君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



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舞台の照明に照らされていなくても
どこにいても、同じことが起こるんだ。
目立つ人間と目立たない人間の差が起こる。
舞台の照明に照らされる人間と、それを支える人間。
それを傍観する人間と、そもそも劇場に入れない人間。
誰もが、舞台の上で照明を浴びたいと考える。

教会に来れば、誰もがそういった立ち位置になれるように言う人もいる。
だけど、現実には歌がうまい人、話がうまい人、何かを待っている人。
彼らに照明は当てられ、賛辞の声が湧き上がる。
求めても、求めても、手に入らないもの。
そんな気持ちは教会に行こうが、どこに行こうが付きまとう。

与えられた才能を活かせる人間なんてものはほんの一握りで。
信仰があれば、自分が持っている能力を開花させることが出来るなんていうのは。
実際のところ、出来ない誰かなんて言うのは確実にいるんだよ。
まるで、信仰さえあれば誰もが経営者や、リーダーになれるなんて言う言葉がある。
だけど、全員がリーダーになるなんてことはあり得ない話だと思うんだよ。

舞台の照明に照らされなくても、その手伝いを出来なくても。
ただ、傍観していても、劇場に入っていなくても。
別にいいじゃないか。

与えられた能力なんてものは、大抵の人間にとってはちっぽけなもので。
才能の差なんてものはどこに行こうと付きまとう。
自分より能力が上の人間は腐るほどいて。
そして、劣等感に塗れた自分なんてものもどこかにいる。

別にいいんだよ。
劣等感に塗れていても、嫉妬しても、能力を充分に発揮できなくても。
大切なことはそういうことじゃない。
誰かと愛を育めるか、何よりも自分自身を愛せるのかと。
最も、大事なのはそこなんだと思うんだ。

愛されるために必要なもの。
そんなものは無くて。
誰もが愛を受ける権利を持っている。
誰もが愛する権利を持っている。
愛するために必要なものなんてものは無くて。
愛すること以上に大切なものなんて無くて。

だから、舞台の照明に照らされていなくてもいんだよ。
誰かを愛して、愛される。
それだけで、なんて幸せな人生なんだろう。
そして、なんて難しい人生なんだろう。

憎むほどに愛せない僕らの才能とやらは、一体何のためにあるんだろう。。
こんな時だけ、神様に頼りたくなる自分の弱さすら。
強さと言ってくれたイエス様を信じること。
クリスチャンなんて、その程度のものだと思うよ。


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ハレルヤと叫ばなくてもいい
僕はプロテスタントの教会しか知らないけれども。
それでも、この世の中にはたくさんの宗派がある。
そのどれもが恐らく不完全で完全なものなど無いと思う。
不完全だからこそイエス様が十字架に架かる意味がある。
僕は、そう思う。

宗派の中には自分たちが一番正しいと主張する輩もいる。
決まり文句は「聖書を文面通りに受け取っているから」と言うが
実際、そんな奴らは見たことが無い。

大抵は、自分の都合の良い部分しか見ずに適当な理由をつけて
都合の悪い部分は改変していると思っている。
アーミッシュにまでなれば僕は本物だと思うが、今の日本でそこまで
文面通りに聖書を信じている人間がいるとは到底思えない。

自分が正しいと思う人間は気が大きくなるもので、
まるで自分自身の信仰が絶対かのような物言いをし始める。
それが、優しさだと思っているからか後ろめたさが無いからか。

ハレルヤと叫ぶ声は大きくなり、それに影響される人間も出てくる。
まるで、皆がハレルヤと叫んでいるかのような錯覚を覚えるが、
実際のところは、地味に地味に信仰を守っているような人も数多くいる。

誰もが不完全だから、叫びたければ叫べばいい。
ただ、それは別に正しいわけでもなく、真実であるはずもない。
それぞれの信仰を神様は知ってくださっていて、そして憐れみをくれるはずさ。
どの信仰が一番正しいかなんてことは、イエス様が王様になったときに大臣の座を争った弟子のようだ

自分の信仰が正しいと叫ぶことほど実は傲慢なことは無い。
正しいものを信じているということは、自分にはまるで正しい目があるかのようだから。
僕たちは、常に間違っている。そして、常に間違いが故に誰かを傷つけている。
そのことに涙することもあれば、認めない時もある。

だから、ハレルヤと叫ばなくてもいい。
自分自身の愚かさに打ちひしがれて、とてもハレルヤと叫べない時もある。
それでいい、それでいいんだよ。

神様はそれぞれの信仰に憐れんでくれるはずさ。
だから、ハレルヤと叫べなくても何一つ気に病むことなんかない。
僕らのそのままの、それだけを受け入れてくれる神様がいるはずなんだから。

クリスチャンだからと無理をする必要も無い。
僕らはこのままでも、充分過ぎるほどに愛しいのだもの。
愛しいと思える人たちがいるから。
だから、僕たちはこのままでもいいと信じたいんだよ。



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高笑いするブラックボックス
虚しさに打ち勝つ方法をいつも考えている。
虚しさの先に何が残るのかと考える。
誰もが笑っている世界を望んでいても。
笑うこと以外の感情もとても大切なことを知っている。

悲しみを経験しなくては、人は優しくなれないことを知っている。
でも、誰かを悲しませたくはない。
絶望を知らなければ、立ち上がる膝の力強さを知ることが出来ない。
でも、誰にも絶望して欲しくない。

経験が自分の糧になることを知っている。
でも、個人の経験には限界があることを知っている。
積み重ねてきた知識は、ただ一瞬の思い出によって全てを壊されて。
先人たちの想いが灰になる。

何をどうすれば世界が平和になって、人々が笑いあえるのか。
個々人が違う答えを持っていて、答えを持っているが故に争う。
どうすれば、なんて言葉が無意味に思えるほどにこの世には答えが溢れていた。
真偽のほどを確かめるのすら億劫になるほどに。

知恵は絶望を生み、知識は悲しみを生む。
信仰は喜びを与え、欺瞞の芽を生やす。
何か一つを取り沙汰する度に、心は歪んでいく。
その感情の何一つも正しくないくせに。
僕らは何か一つだけを選びたがる。

悲しい世界だ。
僕は、結局これが言いたい。
どうしようもなく、絶望的な状況の中にある中の愛をどれだけ誉めたたえようとも。
人間が不完全であることには間違いなくて、だからこそ子孫を増やすことに気が付く。
いつか、完全なものになるのかと問うてみても。
答えは遥かかなたの先にある。

信じようとしても、信じ切れずに。
疑おうとしても、心の中で何処か信じている。
矛盾している心を上から見上げている自分自身は一体何者なのだろう。

人は怖く、恐ろしく、優しく、暖かい。
パラドックスこそが本質だと考えてみても。
結局のところは何一つ思いつかない。

ただ、ひたすらに明日を追い求めて。
高笑いするブラックボックスを見つけだそう。




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ホームスクーリング
思い返してみると、僕が高校生ぐらいの頃だったかもしれない。
チャーチ&ホームスクーリングの団体の人たちが僕の教会に来たのは。
今の学校教育を拒否して、自宅と教会で聖書に基づいた教育を行うというものだった。
その当時は、一歩間違えれば虐待だなと思いながら見つめていた。
今もその意思は対して変わらないけれども。

思えば進化論以外で聖書の記述と学校教育が相容れない部分はあるんだろうか。
国語や数学、そして理科や社会、そして音楽がどれだけ聖書と相容れないのだろう。
国家、国旗問題なんてものもあるけれども、カイサルのものはカイサルに返すはずだろう。
ホームスクーリングの本質的な願望は別のところにあるような気がする。

要は、いつまでも「クリスチャンの子供」でいて欲しい。
結局のところそれが本質的な願いのような気がする。
クリスチャンとして育ち、クリスチャンとして青年になって欲しい。
そのために、出来るだけ外界から情報を遮断してキリスト教だけを見ていて欲しい。
それが、ホームスク―リングの本質だと思うんだよ。

思えば、そういった教育をした結果の成功例は数多くあると思うんだ。
僕の知り合いにも、生まれたときから教会育ちで今も「クリスチャン」な人間はいる。
一方で、教会で育ちながらも放蕩息子のようになり、悪びれもせずにいる僕のような人間もいる。
その教育が無駄とは言わないけれども、大人になればなるほどクリスチャンとしての自分は最終的に、
自分で選択せざるを得なくなる。

自分で選択せずに流されるままに生きてきた人間の信仰は意外と脆いもので。
未婚で性行為なんてものを体験すると崩れるようなものだと思うんだ。
人間は数多くの過ちを繰り返す生き物で、その度に自分自身が試される。
その試練全てに対応出来るほどホームスクーリングは万能ではない。
何よりも、クリスチャンの価値観以外には触れられない。
だから、新しい価値観を作ろうとしても材料が乏しくなるんだよ。

学校に行けば面白いもので、他宗教の人間とも出会える。
以前、エホバの証人の友達と何日も何時間も話したことがあった。
その度に聖書を読み込み、お互いの矛盾点を探り合ったよ。
大学に入れば仏教徒の友達と出会ったりもした。
何よりも無宗教の人間の価値観に触れられるのはとても面白い。

無宗教の人間の思考や、人生の生きる意味なんてものや大切にしているもの。
それに触れるたびに自分自身を思い返して、信仰も変わっていく。
僕は、それが良いと思うんだよ。

単一の価値観が正義だと信じていても、現実にはいろいろな価値観がある。
いろいろな価値観を認めないのならば、世界は断絶の一方向で。
決して、平和なんてものは訪れない。
心を開かないと、信頼なんてものは生まれないんだ。

僕は学校教育並みに勉強を教えて様々な価値観に触れられるようなホームスクーリングなら良いと思うよ。
だけど、それは学校教育と変わらない。
だから、ホームスクーリングはそういったものとは違うんだろう。

子供はいつか大人になる。
その時に、クリスチャンであるか否かがそんなに大事なのかな。
どんな人間になっても親には愛していて欲しいよ。
クリスチャンか否かで愛情が変わるのならば、僕は親の愛を疑ってしまう。
親の信仰とやらを疑ってしまう。
そんな穿った見方も、大人になれば覚えてしまうんだよ。





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誠実に生きたい
誠実に生きたい。
お金を得るために吐き出す嘘も真っ平御免で。
気に入られるために上司にごまをする自分にも嫌気が差す。
ただひたすらに、相手のためを思う仕事がしたい。
だけれども、介護職なんてものは賃金が安くて今の職場から離れる気がしない。
夢や願望よりも、日々の欲望を優先している僕の苦しみなんてものは自業自得なんだろう。

何だって、こんな世界になっているんだろう。
足を踏ん張って、世間の価値観に流されまいとしても歩き出すうちに溺れてしまう。
相手の機嫌を伺っては、苦しみを抱えて吐きそうになる。
一人でいるときですら、心は対人関係の名残に支配されている。
ひたすらに自分自身に自問しては、今以上のことをしない。
努力を惜しむ自分に対して、やれば出来ると慰める。
出来ないから出来ないはずなのに。

自分自身に対する絶望を吐きだしたところで、誰が慰めてくれるわけでもない。
この社会は脱落者には不利な世界で、不登校だった時代にそれは感じた。
一度、社会の枠組みから外れた人間が復帰することさえ困難で。
仕事という言葉に縛られて、重りをつけられる。
辛いことが当たり前。
そんな言葉にいつだって騙されそうになる。

色々な意見や誇りが飛び交うような社会の中で、自分の意見を曲げない。
それは、時に美徳を生む代わりに話を聞かない言い訳にもなる。
人は一人では生きてはいけないはずなのに、他人を認めない。
そんな、大人がごろごろいる中で今時の若者や子供を馬鹿にする。

この社会は辛い。
それは、はっきりと分かってきた。
この社会は愛しい。
それも、はっきりと分かってきた。

どこにいても、人の傲慢さなんてものは表れて。
そして、優しさもどきにでも表れて。
だからこそ、ひどく混乱してしまう。

クリスチャン、この世界は大変だ。
信仰を持っていても、その信仰を社会でも貫けるなんて人は一握りで。
僕のように、この世の価値観に流される人間もいる。
信仰によって、この日本が変わるなんてことはあり得ない。
愚者が賢者のために、その身を捧げるように出来ている社会で信仰は役に立つのかい。

誠実に生きようとすれば、貧乏くじを引かなきゃならない。
それが嫌ならばずるくならなければならない。
どちらにせよ、苦しみ道になるのだけれども自由意思に採択権が与えられる。

悲しい世界だ、だけど好きだよ。
いつか、誠実に生きたい。
いつか、優しく生きたい。
そんな叶わない願望を努力することすら放棄している。

さあ、行こう。
明日も何があるか分からない。
自分自身に対しての言い訳をしている間にも明日は訪れる。
さあ、行こう。
いつか、自分の夢を叶えるために。






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あまりに傲慢な心
僕は人生において成功したい。
お金がたくさん欲しいし、良い家に住みたければ、車もルノーのカングーが欲しい。
あれが欲しくてこれが欲しくてたまらない。
だけど、実際には中小企業に勤める単なる会社員である自分がいる。
そのことに対して、自分自身に対する不満はあるもののそこそこの自分だと感じている。
あまりにも傲慢なこの心に嫌気が差す。

僕は人生において失敗したくない。
お金を失いたくなし、ホームレスになりたくないし、薄汚れた靴で歩きたくない。
あれも失いたくないし、これも失いたくない。
だけど、実際には中小企業に勤める単なる会社員である自分がいる。
そのことに対して、自分自身に対する不満はあるもののそこそこの自分だと感じている。
あまりにも傲慢なこの心に吐き気を覚える。

五体満足なことに喜びを覚え、ホームレスでないことに感謝する。
両親が愛情溢れていることを当たり前のように享受し、周りの人間の親切に甘える。
人の愛が周りに溢れていないことに不平不満を口にしながら、自分は愛せていない。

僕は、誰のために生きたかったんだ。
弱い人のために、生きたかったんだよ。
社会的に弱い人のために生きたかったんだよ。
だけど、現実には社会的に弱くは無い自分自身を受け入れて安心してしまっている。

人よりも強い体格に誇りを覚え、知識の数をひけらかす。
そのどれもが、自分自身に使えば意味が無いものだと知りながら
ひたすらに、自分自身の見栄えを良くするために使う。

思い描いた理想像を追い求めることが是とされるような社会に共感を覚えて、
夢破れて傷ついた人達を見て、自分の傷を癒そうとしている。
そんなことも当たり前かのように平気で冷たい言葉をかける社会が現実かのように思えてきて。
僕は、自分自身を誰かよりは幸せだとか思っている。

コミュニケーションが下手な人間よりも自分が優れている。
働いていない人間よりも自分が優れている。
自分よりも肉体的に弱い人間よりも自分が優れている。
自分が、自分が、自分が、自分が。
誰かに優しく出来るときは、その人が自分よりも劣っていると思えるからなのだろうか。
僕が障碍者や、ホームレスを見るときの目は単なる優越感なのだろうか。
そんなことを思っている。

夢に破れようが、ビジョンとやらが叶えられなくても、家を失い路上生活になろうとも。
ただひたすらに尊厳を認め合い、幸せに生きようとする社会が正しいはずなのに。
いつからか、自分の中の線引きが厳しくなっている。
なぜ、こんなにも誰かを貶めることによって自分自身が幸せだと思うのだろう。

誰かと比べても仕方が無い。
重要なのは自分自身が幸せかどうかなどとはよく聞くよ。
だけど、何よりも怖いのが不幸になることよりも傲慢な自分のまま生きていくことなんだ。

優しくなりたいんだ、上からの目線なんてものを持ちたくないんだ。
全ての人と仲良くしたいんだよ。
誰とも敵になりたくないんだ。
誰とでも笑顔でいたいんだよ。

傲慢でいたくない。
強迫観念のように立派な人になりたがっているよ。
でも、それも誉めて欲しいから。
未熟なこの心がいつか大人になれますように。

そんなことを思いながら生きている。







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知的障碍の方へ信じれば救われますと伝道してください
僕はキリスト教を信じている。
それは、十字架の贖いを信じていることに他ならないのだけれども。
僕の信仰が僕の救いに関係があるとは思っていない。
全ての人が救われていて、後はその恵みを受け入れるか、受け入れないか。
受け入れなくても、救われていることに変わりは無い。
僕はそう信じている。

そうじゃなきゃ救われない。
知的障碍の人が救われないんだよ。
信仰告白なんてものがひどく高い敷居に思えてしまうほどに。
重症心身障碍者なんてものは、どのような頭の中になっているのか。
僕は分からないけれども「信じる」ということが不可能な人がいるんだよ。

彼らはどうなるのかと、クリスチャンに聞いたことがある。
「それは、神様の領域だから分からない」と言われたよ。
だけど、それは本当に神様の領域なのかい。

信じれば救われると言っているのに、信じることが出来ない人に関しては神様の領域だと言う。
それは、卑怯だ、卑怯者だよ。
信じれば救われると言うことに責任を持つのなら、彼らは救われない。
地獄に落ちるから、信じましょうと言うべきなんだよ。
知的障碍の方へ信じれば救われますと伝道するべきなんだよ。

中にはこんな答えの人もいた。
「そういった人達は、心の目に見えない部分で神様と繋がっているんだよ」
待ってくれ、そいつは聖書のどこに書いてあるんだい。
君が信仰の礎としている聖書のどこにそいつは書いてあるんだい。
ただ単純に願望でそう言うのであれば、君は聖書以外に信仰を持ってしまっているんだ。

もし、百歩譲ってそういった人達が心の分からない部分で神様と繋がっているとしよう。
じゃあ、境目はどこなんだい。
知能指数がどれだけあれば、直接神様と繋がれないんだい。
学習障害やアスペルガーはどうなるんだい。
一体、健常者と障碍者の境目をどこに置くんだい。

大宣教命令では全ての人に伝えなさいと言っていただろう。
それなのに、信じれば救われると言いながら、伝道する人を限定するのかい。
僕は、それはおかしいと思うんだよ。
全ての人に伝えることが出来る福音を手に持つべきなんじゃないかい。

もっと、はっきり言ってしまえばそんなものは福音じゃない。
健常者だけに赦された救い。
そんなものは馬糞にも劣るほどに腐ったものだと思うんだよ。

信じれば救われる、と言う人たちに言いたいんだ。
じゃあ、信じることが出来ない人はどうなるんだい、と。
分からないなんて言わせない。
信じれば救われると言ったのは、そっちだもの。

その答えを出さずにキリスト教を伝道し、人が増えたと喜んでいる。
そんな人たちに言いたいよ。
君の言葉で、君の世界の中で、たくさんの人を強制的に地獄に落としながらハレルヤと叫ぶのかい。
そう言いたいんだよ。

僕が言っているのは、自閉症だとかアスペルガーだとか言う障碍じゃない。
本当に、知能指数が10以下の人達だ。
生きているんだよ、存在しているんだ。
彼らになんて言って伝道するんだい。

なあ、教えておくれ。
「信じれば救われる」
そんな言葉を吐きだす時の君の心の中には、知能障碍の人は頭の中にいたかい。
まるで、絶対的な真実を振りかざしている時、差別をしていたと思ったことはあるかい。

なあ、誰か教えておくれ。
信じることが出来ない人は死んだら一体どうなるんだい。








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君が見た神様の奇跡なんてものより
僕たちは、矮小な経験で物事を見がちになる。
この世の中には、ありとあらゆる知識と知恵と経験が溢れている。
それなのに、その中のほんの少しばかりの知識と知恵と経験で物事を見る。
そんな愚かなことが流行っている。
それは、クリスチャンだとかノンクリスチャンだとかに関係無い。

年齢を重ねていき、頭の中身が固まって人の意見を聞かずに
自分が積み重ねてきた経験を肯定することにより、他人を否定する。
それが、当たり前だと思う。

例えば、どこぞの教会で爆発的に信徒が増えたりする。
ハレルヤと叫び、神に感謝し、日本のリバイバルとやらを確信したりもする。
なあ、幸福の科学を見てみろよ。
信徒数を異常に増やした揚句に、映画まで作ってしまった。
クリスチャンがやりたくてやりたくてたまらないことをあっさり数十年で実現しているんだ。

それでも言うのかい、リバイバルを確信してるだなんて。
新興宗教が幅を利かせている日本の宗教事情の中で、キリスト教がどれだけの地位を保っているんだい。
目の前に数人の救いを純粋に喜べばいいさ。
だけど、それは日本という国を救う確信の材料にはなりやしない。

キリスト教徒が主張するこの世の見方なんてものは偏っているんだ。
汚れた世界やら、暗い世界だなんてことを事あるごとに主張するし。
昔に比べて今の方がひどいだなんてこともよく聞くんだ。

だけど、モラルは昔に比べたら遥かに良くなっているし人権も守られている。
子供達は外で遊ばないかもしれないが、全体的な礼儀正しさは上がっている。
少年犯罪は減っているし、冷静に物事を見る子供が増えた。
インターネットの普及で、情報交換や多角的な視点なんてもの手に入るし、
世界は意外と良くなっては来ているんだよ。

君が見た神様の奇跡なんてものよりも、僕はその方が素敵に思えるんだよ。
人間が積み重ねてきた知識や知恵や経験なんてものが無駄になっていない。
そんなことの方が僕にとっては大切なんだ。

キリスト教以外の価値観が無意味なら、ノンクリスチャン達の生と死が侮辱されるんだ。
戦時中に戦死した人たちの生と死が無駄になるんだ。
積み重ねてきているんだ、良くなってきているんだ。
昔より遥かに良くなってきているんだよ。







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キリスト教を信じているはずなのに、こんなにも苦しい
僕は、自分自身をクリスチャンと言っている。
人からはよく疑われるし、日々の言動もまるでクリスチャンらしくは無い。
心が痛むような光景も割合と平気で、サイコパスには憧れる。
だけど、僕は十字架の贖いをこれでもかというほどに信じている。

クリスチャンになれば、この世の中身も悩みも全ては吹き飛ぶようなことを話す人がいる。
大いなる偉大なる、何よりも素晴らしい愛を受け取っているから。
僕たちは、何よりも自由なんだと叫ぶ人たちがいる。
苦しみも神様に委ねれば喜びに変わるという人たちもいる。

正にきっと本当はその通りなのだと思う。
人間は、きっと心の持ちようでどこにいても天国に思えるのかもしれない。
ただ、それがキリスト教か他の何かの違いであってもそれは変わらない。
人間の心に起きる奇跡なんてものは、心理学である程度は説明出来てしまう。
僕は、そんなことも信じている。

だからなのか知らないけれども、生きるのが苦しいよ。
無力感から始まって、不安に心を飲み込まれて、死ぬことへの絶望が無い代わりに生きる希望を持てない。
そんな日々の中で、十字架の贖いが何になるかと言えば、生きていく希望になってしまうからなのか。
自殺する気にも到底なれずに、同じ場所で同じ日々をぐるぐる繰り返している。

年齢を重ねていくたびに、まるで一年が一カ月のように思えてきて。
去年よりもまるで成長していない自分自身に驚いてしまう。
あのとき感じた自分の才能は枯れていくのを感じて、ひたすらに凡人Aの人生が幕を開ける。
何物にもなれないことへの諦めは未だにつかず、ひたすらに自分を自分自身が擁護する。

君は、ただ単純に生きているだけで素晴らしい人間なんだよ。
そんな言葉をかけられても素直に聞くことなんて出来ないんだよ。
欲しい言葉や欲しい人は決して手に入らない。
生きていくのが苦しくなっていく。
まるで、人一人救えない自分自身の不甲斐なさと相まって、ますます息がし辛くなるんだよ。

希望は無くならないのに、妥協だけは増えていく。
夢を追いかけている人間を羨むようになった。
絶望していく世界をただ追いかけるような日々を過ごしている。

嗚呼、ちくしょう。
望みどおりだこの野郎。
こういう人生を望んでいたんだよ。
苦労がしたかったんだ、絶望したかったんだ。

ここからなんだよ。
こんな苦しい自分にかける言葉をいつだって探しているんだ。
人の痛みが分かるようになりたかったんだ。

何をしているか分からない人間にかける言葉を探しているんだ。
何をしているか分からない人間に欠ける言葉を探しているんだ。
僕はいつだって誰かに救われたくて、誰かを救いたがっているんだ。
そんなことはイエス様にしか出来ないと言われようとも、僕はイエス様のようになりたかったんだ。

辛い現状から逃げるだけの人生なんてものは真っ平御免で。
僕は誰よりも惨めに生きながら笑って暮らしたいんだよ。
この愛に満ち溢れながら、絶望に塗れた世界の中で僕は少しでも優しくなりたいんだよ。

未だに誰にも優しく出来ない僕の心がいつか変わることを望みながら、いつだって裏切られる。
虚しさに支配されそうになりながら、頭の中ではいつだって叫んでいる。
おかしい、こんな世界はおかしいんだと叫びながらおかしな世界の一員になっている。

キリスト教を信じているはずなのに、こんなにも苦しい。
だけど、苦しくならないと僕は人に優しくはなれないだろう。
誰かのための言葉なんてものは生まれないんだろう。
だから、これでいい。
これでいいんだ。

僕の人生はこれでいいんだよ。
そんなことを自分に言い聞かせながら、今日がまた終わる。
明日は、少しだけ優しくなれますように。






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不自然な生き方
僕たちの多くは幸せになりたがる。
幸せになりたくて、なりたくて仕方が無いんだ。
何がどうなれば幸せなんてことは分からないけれども。
曖昧な言葉を抱えたままに、霧の中をさ迷う。

幸せになるための一番の薬は自分自身を認めてやることだと思う。
自分には価値がある、自分は生きていてもいい。
そんな風に思うことで、少しだけ幸せになる。
だから、人が人を見下したり差別したりすることはとても自然なことだと思う。

障碍者を見て、ああならなくて良かったなと思うことも自然で。
あいつは駄目な奴だと見下すのも当たり前で。
君なんかに生きている価値が無いだなんて言うことも普通のことなんだよ。

自分自身を認めてやるにはどうしても自分を肯定しないといけない。
だから、誰かを否定する。
自分の正しさを肯定するために、自分自身の生きる故を肯定するために。
誰かを否定して、陥れて自分自身の正しさを肯定する。

そんなことはごく自然で、当たり前のことなんだと思う。
僕らはあまりにも効率的なことを求めるから、幸せになるために一番楽な方法を取ろうとする。
簡単で簡単で仕方が無い、自分の身近にいる自分よりも何かが劣っている人間を掴まえればいい。
そして、否定して陥れて搾取して。
そうして、自分が幸せになれば万事解決さ。
幸せになろうとすることを誰も止めようとしないのだもの。

だから、他人に優しくしたり、慈しんだりする方が不自然なんだよ。
幸せを求めずに、他人のために動き、見返りを求めない。
そんな姿の方が不自然で異常な姿なんだと思う。

間違っていると思う姿が自然で、正しいと思える姿が不自然。
矛盾した世界観の中で、誰もが言いあう。
「僕は自然に生きているだけだ」
「私は正しいことをしているだけ」
結局はどちらも正しくなく、自然でも無くなっていく。

不自然な生き方の方が好きだけど、いつだって自然に生きていたい。
他人のために働きたいけれども、自分だけ幸せになりたい。
いつだって矛盾しているのが人間で、どちらかには偏らない。

不自然でもいいから、優しくなりたい。
異常でもいいから、慈しむことが出来るようになりたい。
この世界はあまりにも冷淡に物事が進む。

この先の世界の自然はどうなっていくのだろう。
望むなら、今なら不自然な生き方が自然になっていて欲しいものだよ。





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