今の形態をとっている事は、神がその現状を認め、許されている事だと私は思います。
もし、それでは神の伝えたいことが伝わらないと神が判断されたのなら、二ケア会議なども御心のままに内容を変えることも、止めさせることも何とでも万能のお方なので出来るのですから。
ある人によると「新約聖書に入る27冊は突然会議によって定められたのではなく、それらが書かれた紀元後60~90年代に相当数が複写され、各地に散らばっていた。
福音書は文字通り福音を伝えるためであって、当時の教会は熱心に福音書をコピーし、利用した。そして、異端論争の中でも耐え抜いて、初代教会のメッセージとして妥当だと思える書物27冊が選ばれた。これも誰かの権力ではなく、教会がそれまでの間にすでに使っていたものを公認するという形であった。」とあります。

>イエスキリストが神様だと言うのも、一神学の一つですよ
前回も書きましたように「神学」は「誰かが聖書からの特定の部分を選びだした物である」という観点から言いますと、このテーマはその域をはるかに超えてしまっていると思います。
新約聖書が形となる前から、イエスこそ神である事を御自分で主張したがためにユダヤ教指導者たちから憎まれ十字架にかかったのですから。
神学や聖書だけの主張ではなく、神ご自身や弟子たちの主張として「イエスキリストが神様だ」というものがあったのです。
そしてこれも同じくある人が「イエスの神性は、聖書自身が示すようにイエスの死後すぐに弟子たちが公に述べ伝えた事であり、その事ゆえに迫害に遭い、殉教しても「イエスの復活による神性」を否定しなかった。これは、イエスが誰であるかを一番良く知っていた弟子たちが迫害の後にほとんどが殉教した(イエスを神と言わなければ死なずに済んだという状況で)という事実が、イエスが神なのか、ただの人なのかを示しているように思える。」と言っています。
そして私もそれに同感です。「イエスキリストが神だ」という事は神学ではなく真理なのだと私は言いたいのです。
【2008/10/07 13:27】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

辻風さん、お久しぶりです。45年以上、何度も聖書通読してきましたとあるのはとても素晴らしい事です。
さてその2か所だけ取り外して読むなら、キリストは神ではないと一見思ってしまいますが、全体を通読した上でその2か所を読むなら別の答えが出ませんか?

キリストの神性については、8月21日のこのブログの中で辻風さんにもコメントをしている通りです。
【2008/10/07 14:20】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

かあちゃんさん、私も長い間組織に属していましたからあなたの立場は良く理解できます。
しかし是非心を白紙にして聖書を読まれることをお薦め致します。

>キリストの神性

聖書ではイエスは宇宙第二位の方ですから「神性」を帯びておられるのは当然です。それはもう良いです。

>さてその2か所だけ取り外して読むなら、キリストは神ではないと一見思ってしまいますが、全体を通読した上でその2か所を読むなら別の答えが出ませんか?

かあちゃんさん、それは逆でしょう。イエスに関する記述ではイエスが神であるかのようにも読めるはほんの僅かです。圧倒的多くは上記のようにイエスと神を分けています。

まぁ、あえて百歩譲って・・お聞きしますが、私が指摘した聖句から詳細にお答えください。

①これらの聖句は具体的にはどのように(あなたは)解釈されますか?

②当時、そのイエスの言葉を直接聴いた人たちは、イエスの述べられた「神」と「イエスご自身」は別の存在であると自然に理解したのではないのでしょうか?

(当時の庶民はそのまま素直にその言葉を聴き理解したと思いますが・・)
【2008/10/07 16:20】 URL | 辻風 #yY6XORug [ 編集]

辻風さん、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」この十字架上での言葉は、幾世紀もの人の全ての罪を背負い、神からの強烈な怒りの罰を身に受けられたイエス様の、神から見放され見捨てられた心の痛みや完全な孤独に対する嘆きを表していると私は思います。
そして、本来この罰を受けるべき私達人間が発すべき言葉を、人としてこの世に来られたイエス様が身代わりに云って下さったと解釈しております。

マルコ10:18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない
神ひとりのほかによい者はないのだから、わたしを良きものというのなら私は神なのだと言っていると解釈しています。

>当時、そのイエスの言葉を直接聴いた人たちは、イエスの述べられた「神」と「イエスご自身」は別の存在であると自然に理解したのではないのでしょうか当時の庶民はそのまま素直にその言葉を聴き理解したと思いますが・
そうでしょうか。マタイ27:47ではエリヤが来ると勘違いしているものもいたのですよ。
人がこの2か所のイエス様の言葉からどう理解したかは記述がないので、想像の域でしか判断出来なく、ここから「神」と「イエスご自身」は別の存在であるとの判断はできないと思います。
庶民というくくりではなく、いつもイエス様は「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言っていましたし、弟子には神の国の奥儀が知ることを許されていましたが、群衆には許されていないともマタイ13:11などで言われていますよ。

【2008/10/07 23:22】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>辻風さん
僕もイエス様は神様だという立場をとっています。
イエス様は人、そして神様。
矛盾していますよね。
でも、矛盾しててもそういうものだと思えばいいと思うんです。
もちろん、根拠はありませんが。

>かあちゃんさん
神様の霊感によって、会議が正当だと言うのもあなたの信仰です。
それをとやかく言うつもりはありません。
しかし、それを真理とする術などありません。何度も言いますが、あなたの「信仰」です。
ですから、他のものを否定することなどあなたには出来ないのです。
前にも言いましたがカトリックは外伝を使っています。
しかし、あなたはそれを否定する。
それは、信仰ではありません。単なるきめつけです。
また、弟子達が殉教したから神様?
他宗教でも同じような話はあるでしょうが。
【2008/10/08 00:27】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

クリスチャンの考えが、単なる決め付けであり信仰。
それもあなたの考えとして尊重します。そして神様の評価を仰ぎます。
>また、弟子達が殉教したから神様? 他宗教でも同じような話はあるでしょうが。
省略されると全く違う話になってしまいますね。
私は「弟子達が殉教したから神様なのだ」と言ったのではなく、神学や聖書だけの主張ではなく、聖書が完成する前にも神ご自身や弟子たちの主張として「イエスキリストが神様だ」というものがあったという事を言ったのです。
【2008/10/08 08:22】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

一重まぶたさん、

>矛盾しててもそういうものだと思えばいいと思うんです。

もちろん、そのような考え方もできますがこのスレの主旨とは異なるように思います。それはどうでも良いのです。

私の述べたい点をレスの流れで汲んで戴きたいのですが・・

(聖書が全部史実だとしても)
イエスは神ではないという解釈も可能であり、
非聖書的だと決め付けられない、要は神学(解釈)の一つであると言うことです。

あれほど歯に衣を着せなかったイエスが本当に神ご自身でしたらでしたら、しつこいほど「私は神の子である」でなく、「実は私は神だ」と言われたと考えます。

イエスの言葉を曲解して偽証(イエスが己を神と同等にした)として杭にかけようとしたこともそれ(イエスはご自身を神とは述べておられないこと)を示しています。マルコ14章等

しかし、これはあくまでも聖書を史実としたステージでもこのような解釈も可能だと言うことで、私の信念と言う訳では有りません。
【2008/10/08 21:26】 URL | 辻風 #yY6XORug [ 編集]

>かあちゃんさん
キリストの神性については、辻風さんが仰るように議論の対象となっており、結局のところ信仰です。
そして、神様の判断を仰ぐと仰いますがどうやってですか?

>辻風さん
確かに、論点がずれていましたね。
聖書を使い、利用する場合やはり自分の考えがどうしても入るものですよね。
【2008/10/08 22:34】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

一重まぶたさん、仰ぐとは教え・援助などを求める。請う等です。
神様の評価をどう仰ぐのか、もちろん祈り求める事です。
「私が神様の御心に反するような発言をしているのなら、間違いを教えてください。神様が判定して下さい」と祈るのですよ。
もし私が罪を犯したり御心に反するものがあるならば私の中にいる聖霊様が、御言葉や心の平安等を通して示して下さいます。
【2008/10/09 09:11】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

かあちゃんさん、私の質問の要点とは微妙に異なるお答えでしたが・・

>神からの強烈な怒りの罰を身に受けられたイエス様の・・
>人としてこの世に来られたイエス様が・・

それでイエスが人としておられた時、天には神は存在していたのですか?神がイエスに成って来られたのであればどうでしょう?

それとも三位一体論から言えば分身されたのでしょうか?詳しく説明して戴けますか?

難しい理論ではなく、ご自身はどのように理解しておられますか?

>そうでしょうか。マタイ27:47ではエリヤが来ると勘違いしているものもいたのですよ。

それで神と勘違いした訳ではないことが分ります。

>人がこの2か所のイエス様の言葉からどう理解したかは記述がないので、想像の域でしか判断出来なく、ここから「神」と「イエスご自身」は別の存在であるとの判断はできないと思います。

いえ、平易な言葉ですから、判断という小難しいことではなく、聞いた通りに受け入れたと思いますが・・

>庶民というくくりではなく、いつもイエス様は「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言っていましたし、弟子には神の国の奥儀が知ることを許されていましたが、群衆には許されていないともマタイ13:11などで言われていますよ

私は庶民に拘っていません。しかしコリント第一1章後半には「神は世の中の愚かな者や弱い者や見下された者たちを選んだ」ともあります。

どちらにしても聖書を読む時には、話の中に自分が存在しているほど感覚を総動員すると良いと思います。

そして先入観を脇に追いやり、「この聖句に対する今までの私の理解は本当に正しいのだろうか?」「私は特定の専門家の意見、組織の教えを鵜呑みにしているのではないのだろうか?」等、常に自己吟味することが必要だと思っています。自己満足に陥らずに、自分の心を正直に見つめることがとても大切だと私は思っています。
【2008/10/09 19:45】 URL | 辻風 #yY6XORug [ 編集]

かあちゃんさん、ここは随分長くなりましたが、もう一つの質問をお許しください。

例えば、人が「イエスは創造神では無いが、天の領域から遣わされた神の子(霊的存在)で、神と人との架け橋となり人類のために贖罪をしてくださった」ことを信じた場合、何か罪になるのでしょうか?そしてどんな実害があるのでしょうか?その答えの聖書的裏付けはありますか?(ヘブライ5:7~10、9:11.12、コリント第一15:28、ヨハネ第一3:23、4:1~3.)

【2008/10/09 22:44】 URL | 辻風 #yY6XORug [ 編集]

>かあちゃんさん
信仰心は苦痛をやわらげる効果があることが、学会で証明されました。
よって、平安を得るだけでは聖霊の証明になりません。
むしろ、「私が正しいのなら困難をあたえてください」と祈る方が顕著に神様の栄光があらわれるのではないですか?
【2008/10/10 01:18】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

辻風さん
>それでイエスが人としておられた時、天には神は存在していたのですか?
もちろんです。そうでなければ誰が天から「これは私の愛する子」と言ったのでしょう。
>三位一体論から言えば分身されたのでしょうか?詳しく説明して戴けますか?
繰り返しますが8月21日のこのブログでのコメントで「三位一体については、本当に私の理解をはるかに超えていますが聖書の記述で信じるに十分だと思っています。」としその理由もそこにコメントしてある通りです。

>先入観を脇に追いやり、「この聖句に対する今までの私の理解は本当に正しいのだろうか?」「私は特定の専門家の意見、組織の伝統的色眼鏡の影響を受けていないだろうか?」等、常に自己吟味することが必要だと思っています。
ご忠告ありがとうございます。
組織組織と会社やグループと同じに教会を見ているようですが、教会は神の牧している群れであり、そこから離れるなとも聖書に書いてあります。
そこには独りよがりなカルト的な信仰になってしまわないようにとの神様の配慮もあると思います。
そして教会はエペソ3:10で「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」とあるように神の知恵が示されるところです。
その教会が握っている信仰の確信が伝統的色眼鏡と呼ばれても、辻風さんが考えるところの教会ってそう見えるのだとしか言いようがありません。
>自己満足に陥らずに、自分の心を正直に見つめること
そうした結果が辻風さんの以前のコメントにあった「サタンの主なソースは聖書ですから一応その前提で申し上げました。私は聖書の否定者では有りませんからヨブ記にしても全て嘘だとは思いません。『捏造もある』と考えていますから、記述の取捨選択方法(出来る限り客観的な)そして解釈方法を模索中です。」等という思想を生んでしまったのですね。
>人が「イエスは創造神では無いが、天の領域から遣わされた神の子(霊的存在)で、神と人との架け橋となり人類のために贖罪をしてくださった」ことを信じた場合、何か罪になるのでしょうか?そしてどんな実害があるのでしょうか?その答えの聖書的裏付けはありますか
まずイエス様は創造神です。(箴言8章、へプル1:10、ヨハネ1:3、コロサイ1:16)
それに創造神ではない神を、ユダヤ教からキリスト教になった初代教会のクリスチャンが神とは呼ばないでしょう。
実害ですか?私は神様のご計画の一部分しか知らないものです。
私は審判者ではないのでその辺の細かな部分は分かりませんし、私がコメントすべき事ではないと思います。
ルカ 12:47,48には「 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。」とあるように私達の状況によって同じことをしてもしかられ方は別だとあるので、人間にははかり知れません。

一重まぶたさん
>平安を得るだけでは聖霊の証明になりません
そうですか?イエス様も「私が与える平安は世が与えるものとはちがいます。」と言っていますが?

>「私が正しいのなら困難をあたえてください」と祈る方が顕著に神様の栄光があらわれるのではないですか
それならなぜ初代クリスチャンも現代のクリスチャンも、そう祈り求めないのでしょうね。その祈りの中にはその困難を受け入れるという決意があるのでしょうか。
人は困難がある時にすぐ神に助けを求める弱い存在ではありませんか?
クリスチャンはそんな弱い自分の本質を知っているから、「困難を下さい。そしてその後の後始末もお願いします」というような祈りはしないと思います。

【2008/10/10 14:45】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

かあちぁんさんのご返信に感謝します。
下記の点で参考になりました。

>本当に私の理解をはるかに超えていますが聖書の記述で信じるに十分だと思っています。

やはり、理解出来なくても信じるべき分野でしたか・・

>自己満足に陥らずに、自分の心を正直に見つめること
そうした結果が辻風さんの以前のコメントにあった「サタンの主なソースは聖書ですから一応その前提で申し上げました。私は聖書の否定者では有りませんからヨブ記にしても全て嘘だとは思いません。『捏造もある』と考えていますから、記述の取捨選択方法(出来る限り客観的な)そして解釈方法を模索中です。」等という思想を生んでしまったのですね。

それもありますが、何度も申し上げましたように今回は「聖書を全て史実として」論考させて戴きました。

ですから、今回は捏造の可能性があるとして取り上げたものは御座いません。ご指摘のレスは論点や前提が異なっています。

>実害ですか?私は神様のご計画の一部分しか知らないものです。
私は審判者ではないのでその辺の細かな部分は分かりませんし、私がコメントすべき事ではないと思います

あれ、そうでしたか?

一応、かあちゃんさんの信仰の基盤やその優先順位が分りましたので私の胸に収めさせて戴きました。
【2008/10/10 20:20】 URL | 辻風 #yY6XORug [ 編集]

>かあちゃんさん
その聖句は確かに正しいでしょう。
しかし、その平安が感覚的なものなのか、それとも天国に行った後に訪れる平安なのかは分かりませんよね。
あなたは、それを正しく判断できるのですか?
そして、困難を与えてくださいと祈った方がいいと言ったのは、信仰心があるだけで平安なんてものはあるんです。
それを神様から来ているとすれば簡単ですが、それは別にキリスト教に限ったことではないんですよ。
だから、正しくなくても平安なんてものはあるんです。
それよりも、何かかしらのハプニングやアクシデントを望む方がはっきりと僕の目にもわからせられるんじゃないですか、と言っているのです。
【2008/10/10 22:42】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

>その聖句は確かに正しいでしょう。
しかし、その平安が感覚的なものなのか、それとも天国に行った後に訪れる平安なのかは分かりませんよね。
一重まぶたさんが正しいと言った聖句は次の通りです。
ヨハネ福  14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
この聖句ではっきりと「残す」とイエス様はおっしゃっています。つまりこの世に置いて行くという事です。
使徒 9:31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて「平安」を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った
2ヨハネ 3 真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと「平安」は、私たちとともにあります
と別の聖句にもあるようにイエス様が天に帰られても、地上の教会やクリスチャンに神様の平安は残り今もあるのです。
>信仰心があるだけで平安なんてものはあるんです
そうかもしれませんが、だからと言ってイエス様の約束された「世が与えるのと違う平安」がこの世に存在しないことにはなりません。
>それよりも、何かかしらのハプニングやアクシデントを望む方がはっきりと僕の目にもわからせられるんじゃないですか、と言っているのです
一重まぶたさんの理解の為に、神様へハプニングやアクシデントを望む・・・・。
「神様から来ているとすれば簡単ですが」と言われる懐疑的な一重まぶたさんですから、ハプニングやアクシデントが来たからといって信じるでしょうかね。
てか、そんな祈りにまず神様が応えて下さるでしょうか??
【2008/10/11 12:46】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
あなたにとって、キリストの平安は違うといくら仰っても僕にはあなたの平安は分からないのですよ。
というより、あなた自身他の平安との違いはどうやって判断するのかも分かりませんがな。
それで、確信を得られて話されてもこちらには何も伝わらないと言っているんです。
ただでさえ、そちらは世の知識や論理を否定されているのですから。
【2008/10/13 16:38】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

>あなた自身他の平安との違いはどうやって判断するのかも分かりませんがな。
それで、確信を得られて話されてもこちらには何も伝わらないと言っているんです。
私自身の他の平安との違いをどうやって判断したかの経験を、話す必要があるようですね。
長くならないように出来るだけ手短に一例を書きます。
私の4番目の息子は心臓が悪く生まれてきました。心不全の状態になって、薬を注射器で測りミルクに混ぜて飲ませても吐いてばかりで、普通赤ちゃんは体重が増えるのにあの子はどんどん痩せて行き、母親の私は悲しみと不安でいっぱいで毎日泣いてばかりで「神様わたしの赤ちゃんの命を取らないで」と祈っていました。風邪をひかせたら大変なので外出しないようにと先生には言われ、買い物さえも主人に全て頼まなければならず、教会へも1年半位も行けませんでした。そんな中で二男が入学前に言葉の発音がおかしいと言われ、通っている小学校とは別の学校へ行って言葉の教室へ通わせなければならないという問題も起き、当時の私は平安とはほど遠い最悪な心の状況でした。
息子を見る度に襲ってくる恐れと不安と涙に、ある日私は決心して神様に向き合い、自分の辛さ苦しみや悲しみを心の底から全て吐き出すように云って、泣いて癒して下さるように祈りました。すると私の心に穏やかな平安が訪れました。
息子の状態は全く変わらないのにもかかわらず、その日から私の心の中から恐れや不安や悲しみが襲ってきて悩まされる事が無くなったのです。
あのポロポロな心の状態の中で、神様に信頼する信仰心さえあるとは言えなかった私が、不思議な平安を手にする事が出来たのは、イエス様が「世が与えるのとは違う平安」を下さったからだと思うのです。
こう私が証ししても一重まぶたさんに伝わったかどうかわかりませんが、一応私の経験した神様からの平安の一つを語らせていただきました。

【2008/10/13 21:33】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
僕は子供の頃からクリスチャンホームでした。
しかしながら、前にブログで書いたように色々ありまして、母子家庭となり、さらに母親と会えるのは朝の十分間。そのほかは保育所で過ごしていました。小三まで。
その頃神様に寂しいと言っても、特別な平安はありませんでした。
あなたと僕の違いはなんでしょう。
そして、あなたの体験は素晴らしいものでしょう。
世の人もあなたが体験したような平安を僕に与えてくれました。
それは、神に繋がっているからだと思うんですよ。
【2008/10/15 03:46】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]

>母子家庭となり、さらに母親と会えるのは朝の十分間。そのほかは保育所で過ごしていました。小三まで。 その頃神様に寂しいと言っても、特別な平安はありませんでした。 あなたと僕の違いはなんでしょう。
一重まぶたさんと私の違い、私にもわかりません。
ただ寂しい経験を随分されたのですね。私も両親はおりましたが、なかなか愛されていると感じる事が出来ず、幸せそうな同級生の家庭を羨み自分の生きている目的も見いだせず、子供ながらに車通りの激しい大通りに飛び出して死のうと考えていた時期もありました。その頃に教会の日曜学校へ通ってイエス様と出会い、例え誰からも愛してもらえなくても神様は愛してくれると知る事が出来て、それ以来死にたいとは思わなくなりました。今はとても幸せな中にいますので、あの時死ななくて良かったとつくづく思います。そして振り返って考えてみると孤独を感じて辛かった時期も、神様は遠くから冷たく私を見下ろしていたのではなく、私の傍らにいて私を優しく包み、癒しを下さるイエス様の元へ導こうとされていたのだと思います。そしてそんな深い神様の愛に自分の事で精いっぱいで気づかなかったのだと感じました。あの孤独がなかったらイエス様を求める事も無かったかもしれないし、ただ一人神様からも見捨てられ、誰も味わう事の出来ないほどの孤独を味わわれたイエス様が、私を真に理解してくれるのを知ったから、子供のころの寂しい思いも無駄な事ではなかったと思います。
そして息子の病気で苦しんだ事を通して、父なる神様が大切なわが子のイエス様が十字架にかけられた事に対する悲しみ苦しみ辛さが少しわかった気がします。
それほどの痛みをもってもなお、私達人間を救おうとして下さった神様の愛を知るために、そして同じ苦しみを持つ人を慰めるために、あのような経験をさせていただいたのかとも思います。
一重まぶたさんの経験も、神様が益と変えてくださいますように。
【2008/10/15 23:22】 URL | かあちゃん #- [ 編集]

>かあちゃんさん
誤解をするように書いたのですが、僕はその経験は決して無駄ではありませんでした。
そのときにも僕は、「人からの愛」を受けそれに気づいていました。
そして、それが神様から来ているものだと僕は思っています。
あなたの特別な平安が神からきていると感じているのならすべてがそう見えるでしょう。
しかし、その愛を受けた経験の違いがきっと僕とかあちゃんさんの違いだと思うんです。
しかし、それを両者、あなたと僕は絶対的のものとするのは間違いだ、と言いたいのです。
【2008/10/16 09:49】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]


この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://hitoemabuta56.blog87.fc2.com/tb.php/126-bd714be0



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。