君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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傷つくことで優しくなれると思っていた
僕は朽ち果てたかった。
どんな困難があったとしても笑えると思っていた。
挫けずに諦めずに、そして逃げずに。
同じような境遇の人が出てきたら慰めることが出来る人間になろうと。
僕は辛い人生を望んでいた。

今、僕は辛い。
今、僕は苦しい。
自分がやっていることが無意味に思えて理解者がいないように思えて。
独りに思えて、そして背負おうものの尊さだけが理解できる。
自分自身が生きていて、誰かを幸せに出来るのだろうか。
そんな悩みで一杯で、自分自身が足りなくて。
笑えない。

僕は優しくなれると思っていた。
誰にでも優しくなれると思っていた。
だけど、現実は辛い境遇の人を責めることしか出来ない。
慈しみを持って接することが出来ずに、理詰めを言い訳に憤る日々ばかり。
赦し合うことなどもちろんのこと、一方的に赦すことすら出来ない。

大切な人には迷惑ばかりをかけてしまう。
大切な人の役に何も立てない。
あまりにもあまりにも無力だ。
キリストの様には、とてもなれない。

神様。
僕を一体何のために創ったんですか。
あなたの計画の中での僕は一体どんな存在なんですか。
思い上がり、身の丈以上の困難を望み喘いでいる僕は一体何者なんですか。
愛せないのに愛したい。
優しく出来ないのに優しくしたい。
赦せないのに赦したい。
こんな矛盾を何だって僕の心の中に。

何一つ分からない。
本当に何一つ分からない。
周りが屑に見えて、自分も屑に見えて。
僕は一体どこへ向かうのだろう。

昔、思い描いていた夢の続きは描けない。
今の僕には何が描けるのだろう。
筆を折ることだけは止めて、前でも後ろでもいいから歩いていこう。
どうせ、いつかは立ち止るのだから。



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敵を赦し、敵を愛せ
自分の敵を愛し、その人のために祈りなさい。
そういった言葉を小さい頃から聞いていた。
だから、自分の敵を愛さなくてはならないと思っていた。
憎い人も、許せない人も、自分の大切な人を傷つけた人も。
怒りながら憤りながらも、それだけでは駄目だと心の中で思っていた。
そんな自分がまるでクリスチャンの様に思えていた。
まるで驕り高ぶった自分がそこにいた。

敵と思える人間はたくさんいた。
そして、今でもたくさんいる。
自分を利用しようとする人間や、蔑もうとする人間。
無責任な福音をべらべらと語るクリスチャン達。
知らず知らずの内に差別する人達。
自分の無知や無能を棚に上げて、批判ばかりをする人。

そんな人間を敵だと思っていた。
でも、そんな人達も愛さなくてはならないんだな。
クリスチャンっていうのは大変だな。
でも、それがイエス様の言うことなんだから守らなくちゃ。
そんなことを考えていた。

でも、そんなことはどうでも良かった。
僕の大切な人を一番傷つけるのは他でも無い自分だった。
誠実に生きたいと思いながら、そうさせないのも自分自身だった。
罪を犯すのも、汚い心も、憤る行為をするのも何よりも自分だった。
僕の敵は何よりも僕だった。
それに気がついた時に、他人を敵にしていた自分の愚かさに気がついた。
他人の罪がどうこうでは無くて、問題なのは自分自身だった。

赦さなくてはならないのは、愛さなくてはならないのは自分自身だった。
それが何よりも難しくて、何よりも辛かった。
批判されている方が実は楽で、何もかも他人のせいに出来た。
愛されることは、愛されなくなる可能性も同時に手に入れることで、
信頼されることは、絶望される可能性も孕んでいる。
自分を駄目な人間だと決めつけてしまえば楽だけれども、
赦されて愛される人間だと思うことが必要なのだと知った。

今でも、まるで赦せず愛せない自分だけれども。
いつかは、赦して愛せるようになりたい。
クリスチャンの中でも自分を卑下する人達が数多くいるけれども。
何よりもまず自分を愛さなくてはならないと思うんだよ。



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世の中の誰もが平等に
生まれの違い、育ちの違い。
親がお金を持っているかいないか。
親が信念を持っているかいないか。
周りに良い友人がいるか、良い恋人がいるか。
支えてくれる人がいるか、貶める人がいるか。

人生の方向性は環境で大きく変わる。
二世クリスチャンなんてものは典型的な例で。
親の価値観で子供の価値観は大きく変わる。
親の金の有無でも切ないほどに変わってしまう。
同じ状況でも、ある人は体を売りある人は悠々自適に過ごす。
不公平だ、不平等だ。
そんな声が聞こえてくるがそれは全くその通りだとは思う。

死なないだけで恵まれていると思えと言う人達もいる。
だけど、生きているから死にたくなる。
ご飯が食べれるだけで感謝しろと言う人達もいる。
お腹だけは満たされるから、別の人を羨む。
持っているものがあるから、持っていないものも見えてくる。

幸せに何が必要なのかは分からないが、生活するにはお金がかる。
笑うためには友人が必要になって、恋人が必要になって。
それもすべて、持って生まれたものや持って生まれた環境で大きく変わる。
個人の努力で大きく変わることがあっても、限界はある。
大抵の人間は、何かを持っている人間を羨む。

でも、世の中の誰もが平等に幸せになりきれない。
どんなに財産を持っていても、どんなに友人がいても、どんなに恋人がいても。
名誉も地位も何もかも持っていたとしても。
きっと、心の中には虚しさがあるはずだと思う。

だから、どうだと言う分けでも無いが。
そんな悲しい世界で誰もが生きていて。
だから、皆仲間のはずだと思うんだよ。
幸せになりきれない仲間達。
その一点だけでも僕らは分かりあえるはずなんだよ。

幸せであるように見せる必要も無く。
他人よりも優れている必要も無く。
分かりあい、慰め合う。
そんな関係に誰もがきっとなれるはずだと思う。
そう思えば、少しだけ悲しさが減る気がするんだよ。




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願いは叶わなくても頑張る意味の行く末
ぽつりぽつりと落ちていく。
まるで、雲が雨を吐き出すように。
さらさらと落ちていく。
まるで、砂時計の砂のように。
自分の希望が、願いが、可能性が。
何もかもが堕ちていく。
絶望に、諦めに、結果に。
まるで、自分のしたことが無駄のように思えて。
他人の努力が自分の努力よりも素晴らしく思えて。
ひどくひどく、泣きたくなる。

僕の方が、僕の方がと叫ぶ心に合いの手を入れるように、
お前なんか、お前なんかと嘲る心がいる。
なんで僕が、なんで君が。
結果論のはずなのに、現在進行形で自分を否定されている気がする。
成功している人間、そして成功していない人間。
その境目がまるで人間性や信仰にあるかのように話す人達に、
そんな馬鹿なと冷淡な目を向けては見るものの、
所詮は僻みの目でしかないことぐらい自分自身が一番分かっている。

僕の何もかもこの世の成功とは結びつかない。
僕の心が世界に通じるかと言えば、通じない事の方が多い。
何故、僕が唾棄する人間の言葉の方が皆に通じるのだろう。
僕が間違っているのか、世界が間違っているのか。
自分に問題を帰結させるのが一番楽だと悟った時から僕は駄目になったのだろうか。

どんな人生でも成功だなんて言葉は実は言い訳なんだ。
この先、成功しそうにない自分への保険なんだ。
そりゃそうさ、誰だって成功したいし金が欲しい。
金で変えない幸せなんてものは数多くあるけれども。
金を持ちながら、金で買えない幸せなんてものを持っている人も数多くいるだろう。
じゃあ、金も無ければ、金で買えない幸せも持っていない人はどうすればいいっていうんだい。

虚勢を張って弱くて弱くてたまらない。
神様を感じたいのに、教会に行かないと感じられない。
日々の生活の中で空しさと虚しさだけが胸を通り過ぎる。
悲しくて、辛いんだ。

願いが叶わなくても頑張る意味の行く末は、
一体、何があるのだろう。
幸せじゃ無くても、絶望ばかりでも、諦めばかりでも。
可能性がどんどん消えても、金が無くても、悲しくて辛くても。
それでも、それでも生きる意味があるんだろう。
救いだけは消えないから、愛だけは消えないから。
何があっても、きっとそれだけは消えないから。
きっと、生まれた時から死ぬ時までそれだけは消えないから。

だから、生きていく。



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いつまでもいつまでも傍にいてくれたら
時折、聞こえてくる自己不信の言葉達がいる。
最低な思いや最低な行い。
罪深い自分はいつだってどこにだって存在している。
神様の愛に目を向けるよりも、誰かの人間的な魅力に心を奪われる。
神様を信じずに、誰かを信じる。
イエス様の再臨なんてものも待ち望まずに、10年後の自分に不安を覚える。
これからの世界よりも何よりも、これからの自分のために生きようとする。

自立してないからなのか分からないが、社会がどうなろうがかまわないと思う。
自分に益を与えないものを批判して、自分に益を与えるものを肯定する。
愛してくれる人を傍に置き、愛してくれない人を除外する。
そんなことをしていれば、いつか周りに誰もいなくなると分かっているのに。
愚かな自己保身を止めることが出来ない。

どこにも行けない自分自身の諦めがそうさせるのだろうか。
世界を幸せに出来ないのなら、せめて自分だけでも幸せになろう。
そんな風に思ってしまう自分自身に軽蔑の眼差しを向けてしまう。
さあ、行こうよ新しい世界に。
そう言って自殺を進める人達にそれは間違っているとも言い切れない。
自信を持って確信を持って言える言葉は年々少なくなっていく。
全ては相対的で絶対的なものなど何もないんだ。
そんな神様すら否定しそうな考えで生きていくようになってしまう。
そんなことは絶対に嫌なのに。

本当はいつだってクリスチャンの自分でいたかった。
毎週、毎週日曜日に礼拝を守り仲間と信仰のことを語る。
悪いものから目を背けて、神様が喜びそうなことを行う。
信徒であることに幸せを感じて、聖書の話をする。
神様からの恵を一つひとつ数えて、自分の罪を赦し願うんだ。
疑うことをせずに、祈りを捧げて全てを神様に委ねるんだ。
そんな生活をしていた自分を今で否定することは出来ない。
あの頃はあの頃でとても幸せだったもの。

だけど、今の僕はどうだろう。
まるであの頃の自分が嫌っていた「この世の人間」じゃないか。
キリスト教が教えるような罪を平気で行いながら生きている。
そして、そんな自分に悪びれもせずにいる。
放蕩息子である自分自身であるはずなのに、幸せを贖いを求めている。

間違えているのだろうか僕は。
生きる道を間違えているのだろうか。
何もかもが十代の頃とは変わっていく。
能力も何もかも衰えていくのに。
理想に燃えていた自分自身はもうどこにもいない。
自分自身への諦めが全身を支配している。
幸せを求めている自分だけが変わらない。

絶対的な愛する人がいてくれたら。
いつまでもいつまでも傍にいてくれたら。
何か変わるはずだと思っていた。
そんなイエス様がいるはずなのに。
僕はいつまでいつまでも前に進めない。
夢を追いかけることが出来ない。
それでもいいと言って欲しい筈なのに。
叱咤されたいといつでも思っている。
道を示してほしいと思っている。

この悩みがいつか何かの形になってくれるなら。
そう思い、生きている。




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聖書が救うのは僕なのか、それとも世界なのか
聖書には色々なことが書いている。
どの個所を引用しようが、伝えたいことが変わらないことなんて言うのは嘘っぱちさ。
引用を好き勝手にやれば、自殺を進めることだって出来る。
流れを無視して旧約聖書と新約聖書の引用を絡めるなんてものは常套手段でまだ良い方さ。
時には、聖書に書いていない事まで言い始めるクリスチャン達。
偽りと思い込みで作り上げた「キリスト教」を真実とするどこぞの宗派。
怒りも通り越して、別の価値観を持つ人としか思わなくなった。

それは、僕が聖書を読みこんでいかないからなのか。
僕が礼拝に大して出ていないからなのか。
そういったことを理由にしてしまえば話は簡単なんだ。
聖書を読んでいないから、礼拝に出ていないから、神様から遠ざかっているから。
疑問符を付けたクリスチャンに向けられる牙のような言葉達。
聖書を読みこんでいるから、礼拝に出ているから、神様に近いから。
そんな人達が話す魂にまるで響かない言葉が、世の中の雑音にかき消されていく。

聖書の根底にあるという価値観。
それを絶対の真実として話す人達。
「キリスト教vs世の中」の図式を作り出したい人達。
その結果、キリスト教が勝ってこの世の中の変革を望む声がたくさん聞こえる。
この世の中の全ての人がクリスチャンになれば、この世の中は変わる。
そんな声を高らかに叫ぶ人達に対して、僕は唾を吐こう。

資本主義が限界に来ていても、聖書の中に書かれている共産主義では世界は変わらない。
政治の世界にキリスト教を持ちこんでも、別に何も変わらない。
仏教もイスラームも無くならないし、ヒンドゥー教も無くならない。
情報伝達は進み、価値観の多様化は止まらない。
人々は各々の価値観を持ちながらも、似たような価値観同士で共同体を作る。
それがキリスト教なのか、それともイスラームなのか。
それだけの違いなのに、互いに真実を叫び合い争う。
それでも、キリスト教が世界を救うと叫ぶのかい。

キリスト教が世界を救わなくても、かまわない。
キリスト教が世界で一番正しくなくても、かまわない。
辛くて苦しくて、悲しみに塗れながら人生に絶望をしている時。
自分自身の価値が何も無くて、自分自身が無駄だと思いながら日々を過ごす時。
死んだ方がましだとか、でも死にたくないだとか、自分が死んでも誰も悲しまないだとか。
嘘を吐きながら、自分自身を傷つけて他人を傷つけて。
罪深い生活の中に堕ちているはずなのに希望だけは捨てられない。
そんな時に、寄り添ってくれるイエス様がいればそれでいい。
愛されるべき存在だと言ってくれる聖書があればそれでいい。
生きる価値があるんだと言ってくれる神様がいれば。
僕はそれでいいんだよ。




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