君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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長く生きるほどに自分の価値観だけを絶対としたくなる
四捨五入で三十歳になる程度の年だけれども。
最早、既に価値観が固まっていくのを感じる。
高校生の頃や大学生のころに考えていたことを考えていない。
自分が生きる意味や夢だとか言うものに対して冷徹な目を向け始めている。
その世代が言う青臭い言葉を冷徹な目で見る自分に対する危機感が薄くなっている。
経験が足りないだとか、僕が言われて最も嫌だった言葉を僕が言いそうになる。
全く、人間の心は厄介に出来ているものだとはっきりと感じる。

長く生きるほどに自分の価値観だけを絶対としたくなる。
それは間違いないのだろう。
価値観なんてものは自分が生きてきた証のようなもので。
それを否定するということは自分の人生自体を否定するようなものだから。
自分の価値観を否定するなんてことは、とても勇気がいるということは分かっている。
だから、人の話を聞ける人は本当にすごいと思う。
受け入れる幅が広い人は本当に凄いと思うんだよ。

だけど、誰もがその勇気を持てないことも分かってきた。
人間は基本的に憶病なもので、自分を守ることすら精一杯で。
それなのに長く生きれば生きるほどに、守るものが増えていく。
とても、とても他の価値観を聞く余裕なんてものは無くて。
日々が急かされながら、息を切らして走り続けている。
だから、人が争うのはとても当たり前な話だとは思うんだ。

自分を屑野郎だとか下衆野郎だとか心底思えばいいのだろう。
自分の価値観にそれこそ価値が無いと思えばいいのだろう。
だけど、それだけでは自分自身すら守れなくなる。
何一つ自分自身では変えられない無力感だけが積み重なっていく。
そんな人間になっていっているような気がする。

弱くありながら強くありたい。
そう願うものの、それはどういうことなのか見当もつかない。
聖書を基準に色々いう輩は確かにいる。
弱さは強さだと嘯く人間も多くいる。
でも、そんな言葉を現実の社会の中では弱さになっていく。
そうして傷つき、疲れ、教会だけを居場所にして自分の頭の中を固めていく。
そういったことも真っ平なんだ。

まったく人間は厄介だ。
ただ、最近ではそれも一興かと思える瞬間がある。
どんな状況になっても笑ってやろうという覚悟もほんの少し出来るようになった。
どん底に落ちても笑いながら生きてやろう。
そう思う自分がいる。
ただ、それこそが自分の価値観の固定化だなとも思う。
本当に人間は厄介だ。

いつだって、君の話を聞きたいのは本当なんだよ。
でも、いつだって君の考えを否定したいんだ。
だけど、そこで終わりたくもないんだよ。
だから、僕は話が出来ないんだ。
否定して否定され、肯定され肯定される。
人類全体がそんな関係性になれたならなんて想像もつかないけれども。
それでも、そんな夢は捨てられない。

嗚呼、ちくしょう。
世界が平和になればまだましになるかもなのに。
せめて、後の世代の捨石程度になれるようには頑張ろう。




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弱くあれ
僕の好きな御言葉はヨシュア記だった。
「強く、雄々しくあれ」
そう書かれている言葉を実行しようとしていた。
強く、雄々しくありたい気持ちは今も持っている。
雨やら風やらに負けず、困難に挫けずに真っ直ぐ歩く。
そして、背中で人生を語れるような人間になりたいと今でも思う。

自分自身に誇れるものがあった学生時代を思い出す。
僕に反発する人間も多くいたが、僕を慕う人間もいた。
その名残が今でも残っているからなのか、時折ふとした違和感を感じる。
今の自分はこれほどまでに弱いのに。
何故にこれほどまでに自分を誇らしげに語れるのだろう。

強く、雄々しくあることはきっと間違ってはいない、決して間違っていない。
そういう人間が世の中には必要なのは間違いない。
そういった人に救われる人間もいれば、憧れ努力しようとする人間もいる。
それは正に神様の栄光の一つを表していて、とてもとても素晴らしいことだと思う。

ただ、僕は今弱くありたい。
雄々しくなることにも躊躇われる。
強くあろうとする僕は、僕自身を偶像化してしまう。
自分の言葉を魅力的にし、それを信じる者を信者に変えようとする。
そういった安堵の中に身を任せて、自分自身の反対意見を押し潰す。
人の意見を聞かず、中心にあるのは自分自身。
そんな自分になるのがひどく怖い。
いつだって、そうなりかける自分が嫌になる。

敗北者になりたい。
勝利することは誰かを負かすことになる。
悪魔とやらに勝利するのならまだいいが、相手が人間ならば勝利は意味を成さない。
相手が僕を敗北者と思うようであればいい。
僕は何にも負けていないし、そして勝ちもしないから。

優しくなりたい、思慮深くなりたい。
そうさ、僕は優しくなりたいんだ。
弱い人間の気持ちを分かりたいんだ。
いつだって、いつだって、優しくありたいんだよ。
だけど、僕の心は傲慢な程に強い部分があって、人の痛みが時として分からない。
だから、弱くあれ僕の心よ。
少しのことで心を痛め、泣きだしそうになっておくれ。
くよくよと悩むんだ、将来を不安に思い夜も眠れなくなってしまえ。

震える足でありながら真っ直ぐに立っていたいんだ。
弱さを隠さずに、へらへらと笑っていたいんだ。
誰に傷つけられても、罵られようと平気でいたいんだよ。
そして、同じように傷つけられた人の横で笑い話をしたいんだ。
だから、弱くあれ僕の心よ。
苦しめ、僕の魂よ。
そして、いつしか優しくなれますように。



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神様が与えてくれた愛は幸せであることよりも遥かに大切なことで
キリスト教を信じても別に幸せにはなれない。
僕はそれをはっきりと声に出して言いたい。
幸せ、と一口に言ってしまってもそれは色々ある。
言い方を変えてしまえば、キリスト教を信じるとお金に困らなかったり、
仕事がうまくいったり、対人関係が良くなったり、心が健康になったり、
体が健康になったりするなんてことは別に無い。

時折、聞こえてくる声の中にはそんなものもある。
イエス様を信じたら鬱病が治っただとか嫌悪感しか出ない声。
聖書のリーダーシップを実践すると仕事がうまくいっただとかいう戯言。
祈った結果、癌が治っただとかいうまやかし。
そのどれもが真実かどうかも分からない。
だけれども、あたかも神様の栄光を現しているようでハレルヤと叫ぶ輩がいるのも事実だ。

幸せになることに対して積極的な人達が見ないもの。
それは、信仰生活を続けているのに不幸な人達。
僕と違い、信仰生活を続けているのに幸せになれずに教会を去って行った人達。
その人達のために祈り続けている教会員はどれほどいるのだろう。
隣に見えるきらきら光る人生をまざまざと見せつけられる泥に塗れた人達。
彼らの信仰は、幸せに生きる人達に比べて劣っているのか。
信仰が足りないから幸せだと思えないのか。
その不幸の全てを自分の内面にある心や魂が悪いからだと言うのか。
そんな馬鹿な話があるものか。

親が金持ちか貧乏なだけで、生き方が変わってくる世の中で。
どんな人生でも喜べだなんて、何故言える。
虐待を受け境界線人格性障害を患い、罪深いとされる生活に身を落としている人間に対して
清い生活をしなさいと、誰が言える。
イエス様以外に言える人間なんてものはいないはずなのに。
誰もが聖書の権威を用いて、軽々しい正義を吐きたがる。

正義の道から言えば、僕は恐ろしく罪深い。
幼い頃から信仰生活を続けているのに罪を犯す。
この世の誘惑には負けてばかりの日々を過ごしている。
人生は平々凡々で、成功を収めることも無く挑戦することも無く。
リーダーシップを発揮することも無く、他人を妬み嫉み僻むばかりだ。
この世の中の雑事からの解放なんてものはこれっぽっちもありはしない。

だけど、いいんだ。
その人生も、例えこの先の人生が不幸なものになったとしても。
家を失い浮浪者になったとしても。
神様が与えてくれた愛は幸せになることよりも遥かに大切なことで、
その環境のままに神様を信じる信仰でありたい。
それは、何よりも気高い信仰であると思うから。



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疑うことを知らない信仰は、まるで偶像を礼拝するかのように
この世の中に何か確信めいたものが欲しいのだろう。
神様が私たちを愛しているだとか、そういったことの確信が欲しいのだろう。
聖書を必死に読み込み、自分の信仰に合致する個所を心に留める。
礼拝を守り、賛美し、祈り、奉仕し、成長しようとする。
いつか、この信仰群が世界を変えるものだと信じている人たちもいるだろう。
キリスト教会の特に福音派はそんな傾向が強いように思う。

仏像を偶像礼拝とし、神社を偶像礼拝とする。
仏教、神道、イスラム、ヒンドゥー、その他諸々の宗教達。
その全てを悪魔の手先と捉えて、神様に従っているのは自分達だけとする。
真実という剣を手にしていると思っている君が握っているものは一体何なんだい。
確信めいた物の言い方で、神様の救いやら愛を説いているのを見るのはうんざりなんだよ。

分かるんだよ。
確信めいた物の言い方をしないと、人なんてものは集まらないなんてのは。
自信満々に見せないと、魅力的に映らないなんてことも分かっている。
だけど、僕には分からないのがなんだってそんなにも矮小な君が真実を知っているだなんて
堂々と言えるかってことなんだよ。

僕らの脳みそは神様が創ったはずのこの世界すらよく分からない。
君に超ひも理論が理解出来るかい、僕には出来ないよ。
散逸構造論を説明しろと言われたってさっぱりだ。
だから、神様がいるとしたら何を考えているかだなんて聞かれてもさっぱりなんだよ。
僕は聖書が本当だと言うことだなんて、とても言えないのさ。
せいぜい言えるのが、信じていると言うことだけさ。

だから、キリスト教を真実だとか言うやつらが理解できないんだよ。
確信を持って動いている奴らの気がしれないんだ。
真実を証明することすらできない人間が自信を持って確信を持って話している。
僕には、それが健全だとは思えない。
あまつさえ、他の宗教を否定していたとしたら何様だと思うね。
君の心の中にある神様を、「君の心の中にある神様」を信じている君が。
疑うことも知らずに、神様を自分という枠の中に閉じ込めている君が。
よくも、他宗教を偶像礼拝と呼べたものだと感心してしまうんだ。

疑うことを知らない信仰は、まるで偶像を礼拝するかのように神様を見えなくする。
疑うことを知らない信仰は、結局のところ自分の知恵だとか知識や経験を信じているだけなんだよ。
確かに、他宗教を否定しなければ成り立たない信仰なのかもしれないが。
真実が分からないから「信じて仰ぐ」のだろう。
ならば、僕らが誰かを否定することなど出来るはずもない。

だから、僕は疑うことを知らない信仰を嫌悪する。
キリスト教以外の価値観を否定することを嫌悪する。
それは、自分たちの価値観が絶対にしている。
つまるところ、自分の知識・知恵・経験・決断を絶対としている。
そんなものは自分を偶像とした信仰だ。
僕は、そう思うよ。



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罪の鎖の長さを比べ合いながら、その先に付いている重りを無視する様に
この世の中には糞野郎と言いたくなる人間がいる。
この世の中には下衆野郎と罵りたくなる人間がいる。
そのどちらも言われたことはあるけれども。
生きている限り、他人を侮蔑したり他人から軽蔑されるなんてことはしょっちゅうだ。
他人の罪が目に入り、彼は良くない、彼女は正しくない。
そんな言葉が心の中で芽生え、口から枝を生やす。
その枝は実をつけながら熟していく。
熟し切ったその実を別の誰かが口にし、その人の心の中にまた悪意の芽を芽吹かせる。
そんな連鎖の中に、僕たちは生きている。

彼は女性を殴った、最低だ。
彼女は不品行を犯した、信じられない。
遠くのあの人がお金を騙し取ったらしい、ふざけるな。
どこかで殺人が起きた、怖いものだ。
最近では麻薬が横行している、恐ろしい世の中だ。

罪を裁く言葉は、手を変え品を変え僕たちの心の中に湧き上がる。
それを裁く言葉だとは気づかれないように、自分自身すらも騙すように。
罪を憎み、裁き、自分以外のものとしようとしたがる。
この世の中に溢れる愛が、世界中のどこかで皆と繋がっているように、
この世の中に溢れる罪も、世界中のどこかで僕と繋がっているのに。
いつだって、誰かの罪を見て自分は違うと言い聞かせる。
そして、憐れむように哀れむ振りをする。
自分自身の罪を覆い隠しながら。

どこかで、誰かが餓死している。
疑いようの無い事実に、僕らはその国の政府を批判する。
犠牲となる人たちの罪はまるで、その国の権力者が担っているかの様な物言いをする。
先進国に住み、有り余るほどの食糧を毎日捨てている僕たちが。
その現実を積極的に変えようとせず、日々自分自身にだけ起こる困難にしか立ち向かわない僕たちが。
まるで、関係の無いような顔をする。
この国に住み、幸せを享受しているだけで誰かを殺していることに加担している僕たちが。
一切、縁が無い様な顔をしながら無力感に打ちひしがれる分けでもなく、心をそれなりに痛める。
まるで、偽善者が泣くように。

誰かの罪を見て怒りを覚えることも時には必要なのかもしれない。
だけど、僕たちは自分自身の罪深さを忘れてしまう時がある。
罪の鎖の長さを比べ合いながら、その先に付いている重りを無視する様に。
僕たちが持っている決定的な罪の重さから逃げるように、他の罪で鎖を長くして
認めることも出来ないほどに大きな罪から離れようとする。
その罪の鎖を断ち切ってくださったイエス様の贖いを時には忘れるほどに。

どこかで起こった罪の一端を、きっと僕らも担ってしまっている。
僕らは罪人だ、どこまで行っても悲しいほどに罪人だ。
そのことを理解した時に、僕らが取るべき行動は何なのか。
裁くべきなのか、それとも赦し合うべきなのか。
はっきりと答えが分かっているはずなのに、なかなか実行出来ない。
そんな僕らすらも愛していると言う神様がいる。
喜ぶことすら申し訳なく、跪きたくなる。

いつかは赦し合うことが出来るような世界がありますように。
いつかは赦し合うことが出来るような自分がありますように。
そう祈り、自分が信仰者であることを思い出した。




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戦う意思を持て、この弱い魂よ
このブログの中で、僕は好き勝手なことを言っていた。
キリスト教会に対する批判をこれでもかと言っていた。
というよりも、福音派に対する皮肉と嫌味をこれでもかと。
信仰するだけで救われるという戯言をハレルヤと唱えるクリスチャンを侮蔑していた。
しかしながら、最近はそんなことも出来ずに日々を憂うだけ。

崇高な理想の元に口汚い言葉を吐いているときは幸せだった。
満たされていて、理想に燃えていて、そして理論で考えられた。
福音派のキリスト教徒の矛盾を突いては、真実がどこかにあるかと探していた。
それが正しいと思っていた。

しかしながら、自分のことに精一杯になってしまうと不思議なもので。
福音派の唱える言葉なんてものはどうでもよくなってしまって。
そちらはそちらで勝手にどうぞと思ってしまうようになった。
矛盾点を抱えていようが、信じることが出来ない人を切り捨てようが。
そんなことはどうでもよく、自分を救ってくれる何かを探すようになった。

そんなものが何よりも嫌いなはずだたのに。
いつの間にかそんな風になってしまった。
社会の中で、クリスチャンらしくありたいと思っていたはずなのに。
なぜ、こんなことになってしまうのかと嘆いていた。

ああ、畜生。
新年だぜこの野郎。
自分の幸せだけを追求してしまう程度の安い信念しか持ち合わせていないんだ。
だけど、あの時感じた熱い鼓動を忘れる程には枯れてはいない。
忘れないためにも、何度だって呟くんだ、叫ぶんだ。

全ての人が幸せになるのが当たり前で、全ての人が救われるのが当たり前なんだ。
人に優しくされて、優しくして皆が笑っているのが当たり前なんだ。
日々の小さい出来事の憎しみがいつしか大きくなって。
そして、この世界が拗れているだけで、今の状態が異常なんだよ。
平和な世界があって当たり前のはずなのに。
なんだって、こんな世界になってしまっているんだい。
手を取り合って、君が生きていることを喜ぼう。

嗚呼、口先だけの言葉になりそうな嘘吐きの喉。
嘘でもいい。嘘なんてものは無いのだから。
どれだけ、偽善だと思っても心に湧き出たからにはそれは一つの真実で。
僕が吐き出すこの戯言だって、魂からの真実だ。

人は救いようのない生き物だという現実に抗え。
愛する人を幸せにすると誓え。
隣人を愛せ、敵を愛せ。
自分の敵のために祈るんだ。

自分の汚さに押しつぶされて奇麗ごとを吐くのを止めるんじゃない。
不義な自分であることを自覚しながら義を語れ。
愛が無い自分の心に抗いながら愛せ。
疑うばかりのこの心を持ち合わせながら信じるんだ。

矛盾ばかりで整合性が無くて、吐く言葉に一片の責任なんざ取れなくたって。
語り続けて、叫び続けて、吐きだし続けるんだ。
人間なんざ完全なまでに完璧じゃない。
いいんだよ、好き勝手なことを話したって。
好き勝手なことを話し合って、聞き合おう。
君に配慮せず、僕に配慮せず、互いに語り合おう。
そして、いつの日か友と呼び合おう。
それで、いいはずなんだ。

戦う意思を持て、この弱い魂よ。
この世界は腐るほど素晴らしいから絶望するにはまだ早い。
抗う意思を持て、この弱い心よ。
この世界は目が眩むほどに汚くて希望を持つには辛すぎる。
だから、愛することを止めるな弱い僕よ。
この世界がいつか愛で満たされることを信じて生きていくんだ。




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