君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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新しい気持ちで
前回の日記で、今までの自分の言葉の一部を自分で否定してしまった
さて、これからどういった信仰を持っていこうか
今は、それを考えている

基本的なことは変わらない
僕は、相変わらず全ての人は救われていると思っているし
全ての人が幸せになるための世界は諦めていない
正直、後は神様に任せればいいんじゃないか?
とも、思うのだがそういうのは自分の体が動かなくなるまであがいた後に言おう
そうじゃないと、どっちにしろ説得力なんかでやしない

ただ、何もしなくてもいいとはもう思えない
成長したければ、成長したらいいと思う
君の意に反することも言う
それなのに、僕が正しいと言う保証も無くてよく間違える
なんて、難しいんだろうね

だから、何が正しい間違っているという概念がそもそもの間違いだよね
また、パラドックスだよ…
まあ、いいや
君にとって正しいものは、君以外には別段正しくなんかないよ
僕の意見も所詮僕しか正しくないんだもの

じゃあ、どうすればいい?
どっちかが妥協するしかないのかな
キリストには妥協しない、聖書は正しいから
そう言って僕やノンクリスチャンを妥協させるかい?
キリストに従えば、とっても幸せだよ
そう言って

僕は、気づいたよ
その人の否定はしてもかまわないけど、自己肯定のために他者を否定するのは間違いだって
僕には、未だに既存のキリスト教会にそれを見るよ
だって、ノンクリスチャンを作らなきゃ自分達がクリスチャンだと言えない
僕にとっちゃ世の中にいるモラルとか愛とかそういったものを少しでも持っている人は全員クリスチャンだよ(本人が否定しない限りね)
むしろ、風俗嬢の方が僕よりよっぽどキリストに近く思う
それは、本当にそう思う

頭の中の霧は少し晴れてきた
こだわることが少なくなればなるほど、わだかまりの原因は多くなるのだとは思う
さて、新しい気持ちで信仰生活を始めますか






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この記事に対するコメント
こんにちは☆
私はクリスチャンですが、ノンクリスチャンを裁いたり、馬鹿にしたりしたことはないつもりです・・・。裁くのではなく、福音を伝えなきゃ!!という思いでいっぱいなんです。

一重まぶたさんはクリスチャンはみんな裁き、線を引く人だと思われますか?
苦い経験がありますか?

クリスチャンである私よりノンクリスチャンの方がよっぽど愛に溢れていたり、ちゃんとしていると思っています。尊敬しています。
クリスチャンはイエスさまを信じる信仰によって罪を赦された「罪人」に過ぎません。

神様の目から見れば、「義」とされていますが、実際救われたからといって一瞬にして清くなったわけではありません。相変わらず私の中には罪があります。でもそれも聖霊に従って歩めば、少しづつ解放されていくと思っています。
クリスチャンは救われて終わりではなく、そこからが始まりで、キリストに似た者にされていく=聖化の過程が始まるのです。
この地上にいる間を持ってしても完全にはなれません。イエスさまが再臨されて、イエスさまを見た時に完全にされると書いてあります。

主はアダムとエバが善悪の知識の実を食べた時から、既に人間を救済するために一人子であるイエスさまを全人類の罪の身代わりに十字架にかけるとお決めになっていたのだと思います。

旧約時代と違って、新約の時代はイエスさまがこの地上に来てくださって、十字架にかかってくださった。その事を信じるなら、救われるのです。

行いによるのではない・・・という言葉が私には慰めでした。
どんなにしても私自身の中に「愛」はないからです。キリストに繋がっていなければアガペーの愛(無償の愛)は誰も持つ事が出来ないと思っています。
確かに人に親切にしたいとか善を行いたいという気持ちもありますが、やはり無償の愛とは違うと思います。
ノンクリスチャンで愛に溢れた方、その方は本当に素晴らしいと思います。尊敬します。
でも善行によって救われるのではないのです。

「全ての人は罪を犯した」と聖書に書いてありますが、その罪を綺麗にする方法はイエスさまの十字架しかないんです。

罪とは的外れという意味で、私たち人間を創造し、愛してくださっている神様を知らずに自分勝手に生きていること、これが一番の罪なんだと思います。
だから全ての人に罪があると聖書に書かれているのだと思います。

身体が汚れれば、お風呂に入って洗う。
服が汚れれば、洗濯する。
でも心が汚れていたら・・・罪は、イエスさまの十字架がなければ綺麗にすることができない・・・。

神様は愛のお方、全ての人を救いたい。
でも同時に「罪」を赦すことは出来ない。
人間にはその「罪」をどうすることも出来ないので自分の一人子イエスさまに全ての罪を負わせて十字架にかけられた。
罪を持っていては、神様と交わることができないんです。

どうしたら罪を赦されるの?

イエスさまが「私」の罪のために十字架にかかってくださった・・・と信じるだけ、信仰によってなのです。
信じる前には、悔い改めが起ります。
悔い改めも、信じることも「聖霊」の働きです。
クリスチャンである私たちは「福音」という種をただ蒔き続けるだけで、あとの領域は神様の領域なんです。

同じことを何度も書いて支離滅裂ですみません。
一重まぶたさんと少しでも分かり合いたい。そんな気持ちで書きました。
でもこちらの信じていることをただ押し付けているだけなのかもしれません。

真理は聖霊が示してくださいます。
聖霊さまに委ねます☆
【2008/09/11 09:59】 URL | YUKI #vz6hfDO6 [ 編集]

「生かされて」とゆう本を読みました。
一重まぶたさんはご存知かもしれませんが、私はルワンダで大虐殺が起こっていたと知らずに生きてきました。

自分の進路に悩んでいる時、大勢の人が生死の狭間に居た・・・自分の環境がどんなに恵まれているか、感謝より申し訳なさがあふれます

その著者は、神を信じ神を感じその虐殺の中、家族を失いましたが生きぬかれておられます。

ただ残念だったのが、そのように素晴らしい方でも宗派をこだわっていました。

両親兄弟を殺した人たちを彼女は許しました。
何も知らない子供がした事だと。。。
その寛容さには、人を超えたものを感じました。

素晴らしい本でした。

私は賢くないです。賢い人なら行動してると思います・・・口先だけで、いつもモヤモヤした物。

みんなが感じてる自分らしく生きるって事、一日も早く掴み取ってみたいです☆
【2008/09/11 14:59】 URL | みみ #- [ 編集]

実話に基づいています。

半世紀以上前の中国でのこと、ある地主の男がいました。親の影響もあり世の中で信じるものは富と自分だけでした。
ある日身の回りの世話をさせるために妻を娶ることにしました。

その地方では結婚は親が決めた者とするのが慣わしでした。
しかも式の当日まで会うことは許されませんでした。
「どんな嫁さんだろう?」男はとても愉しみでした。
遂にその日が来て、男はお嫁さんの顔を見ました。
そして我が目を疑いました。その女は生まれて始めて見る位の醜い顔をしていたのです。「どうして俺ほどの男がこのような女と暮らさないといけないのか?」
離婚などできない慣習の中で男の心は荒れました。毎日酒を飲み、その嫁さんに仕打ちをしました。

「その顔を見れないように下を向いておけ」
「近所にあまり顔を見せるな」
「動作が遅い」
事あるごとに罵声と平手打ちを浴びせたのです。
それでもこの嫁さんは寝込むこともなく、家の仕事を勤勉にこなしていました。それは近所でも評判になるほででした。
しかしこの皮肉れた男はそれも気に触ったのか、日を追うごとに益々荒れ、酒の量も増えていきました。それが引き起こしたのでしょう、男は病気になり目が序々に見えなくなり、遂に殆ど見えなくなりました。しばらくして良い医師がいるとの噂を聞きました。最新の治療をしてくれるとの事でした。裕福な男はその医師を探し治療を受けることにしました。

治療期間が終わり、男は包帯を外しました。眩しい光が刺す様に目に入ってきました。こうして光を取り戻した男は揚々と家に帰って行きました。

「ただいま~」と、何時もより少し機嫌良く玄関で声を出しました。しかし、いつもなら出迎えるはずの妻の姿がありません。男の心は怒りに満たされました。

「主人様が帰ったというのに、女房はどこだ?」
見ると、奥の部屋にいるようです。背を向けています。

「お前なぜ迎えにこないんだ~」男は近づくと手を振り上げ妻を打とうとしました。

その時、男は妻の顔を見て驚愕しました。妻の目が白くなり明らかに光を失っていたのです。
妻は当時では最新の移植手術の為に自分の目(角膜)を夫に与えていたのでした。

以後、男は妻を連れ中国内を歩き「俺は心の目が開いた。俺ほどの幸せ者はいない。中国一の女を嫁さんにしたのだがら・・」とふれまわったそうです。

私にはこの女性の本当の心は分りません。信仰も不明です。

しかし奇跡的とも言えるこの話に勝るとも劣らない話を目撃することが無いわけではありません。

人は私たちが考える以上に神のようでもあり、悪魔のようでもあると考えます。信仰が悪魔の性質を抑え、人を神に近づける場合があることは明らかです。

それでも、私は信仰に因らない神の性質を時折人に見ます。

『親思う心にまさる親心 今日のおとずれ 何と聞くらん』



【2008/09/11 22:00】 URL | 辻風 #yY6XORug [ 編集]

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【2008/09/12 00:42】 | # [ 編集]

>YUKIさん
ちょっと思ったのが、キリストに繋がっていなかれば本当の愛はないのだけどクリスチャンじゃない人には愛とかが溢れているんですか?
思うのが明らかな侮蔑でなくとも、その思想であるだけで人を差別していることってあると思うんですよ。
僕自身、そうですし。
だから、何が一番正しいのかなって考えているところです。

>みみさん
ルワンダに限らず、チベットやウィグルの虐殺。
心が痛む話ですよね。
その世界をどうやったら変えれるのでしょう。
声を出すのも行動ですよ。
僕は、そう思います。

>辻風さん
素晴らしい話ですね。
少し、男に腹が立ちますけど。
人間が持っている神様の部分と悪魔の部分。
それは、どんな人であれ僕も変わらないと思います。

>管理人のみ閲覧さん
コメントありがとうございました。
【2008/09/12 19:39】 URL | 一重まぶた #- [ 編集]


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