君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



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罪人のかしら
僕は君を傷つけました。
僕は君に対して牙を向けました。
僕は君の人生を壊しました。
家族も恋人も仕事さえも。
結果的に僕は君から色々なものを奪いました。
君が僕を敵にした。
僕も君の敵になった。
僕は策略を練って謀略を仕掛けて、そして君に対して最高の侮蔑を行った。
傍から見ても、僕は何もしていない。
ただ単純に君が自分が掘った穴に落ちただけだけど。
僕ははっきりと君と戦っていた。
そして、僕が勝った。
僕は社会的な正義で、君は社会的な悪だった。
ただ、それだけの、本当に本当にくだらないことで僕は君に勝利した。

君は悪い人ではなかった。
むしろ良い人だった。
だけど、欠点もあった、社会的な罪を犯した。
僕には、それが許せなくて許せなくて、そして赦せなくて。
僕は君と敵対した。
何一つ認めないように自分の心の中に憎悪を燃やして。
それを正義に燃える義憤かの様に自分自身を誤魔化して。
自分の欲望を優先して、そして汚れを知らないような顔で君に対して接して。
悪魔の囁きを繰り返しては、天使かの様に振舞う。

この世の中で最も侮蔑すべき悪は、自分自身を悪だと思っていない悪だと思っていた。
そして、それはその通りで僕はその通りの悪党だった。
罪人のかしら、イエス様に対する最大の裏切り。
まるで、自分が神殿で怒ったイエス様の様な錯覚すら覚えて、僕は自分に酔っていた。
思い通りに事が進むのがこんなにも後悔を生むだなんて。
自分自身を良いものと見せることに上手くなんてなりたくなかったのに。
僕が社会に出た理由は、辛い人にかける言葉を探すためだったはずなのに。

いつからなんだろう、自分自身の幸せを優先させるようになったのは。
僕自身の夢や希望や欲望を優先させるようになったのは。
いつから、僕は君の悲しみに対して冷徹な目を向けるようになったんだい。
僕は君の苦しみや悩みやそういったものに対して、見放すような真似をしていたんだい。
僕が優しいだなんて冗談じゃない。
僕は、誰よりも誰よりも残酷だった。

僕が取るべき道は違っていたんだ。
君と話し、分かり合い、そして解決の道を探して一緒に頑張ることだった。
そんなことは頭では分かっていたし、僕が今まで得てきた知識でも分かっていた。
でも、僕はそのことを心ではまるで分かっていなかった。
僕は君に対して理解する努力を放棄し、分かり合う努力を放棄した。
君の吐く綺麗な言葉を全て嘘だと決めつけて、僕は何も見ようとしなかった。
目の中に梁が入っていたのは僕の方だった。

正義だとか悪だとかに拘って。
僕は愛を見失っていた。
まるで、心の中に愛なんてものは無くて。
まるで、心の中に愛なんてものは無かったんだ。

イエス様、僕は罪人のかしらですよ。
それもクリスチャンとして幼児洗礼と信仰告白を済ませているんです。
なのに、何一つあなたのようになれない。
自分の無力感を感じるばかりです。
あなたに対して何も返せない。
僕は、最も小さな人に石を投げるような人間だったんだ。

神様、助けてください。
どうかあの人に憐れみを。
神様、あなたが奇跡を起こせるならばどうかあの人に奇跡を。
僕が犯した罪をどうか取り去ってください。
この罪人のかしらの祈りをどうか聞き入れてください。
困難に合わせず、悪より救いだしてください。

ああ、ちくしょう。
僕は世界平和だとかを謳っていたはずなのに。


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生きろ、紡げ、例えそれが無駄だと思っていても
うまくいかない。
そんな言葉が頭の中を駆け巡る。
現実逃避が上手くなる度に、時が経つのが早くなる。
何かをしていれば、自分が生きていても良いと思うけれども。
それでも、時折訪れる言いようの無い無力感と焦燥感と虚無感は容赦をしない。
どうしようもない井戸の中で足掻く蛙の様に妄言を吐き続けている。

こんなはずじゃなかったんだときっと何年後かに言っているのだろう。
思ったよりも無かった自分の能力と心の気高さにいくらでも絶望するのだろう。
そんな分かり切っている人生を歩んでいるはずなのに。
ひたすらに、言葉だけは吐き続ける行動が伴わない偽善者になろうとしている。

無駄じゃないんだ。
何一つ無駄にはならないんだ。
だから、いいんだ。これでいいんだ。
そうやって自分を慰めようとしている。
これから先、何百年後かに例えば世界が平和になったとして。
それが君がいて、僕がいて、誰かが欠けても成り得なかった世界だと知っている。
そんなものはカオス理論にでも基づけば簡単な話なのだけれども。

本当は欲しいのは他人からの称賛、自分からの称賛。
そんなものを欲してしまえば、社会に蔓延る価値観に塗れてしまう。
実績を作れば、功績を残せば。
そんなものとは無縁な無償な愛の庇護の下に育ったはずなのに。
僕は教会の子供として育ってきていたのに。
いつの間にか、嫌いだったこの世の大人になっている。

本当に、本当に人間って奴は救いようがない。
実感を伴う体験ばかりだよ。
これは、確かにイエス様が十字架に架からなければ救われない。
そんなことを思う。
どんな言葉だろうと、万能だなんてことは無くて。
人それぞれの個性と罪とが爛々と輝いているんだよ。

誰もが変わらず汚く、罪深い。
まるで生きる価値が無いと思うぐらいに。
お互いに傷つけ合う。

だけど、未だに虚勢は張れる。
生きろ、紡げ、例えそれが無駄に思えても。
無駄だとしても、うまくいかなくても。
それが当たり前の世界なんだもの。
無駄なことに費やす人生も悪くない。
そう思って、生きていこう。






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誰もが辛い思いをしている
僕は生きるのが辛い。
毎日が辛いことの連続で、人との軋轢や確執に苛まされる。
何を持って行動すれば正解なのかなんてことは分からない。
ただ、ひたすらに社会から成長と希望通りの行動を期待されている。
レールから外れることを恐れ、自己を見失い、信念すらも薄れる。
辛いことの連続だよ。

僕が辛い原因なんてものは、きっと分かっていて。
この人がいなければ、あの人がいなければ。
そんなことを思いながら、頭の中で悪人を創り出していく。
自分の中にある罪を忘れ、責任を他者に押し付け、そして自分自身を優しくしようとする。
一片の欠片も優しくないはずなのに。

いつだって気分は被害者さ。
社会から虐められている振りをしながら好き勝手。
生きたいように生きているはずなのに、涙は止まらない。
帰りの車の中で真面目に人生を憂うようなこともする。
僕は自分のことを可哀想な人間だと憐れんで。
他の人間を愚かな人間にしようとする。

だからなのかもしれない。
いつだって見ないようにしている。
誰もがきっと自分と同じような思いをしていることを。
いつだって誰だって辛い思いをしていることを。
いつだって誰かに辛い思いをさせているかもしれないことを。
いつだって見ないようにしている。

そうさ、自分が一番の被害者になりたいのさ。
自分が世界で一番不幸な顔をしたいのさ。
だけど、そんなことは実際には無くて。
それぞれがそれぞれの辛さを感じている。
そいつを認めてしまえば、優しくなれるのかもしれないけど。
そんなものを認めてしまえば、まるで自分の辛さが否定されるような気がするんだ。

だけど、現実には誰もが辛くて。
その辛さも人それぞれ違っていて。
心に重荷を抱えて誰だって生きていて、誰もが自分と同じように
現実に抗いながら、日々を生き抜いているんだ。

そんなことを分かっているはずなのに、他人を羨もうとする。
愛することを忘れて憎もうとする。
誰かが自分よりも幸福そうにしているのが許せなくて。
自分の価値観に合わない幸せを享受している人間を心の中で断罪したりする。

そんな、くだらないけれども大切な自己防衛の機能に振り回されて。
また、他人との軋轢が広がっていく。
そんなことには飽き飽きしているんだ。
幸せだとか、辛いだとか、善だとか、悪だとか。
そんなことに縛られずに人を愛することが出来ればどれだけいいのか。
どうせ、皆が辛い思いをしているんだ。
ただひたすらにお互いを愛することが出来ればいいのに。

愛することが出来ないから辛いのに。
なのに求めてしまう。
愛することもきっと人間に出来るはずだと信じて。
僕は、汚れた心と体で生きていこう。





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偽善者と偽悪者
僕は時にひどく偽善的な人間になる。
世界平和だとか嘯いてみたり、人に優しくしたいだなんてことを言う。
僕の心の中にそれほどまでに強い気持ちがあるはずもないのに。
強迫観念に支配された子供が大人になろうと、必死に言葉を絞り出す。

僕は時にひどく偽悪的な人間になる。
自分自身を貶めて、他人からの視線を汚いものを見るかのように変える。
僕の中にある悪意とは別の悪意を演出する。
そうして、僕は僕を見る人を選別して自分を守ろうとする。

善も悪もその両方ともに純粋なものなんてものは人の心のほんの少しのはずなのに。
表面的に見える言葉や態度に騙されて、僕たちは人の心や行動を善か悪かで決めつける。
大切なものは善でも悪でもないはずなのに。
僕たちは愛を忘れて、偽善的にそして偽悪的に振舞う。

正しいよと肯定されれば否定して。
間違っていると言われれば否定して。
否定を繰り返していけば正解になると思っている弱い心。
僕の心の有様はその程度のもので。
消去法でしか物事を見れない、馬鹿ものだ。

誰かを傷つけている時は平気なのに。
後になって後悔する当たり前の人間の心。
サイコパスだなんて言うにはおこがましく。
ただ、ひたすらに凡人Aのはずがいつのまにか自分を天才か異常者にしたがる。
僕は、何も持っていない。
人を癒す心も、人を傷つける残酷さも。
僕の心には、何も何も持っていないんだ。

神様、久しぶりに祈りたい気持ちだよ。
僕は一体何なんですか。
僕は一体何者なんですか。
誰もが主役になれる世界じゃないなんてことを僕は信じています。
僕に与えられている役割は一体全体何なんですか。
僕は何のために生きているんですか。
僕の中の罪は、僕を悪党にするはずなのに。
未だに誰も僕を罵倒してくれない。
あなたでさえも、僕を罵倒してくれないでしょう。
僕は、赦されたくて仕方ないと同時に責められたいんです。
正しく無いと言われたくて仕方がないのに。
僕が信仰するあなたは全ての人を受け入れてしまう。
だから、僕は未だに何者にもなれない。
ああ、神様。
苦しいよ。

既存のクリスチャンが偽善者に見えてきて。
世の中の人が偽悪者に見えてきて。
どちらも偽物のように見ていく中で、本物が見つからない。
神様だけが本物だとしても。
偽物に塗れたこの目で僕は一体何を見ることが出来るんだろう。
僕は一体何を見ることが出来るんだろう。


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正義と悪と自己満足と欺瞞と罪
僕は罪を犯しました。
だけど、僕はのうのうと生きています。
この世から何一つ裁かれることなく、我が物顔で暮らしています。
今日も笑い、明日も笑い、幸せそうに生きていきます。
それが、何一つ間違っていないような顔をしながら生きていきます。

僕は、他人の人生を壊す手伝いをしました。
それは、何一つ責められません。
僕はが直接悪いことをしたからではないからです。
しかし、現実に僕は他人の人生を壊す手助けをしました。
社会的には正義だったのかもしれません。
だけど、そんなことはどうでもいいんです。

正義だとか悪だとかそんなものはどうでもいい。
その思想・信念の結果傷つく人がいれば何の意味もなさないと思う。
それを実感した。
僕は正義感を隠れ蓑に他人に対して罠を張って陥れた。
全くの自業自得を白日の下に晒しただけだけれども、正解は別にあったのかもしれない。

僕があの人にああ言わなければ、この人にそう言わなければ。
全員が笑って迎える最期もあったのかもしれない。
僕は行ったことは社会的に正義でも、僕自身はどうしようもない悪党だ。
反吐が出る、吐きそうだ。

社会的に正しいだとか、法律がどうだこうだとか。
そんなものが人を傷つける材料になるんだもの。
どうすればいいんだい、僕は。
何をすれば正義だとかは本当にどうでもいい。
正義を行った結果、傷つく人がいるのならそんなものは本当にどうでもいい。

罪人、咎人、恨まれ人。
そんな存在の僕らが正義を語ることにすら吐き気がする。
傷つけて、傷つけられて、傷つけて、傷つけて、傷つける。
憎悪を巻き込み、他人を燃やしつくそうとする。
そんな自分なのに、何が正義だ、何が悪だ。
ひどく虚しい。

一体、僕は何をしているんだろう。
世界平和を謳いながら僕は一体何をしているんだろう。
正義なんてものは求めていなかったのに。
結局、正義の力を借りて人を傷つけている。

愛が欲しいんだけど、どこにいけばあるんだい。
教会に行けば愛があるのかい。
祈れば愛が降ってくるのかい。
聖書を読めば愛が湧き出るのかい。
生憎とそんなことをしていた頃と比べても僕は何一つ変わっていない。

ひどい茶番だ。
人生なんてものはひどい茶番だよ。
ああ、嫌になる。




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愛する君に捧ぐ言葉すら無い
思えば、色々なことを経験した。
色々なことを見聞きした。
大切な友人からは、精神障碍者扱いをされたこともあった。
理想論を語る人間は、パラノイアなのだと言うことも分かった。
理想を現実にする努力をしなければ、語る価値すら無い程に理想論の敷居は高く
それなのに、ただ生きているだけで語る資格がある現実論の敷居は驚くほどに低い。

僕は、この世界で生きる努力をしているよ。
だけど、理想論を吐きたいんだ。
現実なんてものに惑わされたくなくて。
だけど、現実に僕が何をやっているかと言えば、この世界の現実の汚さをまるで体現している。
愛する君に捧ぐ言葉すら無い。

どこかで誰かが人を殺して。
その死体を誰かが処理している。
その誰かが、自分の友人で無ければ僕も決して想像はしなかっただろう。
理想論を吐くだけでも不快に思う人間がいることを。
誰にでも受け入れられる言葉なんてものは無いということを。
僕は今まで知らなかったのかもしれない。

どうすれば、皆が平和に暮らせるかなんてことを考えることすら傲慢で。
世界平和や人間愛に固執することすら、間違っているのかと思える。
自分自身をエゴイストと卑下したところで、何か変わるわけでもなく。
言葉は空回り、意思は空へと消えていく。
僕の魂なんてものは影響力を持たずに、天国へと一直線さ。
この地上に何も影響を与えない。

無力感だけは、日に日に大きくなっていき、虚無感は僕は支配しようと躍起になる。
そんな時の人を慰める言葉を考え得ていたのに。
そんな時の人を励ます知識を得ていたはずなのに。
その言葉も知識も、僕は励まさず、僕は自分自身の言葉と知識を否定する。

どうしようが、こうしようが手詰まりさ。
何も出来ない自分に絶望することすら少なくなる次第の毎日が無意味に思えてきて。
いっそ、このまま無に帰すのも悪くないと思いながらも僕は言葉を吐いている。

愛することが何かも分からず。
この世で何も出来ず。
それでも生きていいと思えない。
そんな自分なのに生きている。
そのことに感謝すら出来ない。

なぜ、自分は不幸なのかと問いかければキリストの言葉と仏陀の言葉が出てくる。
それを心理学の見地から否定しては、僕は結局答えを出そうとしない。
何一つ分かっていないはずなのに、全てを否定する。
真っ平御免だ、何も考えたくないと思いながら知を求める自分を誇る。

どうすればいいっていうんだい、どうすればいいっていうんだい。
どう生きれば正解で、何も不安に思わず、幸せに生きていけるっていうんだい。
誰かが傷つければ、罪悪感に塗れる心を抱えて幸せになれるものなのかい。
幸せなんてものはそもそも可能なのかよ。

そんな自問自答を繰り返しながら、明日からまた頑張ろうと言い聞かす。
疲れたと、一言漏らせばそれで終わり。
夜は終わり、朝が来る。
明けない夜は無い。
沈まない日は無い。
僕たちは明暗を繰り返して生きていて、折衷案をいつだって探している。

愛する君に捧ぐ言葉すら無い。
無力な自分への、慰めの言葉だけは出てくるのに。
愛する君に捧ぐ言葉すら無い。
残酷な自分への、言い訳の言葉だけは出てくるのに。

ただひたすらに絶望することもできずに、生き長らえてみよう。
まだ、きっと答えを出すには早すぎると言い訳出来る。
まだ生きよう。
君に捧ぐ言葉ぐらいは、せめて見つけたいから。




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最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである
最近まで忘れていた御言葉がある。
この御言葉を最近忘れていた。

マタイによる福音書 / 25章 35節~40節
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』


この御言葉が僕には小さい頃よく分からなかった。
誰かに優しくすれば、それはイエス様にするのと同じこと。
それは、とても素晴らしい、ハレルヤだ。
そんな程度の認識だった。

どこの宗教でもありそうな、誰かに優しくすれば天国に徳を積む分けではないけれども。
ただ単純に、優しくする動機づけをイエス様によってしている。
そんな穿った目で見るから、教会の慈善事業を結局は自己満足の場として捉えていた。
自分が幸せになりたいから、相手に親切にしている偽善者とすら見ていた。
自分が助かりたいから、自分が救われたいから、自分が幸せになりたいから。
そんな理由で人に優しくして悦に浸っている人間を嫌いだと思っていた。

だけど、人間はそういうものだということも知った。
自分自身が利己的な人間であることも知った。
無償の愛なんてものを与えられることがは出来ず、いつだって利己的な愛ばかり。
義人なんてものはどこにもいなくて、全ての人が罪人で。
時折、そんな罪人の中でも純粋な優しさと思えるものも目にするけれども。
それは、結局神様から来ているものなのに。

それなのに、イエス様は僕たちにそんな不完全な優しさに対して自分にしてくれたと言ってくれる。
利己的な愛、利己的な優しさ、利己的な慈しみ。
そんなものしか持っていない僕らの行動を、自分にしてくれたと言ってくれる。
優しさも、愛も、この心にある全て素敵なものはあなたから来ているというのに。
それなのに、自分にしてくれたと言ってくれる。

こんなに嬉しいことは無い。
自分の存在を認められた。
こんな自分が行ってきたことを、そんな風に言ってくれるなんて。
そう思うと、涙が出た。

僕の聖書解釈は間違っているのかもしれないけれども。
それでも、僕にとってイエス様の存在は大きくて。
必死になっている自分を否定せずに、より大きな愛を与えてくださると思える。

僕は、これからの人生で大きなことは起こせないだろうけれども。
指導者になることも無いだろうけれども。
立派で愛溢れる人間になることもないだろうけれども。
こんな利己的な自分の不完全な愛の結果すら、自分のためにしてくれたと言ってくれるイエス様がいる。
それだけで、まだ生きていける。

僕は、クリスチャンでいて良かった。




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