君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
プロフィール

一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



FC2カウンター



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


媚びるな
僕らは日々何かに負けている。
社会に、教会に、上司に、仲間に、友達に、恋人に、他人に。
いつもいつも、何かに負けて心を折られてひどい気持ちで家路に就くのさ。
暖かい家庭が待っていても、冷たい床が待っていても変わらない。
僕たちは日々何かに絶望して、絶望しきれなくなった心の中の妥協を漂う。
抗うことにも飽き始めたころに、強者に媚びる。

自分が傷つかないために、自分を守るために。
誰かに媚びながら、時には自分自身に媚びながら僕らは自分を守る。
そして、強者になることが出来れば媚びられる毎日が待っている。

単純な権威主義が未だにまかり通っている世の中に対して
権威主義の塊の政治が何かを出来るはずもなく、
ただただ世の中は欲望の流れに身を任せる。
僕たちは、そんな世の中に媚びながら抗い方を忘れていく。
自分自身の中にあったかけがえの無いものを、自ら手放していく。

ちくしょう、媚びるなこの心。
負けるな、諦めるな、妥協するな。
僕のこの心はとてもとても弱いから。
負けたり、諦めたり、妥協したりの連続だよ。

日々に流され、時間に追われて、新しい何かや追い求めている何かがどんどん遠ざかる。
そんな馬鹿なと思うほどに、自分の年齢が重なる早さに驚くんだよ。
あと、何年あれば僕は変われるのかと言い聞かせても、動かない足がある。

それでも、媚びるな。
諦めるな、妥協するんじゃない。
僕の心に言い聞かせるんだ。
君の心に言い聞かせるんだ。

悪習に媚びて、それを踏襲してしまえばそれが正義になる。
そして、それが次世代に引き継がれていく。
そんなことは真っ平御免だ。
腹が立つほどに、純真無垢な子供たちの心の中に、社会に対する嫌悪感なんざ植え付けたくない。

抗え、戦え、そして勝て。
そして、次世代に何かを残すんだ。
よりよい世界を残すんだ。
辛い思いなんか何一つしなくても、生きていける世界を作るんだ。
作るんだ。
基本的に皆が笑っていて、優しい世界を。

そんな世界を夢物語と笑うよりも。
そんな世界を良いと思う気持ちを大事にしよう。
現実という名の見えない怪物に媚びるな。
戦えるなら、戦おう。






にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。



スポンサーサイト

生まれたときから区別されている
僕は、重症心身障碍の施設に行った。
その人たちのことなんてことはどうでも良くて、
ただ単純に仕事の話をしに行ったんだよ。
その人達のことなんてものはどうでもよくて、金の話をしに行ったのさ。
あまりにも衝撃的だったんだ。
障碍を持つ人よりも、自分が持っている感情に。

肢体が変形している人を見たときの気持ち。
人間はどんな姿であろうと何一つ尊厳は変わらないと言いながら。
もはや、障碍じゃない。変形なんだよ。
体が変形しているんだ、人の顔のはずなのに人の顔に見えないんだ。
慣れてしまえば、変わるかもしれない。
けれども、僕にはそれが人の顔に見えなかったんだ。

頭の中では全てが煌めいていた、どんな人でも煌めいていた。
でも、実際に言語にはならない呻き声のように楽しげな声を出すその様を見たときに
僕の中の何かがずれたんだよ。

信仰があれば救われる。
その言葉が持つ残酷さを改めて感じたんだ。
信仰があれば、信仰さえあれば、信じることが出来るのならば。
救われるだなんてそんな馬鹿な話があってたまるか。

だけど、何よりも反吐が出るのは自分の心だ。
彼らを見たときに感じた、五体満足に対する感謝の念。
両親への感謝、神への感謝。
そんなものがを抱いてしまった自分に何よりも吐き気を覚える。

全ての人は等しく罪人で、等しく素晴らしいはずなのに。
僕は、自分の体が五体満足なことに対して感謝した。
五体満足で無い人を、心の中で蔑みながら。
自分の体が他者よりも優れているだなんて、自分の尺度で彼らを侮辱した。

僕は感謝したんだよ、自分が障碍者じゃないことに。
それが当たり前かのような社会にもうんざりだ。
例え、障碍者であろうと無かろうとその人の尊厳が生かされて
誰もがそれを認めるのが当たり前のはずなのに。
何だって、そんなこともこの世界は出来ないんだろう。

おかしいんだよ。
生まれたときから決定的な差があってさ。
その決定的な差に対して感謝したり絶望したり。
そんなものに人生が左右されてしまう社会がおかしいんだよ。

どうして、なぜ、何だってこんなにも不完全に生きるしか出来ないんだ。
なんで、誰もが皆幸せになれないんだ。
何だって見えないところに彼らを追いやるんだ。
何だって僕は彼らを心から愛せない。

醜い心を持っているのは誰でも同じはずなのに。
なぜ、僕たちはこの両手に支えきれないと決めつけて、
自分の尺度で人を排除するんだ。
何で、この心が排除するんだ。

幸せそうに笑い合っているその数キロか数十キロ先にいるんだよ。
笑う筋肉すら生まれたときから奪われた人達が。
僕らには想像も出来ないような心と体の持ち主が。
彼らの幸せが何かなんてことすら、僕には想像も出来ないんだ。

信仰がどうだこうだとか言う前に、僕たちは彼らの元に行くべきなのかもしれない。
僕らは、まず彼らの中に入らないと行けないのかもしれない。
この偏狭な僕の心に、彼らに入って貰わければ
僕は自分自身をクリスチャンとは呼べやしない。






にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。






いつでも誰か死んでいる
僕らは笑う。
それは、悪いことでは無くて良いことだと思う。
僕らは泣く。
それは、悪いことでは無くて良いことだと思う。

僕らは何かに何かに笑い、何かに泣いて、何かに怒り、何かに悲しむ。
あまりに当たり前の光景で、その一つ一つに意味がある。
だけど、その笑いも涙も怒りも悲しみも、全て自分に見える範囲の
世界にしか向けられていない。

いつだって僕らの知らないところで誰かが死んでいる。
誰かが傷ついている。
僕らの感情は、その人には届かない。
アフリカで餓死する少年に涙しても、
その同時期に虐待されている少年が日本にいるかもしれない。

僕らは誰かが死んでいることも悲しんでいることも
知っているはずなのに、感情が追いつかない言い訳をしながら
世界をまるで変えようとしない。

目の前にある世界だけが正しい世界だと思いこんで
そして、目に見えない現実への想像を諦める。
世界はひょっとしたら、もっと素晴らしいのかもしれない。
世界はひょっとしたら、もっと絶望的なのかもしれない。
そんなことも分からずに、キリスト教が正しいと言うことに意味はあるのか。

増えすぎた人間の誰か一人が死ぬだけでも大問題だと言いながら
理不尽な死に対する憤りを四六時中継続する奴はいない。
どんなに優しいと感じても、いつだって無関心な心は残っていて。
そして、教室にはびこるいじめを見逃すかのように暴力を容認する。

そんな日々さ。
そんな世界さ。
僕らが生きている世界の住人なんてものはそんなものなんだよ。

絶望するほどに自分自身の愛の無さ、そして他人自身の愛の無さにびっくりさ。
思えば、そんなにも残酷な人間のはずなのに何故に素晴らしいだなんてことを
思うのか、そいつがさっぱりさ。

人の命は地球より重い。
そんな命がこうしている間にも理不尽に奪われている。
一秒だって無駄に出来ないはずなのに。

僕たちは一体何をしているんだろう。
信仰を広めれば、本当に世界は変わるのかな。
悩んでいる時間すら罪にはならないのかな。
探り合いながら傷つけ合っている場合ではないと思うようになったよ。

どうせ、全員が偽善者なんだ。
だから、あいつがどうだとかこいつが良いだなんて話を置いてさ。
手でも繋ごう。
そうすれば、相手も銃を構えることが出来なくなる。






にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。




繋げたい想いは途切れながらも糸を紡ぐ
例えば、誰の心にも優しさがあると思う。
純粋で、ただ人を思いやる気持ちがあると思える。
子供が純粋に手を差し伸べる瞬間に、それを見るのかもしれない。

例えば、誰の心にも残酷さがあると思う。
純粋に、何も考えずに傷つけることが出来ると思える。
子供が純粋に無視の羽を千切る瞬間に、それを見るのかもしれない。

僕たちは優しいことに素晴らしいと言い、残酷なことに非難の目を向ける。
出来るだけ残酷にならないようにと願いを込めて、善悪を教え込む。
何が悪で何が善かなのかも分からないまま大人になってしまう僕らは、
偽善が悪かどうかなのかも答えを出せない。

残酷さを抑える代わりに、純粋な優しさも失う。
自分の中にあるいやらしさや汚さが優しさに混ざり合い、白が灰色になっていく。
その灰色を黒と断定できないまま、僕らはそれを白とは呼ばなくなる。
純粋でなければこの世に価値が無いかのように言いながら、僕らは誰一人白くない。

それなのに子供達には白くあれ、清くあれと言いたくなる。
自分の灰色さを棚に上げながら、子供が灰色になるようならば漂白しようとする。
そして、子供の心の中に黒い感情が溜まっていくのをいつしか諦め
また一人また一人と、心の中が灰色になる大人を生み出し続けていく。

自分よりも後に生まれた人間が正しい心を持ちますように。
そんな、途切れた糸の様に儚い想いは決して叶わない。
人が人である限り、それは傷つけ合い、悲しみ合いながら、慰め合う。
それは、素晴らしいことではあるけれども決して正しくはない。
繋げたい想いは途切れた糸のように世界を漂う。

それなのに、何故いつも諦めないのだろう。
人間は、途切れた糸ですら繋げようとする。
間違いながら、傷つけ合いながらも後世に何かを残そうとする。
自分が生きた証を残したいのか、それとも純粋に子供達を思ってなのか。
そんな判断がつかない灰色の想いが、途切れ途切れな糸のように世界に散らばる。

その散らばった糸を紡ごうと必死になっている。
先人達が想い描いた理想郷には届かなくても、各個人が望んでいる理想郷では無くても。
その想いの一つ一つを紡ぎながら、一つの理想に向かおうとしている。
灰色な想いをかき集めて、いつか白い世界になりますようにと願っている。
この世界はそんな世界であるかのように思えるよ。

例え、自分の意志や価値観なんてものは誰も聞いてくれないと思っていても。
それは、当たり前の話で悲しむことなんかじゃないと思う。
いつだって、誰だってその意思はどこかで途切れていて
そして、後世の人間がそれを紡ぎ新しい糸を作り出す。

そうであればいいな、と思った。
各個人の想いがあまりにも無慈悲に断罪されていく世の中で
全ての想いが何一つ無駄にならずに紡がれていっている。
世界がそうであればいいのに。
一つの想いしか認めないような悲しい世界では無くて。
世界が途切れながらも紡がれていけばいいのに。
そう思った。




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。





人波の中にいる何十億文の一
まるで、人が多すぎる。
世界に僕と君二人だけだったら、世界が一致することも可能に思えるのに。
何だって、人間はこんなにも数を増やして個人の意見が世界を内包するまでに
なってしまったんだろう。
知識や知恵は、個人が死んでも残っていき全ては新しく生まれ変わり続ける。
そんな世界で新しく生まれた命は過去の遺物を習得しながらまた新しい価値を見出そうとする。

そんなことを繰り返していけば、いつか人類統一まで行くのかと考えるが
実際は人間の頭の中の価値観は幾重にも枝分かれして、とても個人が把握できる
ようなものでは無くなってしまった。
編集することにも疲れた後は、個々人に全てを委ねた。
個人が個人の価値観を持つことを許され、僕たちは人波の中の何十億分の一となった。

転がり続ける幸せをずっと追いかけるような生き方しか出来ていないのに
絶対的な言葉をいつだって吐いている。
キリスト教徒も例外なく、真理を語り続けながら自分が言っている矛盾に気がつかない。
僕も含めた全員が自分の目の中の梁を見ずに、盲目になりながら他人の粗ばかりを探す。

人が人を裁くことがあまりにも当たり前になっている世の中に
疑問を持たないのに生命賛歌を繰り返す。
戦争を反対しているのに、経済のせいで餓死する子供たちには熱心にならない。
自分よりも劣っている人間を探し、他人に自分よりも劣っている部分を探す。
誰かに支配されたくて、絶対的な存在を探しながら献身的に仕える自分が
結局のところ自分の主人だということに気がつかない。

そんな僕と君が分かりあうためには何が必要だと思う。
僕には皆目見当がつかないから、君と語りたいよ。
僕たちは否定の末にしか答えを見つけられないけれども、
肯定の末に見つかる答えを探すことはできないのかな。

僕の考えを君が認めて、君の考え方を僕が認めて
そして、お互いが正しいという矛盾を解決するような新しい考え方を探すことは出来ないのかな。
人波の中の何十億分の一同士なのに、優劣をつけることに何の意味があるのだろう。
社会というあまりにも不確かな常識の中で、狭い価値観の常識に固執することに何の意味があるのだろう。

語り合うために必要な土台は何だと思う。
知識か、知恵か、信仰か。
僕にはそのどれも中途半端だから、君に対して何も見つけることが出来ないんだろう。
分かり会いたいよ、君と。
ただ単純に同じ信仰を共有しているような感覚を超えた何かを僕は君と見つけたいよ。

なあ、クリスチャン。
何だってこんなに宗派が分かれているのかをもう一度考えてみようか。






にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。




知る前の自分を嘘とせずに
人生は日々自分が変化していき、それが成長なのか退行なのかも分からない。
その変化を検証する暇も社会は与えてくれずに、今の自分が最善だと自分自身に言い聞かせる。
空気が移り変わり、季節が変わるたびに時が流れやすくなるのを感じる。
二年前の自分と何が変わったのだろう。
いつだって、自分にそう問いかけても変わらない、変われない自分自身に一人で傷つく。
学生時代に描いていた夢は、砂糖菓子よりも甘く脆く崩れた。

自分よりも、子供だと思うものの意見が聞けなくなっていることに気が付いた。
何も知らない癖に、何を偉そうなことを言うのだと思うようになった。
社会で成功したものにしか発言権が無いようなことを思うようになった。
良い家、良い車、良い妻、良い衣服、良い仕事。
それが、この世の中で大きな価値を持っていることを知った。

なのに、どうだろう。
そんなことを知らなかった時の僕の方がまるで世界を分かっていた。
主観性に支配された僕の頭の中では、夢物語としか思えない言葉も
その時の僕には確かに響いていて、そしてそれが実現可能だと思っていた。
全ての人が笑いあえる世界なんてものは簡単に出来る。
そんな馬鹿な言葉を本気で信じていた時の方がまるで真実かの様に思える。

花鳥風月に美しさを感じることが出来ない大人と、全てに感動を覚える子供。
どちらの意見が真にこの世界に必要かなんてことは分かり切っている。
子供が持つ純真さと残酷さ。
大人になり、純真さだけを除いてしまったとしたらそれは間違っているんだろう。
それなのに、惨めな思いをしたくないから僕たちは簡単に残酷になれる。

他人を蹴落としながら、自分は出世していく。
誰かを虐めながら自分を優位に保つ。
天国に行く信仰を持っているから、地獄に行く人を作り出す。
罪に優劣をつけて、性的な罪を継続する人を教会から追い出す。

間違っている、そんなものは間違っている。
そう声を大にして叫びながら社会に出てみればまるで不思議さ。
自分に気に食わない人間はいくらでも理由をつけて敵にすることが可能なんだ。
主任だから、係長だから、課長だから、部長だから、社長だから。
年上だから、おじさんだから、おばさんだから、考え方が古いから新しいから。

馬鹿らしいと叫んでいた自分は、社会を知らない自分だった。
だけど、知らない自分を嘘とせずに生きていけばいい。
全てのことに感動していた子供時代を無知の愚者とする必要は無い。
なんで差別があるのと疑問に思っていた時代は決して嘘なんかじゃない。

そんな子供の時代でも、誰とでも手を繋げることは出来なかった。
だから大人になった今だから、誰とでも手を繋げることをするべきなんだろう。
惨めに生きたくない、人より優れていたい。
だけど、大人になりたい。
こんな矛盾を抱えながら生きている。
いつか、大人になれる日が来たらその時は子供達に次の時代を託したい。
理想論を現実として捉えていた時の夢を、もう一度現実に捉えよう。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。







病が癒されたなんて奇跡よりも
これは、キリスト教に限らない話だけれども。
宗教の中にはよく奇跡が語られる。
水の上を歩きました、毒を飲んでも死にません、病が癒されました、
パンが出ました、魚が出ました、その他諸々。
そんな奇跡を僕らは聖書の中から見つけ出しては感嘆する。

だけど、それが奇跡と言われる所以は通常では起こり得ないからさ。。
誰もが水の上を歩き、誰もが毒を飲んでも死なず、誰でも傷を癒し、
誰もがパンを出し、誰もが魚を出す。
もし、世界がそうだったらそんなものを奇跡とは呼ばない。
あまりにも当たり前のことを、人は奇跡とは呼ばない。

時折、聞こえてくる。
現代でも奇跡が起きていると。
妄言か何なのかは知らないが、僕の聞いた話ではどこぞの伝道師が水の上を歩いたらしい。
船を使えば良いのにとは思ったが、何か事情があったのかと思う。
何せ水の上を歩いたんだ。そいつは、確かに奇跡だね。

病が癒されたなんて話は最もよく聞く奇跡かもしれない。
医者が見放した癌が治りましただの、神様のおかげで傷が癒されただの。
そんな話はよく聞く。
それこそ、キリスト教に限らずあちらこちらから聞こえてくる。

それは、確かに素晴らしいよ。
水の上を歩くのも、病が癒されるのも。
それは、確かに素晴らしいんだ。

だけど、そういった奇跡よりも遥かに素晴らしい奇跡なのが君が生きていることなんだよ。
父さんと母さんが出会わなかったら、祖父と祖母が出会わなかったら
いつの時代でも、どこかで誰かが今とは違う選択肢を選んでいたら
僕も君も決して生まれなかった。

そんな奇跡の上に僕らは出会い、そして心の中に何かを育み
そして、傷つけ合い、赦し合い、分かり会い、そして生きようとする。
ひどく恐ろしくなるほどに、確立の低い奇跡が目の前にあるんだよ。

水の上を歩くことにハレルヤと叫ぶよりも
病が癒されたことにハレルヤと叫ぶよりも
君が生きていることを何よりも喜ぼう。
君が生きようとしていることを、
何よりも、何よりも先に喜ぼう。

僕らは、生まれることを当然のように享受して
人間の物差しを使って君が存在すること以下の奇跡を
君が生きていること以上の奇跡としてしまう。
忘れてしまうほどに当たり前のことだけれども、
君が生きていることが何ものにも勝る奇跡だ。

君が生きていること、生きていたこと、そして死んだこと。
それが、この世の中にある最も大きな奇跡であり、
そして何よりも価値があることなんだよ。



にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。








例えばの話
例えばの話だけれども、もしこの世界の全ての人がクリスチャンになったとしたら。
君は一体どうするのだろう。
君が生きがいにしていた全ての人が信仰した世界。
君の生きがいが達成された世界。
その世界で君はどう生きるのだろう。
僕は、そんなことを考えた。

夢が完成されることほど人が絶望することは無いとはよく聞くが、
もしも、この世界全ての人がキリストを信じたら君は泣くのかな、それとも笑うのかな。
どうやって、日々を過ごすのかな。
もう、誰にもキリストを信じましょうと言えない世界を君はどう生きるのだろう。

絶望の世界なのか、それとも希望の世界なのか。
全ての人に福音をだなんて言葉を吐きながら、絶対に自分の代では無いことは分かっている。
全ての人が信じる世界の責任を後世に押し付けているだけのその伝道。
僕には、その伝道が正しいだなんて言えないよ。

全ての人が信仰している世界。
その世界には科学はあるのだろうか。
文明は発展するのだろうか。
新しい価値観はあるのだろうか。
僕らの先祖が積み重ねてきた涙の上にある知恵はあるのだろうか。

ただ、単に伝道すれば世界が良くなるだなんて。
イエス様を信じていたって罪を犯せば、人を傷つける。
そんな分かり切ったことすら無くなるだなんてことを思ってやいやしないかい。

聖書を使って、この世にある知恵や哲学を否定するのなら僕は言う。
そんなことはくだらなくて、非建設的で、何より最も平和から遠ざかるものだ。
剣を振りかざしたつもりになっていればいい。
争いを起こせばいいさ、聖書が言う通り。

もう一度言うさ。
君が言う全ての人が神様を信仰する世界はどんな世界だい。
経済はどうなっている、政治はどうなっている、貧困はどうなっている。
餓死する子供たちはどうなっているんだい、犯される女性は?
働き疲れて過労死する男共はどうなっているんだい。

明確な指針無くして、伝道するのならばそれは君が好きな「ビジョン」とやらが無い伝道じゃないのかい。
バブルの向こう側を見ずに、今の世代につけが来ている日本経済のように
ビジョンを見ずに、伝道している責任を下の世代に押し付けてやいやしないのかい。

聖書が正しい。
そう叫ぶのならば、責任を持て。
例えば、君が生きている間に全ての人が神様を信仰する世界が来るとしたら。
そいつは、一体どんな世界なんだい。




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。






経験が半端な確信を生み出し理解の扉を閉める
今、生きている人間には生きていた自負がある。
死んでいた人は誰もいなく、この世界を生き抜いてきた。
様々な経験を経て今の自分にたどり着き、そして新たな自分へと旅立つ。
自分を変えてくれた恩師や親友、恋人との儚い青春時代の思い出は自分の糧となり
そして、大切な思い出が大切な故に絶対となり、半端な確信を生み出す。

自分の経験で得たものが絶対的な真理だと誤解したままに、
全ての方程式と疑わず、新しい理解を得ようとしない。
そんな人はこの世の中にごまんといて、自分よりも経験が無い人
それこそ、自分よりも知識・知恵はあれど経験が無い人間に対してまるで無知のように扱う。
そんな人は、世の中の大半だということが最近分かってきた。

共通項で理解し合えるものならば、そんなものも気にならない。
だけど、実際は確信を持った人間が確信を持たない人間に対して、まさに教えるだけだ。
あたかも年齢がその全てを物語るかのように、何も確信を持たない人間を下に見る。
クソみたいな価値観が支配するのは、この世も教会も同じで。
安っぽい経験が中途半端な確信を生み出す。
その確信が、何一つこの世界を変えることが出来ないことを目にしているはずなのに。

まるで、謙虚に見える人も結局は自分に都合の良い価値観しか受け入れず
価値観を受け入れられた人たちの中で悦に浸っているだけの時もある。
神様を信じながら、自分自身の信仰を誇り、あなたの信仰があなたを救ったなんて
妄言をいつまでも垂れ流す。

分かってきたんだよ。
個人の価値観では、世界なんて救えない。
個人の価値観では、君のことなんて救えない。
それなのに、僕らは自分の価値観が最上のものだとする無駄な競争をいつまでもいつまでも繰り返す。
何かに負ければ、全てが負けた気になっている僕たちはなぜ弱いのだろう。
この世の価値観の勝利者に慰められ、癒されながら妬む。

いつだって、いつだって、いつだって。
僕たちは争っている。脆弱な経験を基にした半端な価値観を振りかざしながら。
信仰だのなんだの言う前に、僕たちは相手の価値観を理解するところから始めよう。
君が何を思っていたとしても、そいつはきっとくだらないよ。
そして、僕の価値観だってくだらないんだ。
個人の意見だよ、結局のところ。

だから、お互いの価値観をぶつけて、そしてどうすれば良いのか考えようぜ。
お互いが納得できる価値観が見つけることが出来たのなら、
それは、どんな素晴らしい人の価値観よりもそれこそまさに価値があるものさ。

ぶつけあって、否定し合おう。
それが、まずは分かりあう道だ。
僕は、君の考えが嫌いだとはっきり言うから。
君も、僕の考えが嫌いだと言ってくれ。
そうすれば、僕らはきっともっと分かりあえるはずだから。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。








人間賛歌
人間は素晴らしい。
その一点だけが、僕にとっての生きる指針だ。
人間は美しい。
そのことが、醜い現実の中にある唯一の希望だ。
生きていることに意味がある。
それが、辛く苦しく時に息切れする人生を歩く理由だ。
どんな死に様にも尊厳が保たれる。
それこそが、何よりも勝る心の救いだ。

僕は何度も言っている。
自分にも他人にも言っている。
人間は弱く、汚く、醜く、そしてとても恐ろしい。
牛の糞よりも悪臭を漂わせる人もいれば、何よりも他人を傷つけることが楽しい人間がいる。
誰かが誰かを傷つけて、踏みつけて、自分だけが幸せになろうとし、
自分の僅かな半径の距離の人間をついでに幸せにしようとする。
そうやって自己満足の中で悦に浸り、遠く離れた餓死する子供に対して中途半端な憐みの涙を浮かべる。

最低と罵られてもおかしくない価値観がまかり通り、
嘘を吐くことが大人の証だと認められている。
複数人の女性を愛することも、複数人の男性を愛することも罷り通り
その目にさえ見えなければ罪は無いものとされる。

どこかの国では、パンのために何かを奪う。
その光景を液晶の向こう側で見ながら御馳走を頬張る。
誰もが、今の世界が最善だなんてことを信じていないのに今の生活を守ろうとする。
価値観のために誰かが殺し合っていることを知りながら、
特定の価値観を持たないように必死になる人もいる。

誰もが同じ方向を向かずに、皆別々のところに焦点を合わせる。
僕らは、そんなにも不完全で決して心からの交わりなんてものは出来やしない。
そんな世界の中でも、尚も叫ぶことが出来る。

人間は素晴らしい。
人間は美しい。
生きていることに意味がある。
どんな死に様にも尊厳が保たれる。

何故だなんてことは分からない。
その理由なんてことは分からない。
だけど、僕はクリスチャンだから。
それしか信じる以外にこの世界を生きていけないから。
だから、僕はそのことを吐き続ける。

どんな人間であろうと変わらない。
どれだけ弱かろうが罪を犯そうが、そしてどれだけ人を殺そうが。
何一つ尊厳は変わらないと吐き続ける。
人間の醜さを見続けて、尚叫べ。

人を笑いながら殺す人間にあなたは素晴らしいと言おう。
女性を犯した人間に対して、あなたは美しいと言おう。
幼児虐待をする母親と父親に対して、あなたは生きているだけで意味があると言おう。

受け入れることが出来ない人間に対して、価値を認める。
そんなことが人間に出来るものなのかと思うよ。
敵を愛せとはよく言ったもので、とても上に挙げた人間を愛することなど出来やしない。
僕には、憎むべき対象で傷つけても良い対象だ。

だけど、僕自身が彼らと同様でそして共に憐れみ合う同族だ。
そのことを未だに認められないこの僕の心はあまりにも傲慢だ。
そんな僕ですら賛歌されるべき対象であることを認める。

あまりにも、眩しすぎる福音だ。
だから、光で潰れそうな目をこじ開けよう。
いつか、何も見えなくなる時まで。



にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。








弱い人
たくさんの人がいて、強い人がいる。
心の強さを持ちながら、優しい人がいて気高い人がいて。
そして、尊敬される人がいる。
その人に従えば間違いが無いなんてほどに、錯覚させてしまう信頼感。
そんな人が世の中にはいる。

そして、弱い人がいる。
心が弱い人、体が弱い人。
そんな人たちは自身を無くし、自分の行く末も分からない。
だから、キリスト教徒はそんな人たちに対して声をかける。
あなたは救われていますよ、弱さは強さなんですよと言いながら。

弱い人を助けること自体はひどく素晴らしいと思う。
だけど、信仰問題が絡むとさらに弱い人が出てくる。
信じることが分からない人。知的障碍者や、精神障碍、殺人を犯した幼児達。
救われない人々が出てくる。

聖書を全て真実としてしまえば、さらに出てくる。
同性愛者はそれだけと罪をされ、女性差別が顕著に出てくる。
そんな、状況を正しいと言えるのだろうか。
僕は、そんなことを叫んでいた。

でも、本当に弱いのは自分自身だということに気づいている。
弱い人を守りたいと願うのは、自分が守られたいからだと気付いている。
僕は、弱く卑怯でそして人を傷つける。

知的障害者、精神障碍。
そんな人たちには出来ないような方法で人の心を傷つける。
能力があるはずなのに、僕は人を傷つける。
あまりに、弱い。
自制がきかないこの心は何が足りないんだろう。
もし、それが信仰だとしたら悲しすぎる。

優しくなったり、尊敬されたり、人に影響力を与える。
そんなことに、あまりに縁が無く悲しすぎるほどに僕は無力だ。
神様に愛されて救われていることを信仰すれば死の恐怖は消える。
例え、どのような死に方をしたってその尊厳は汚されることは無い。

だから、生きることが怖くなる。
どのように生きればいいのか分からなくなる。
どうすれば、最善なのかを探しながら時間を潰し
取り返しのきかないところにまで行けば何か変わるのかな。
僕は、未だに虚栄心の泥沼から抜け出せる気がしない。

変わらずに、冷たくなるこの心は例え信仰があっても変わらない。
愛されることに、なんら抵抗が無いはずなのに愛されない。
辛いと思っても、そこには大人の責任が伴っている。
そんな世界で生きている。
そんな世界が好きでいる。

例え、誰かの踏み台だとしても何かを残せれば満足だ。
その何かも残せない人間が大半なのに。
僕の欲望はどうすれば消化して昇華するのだろう。

満足に生きることすらできない。
僕は誰かに守ってほしくて、だから誰かを守ろうとする。
そんな生き方は駄目なのかな。
未だに僕は何も分からない。






にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。









勝利者になりたがる
世の中には腐るほど人間がいて腐るほどの個性がある。
花火大会にでも行けば分かるけれども、世の中には覚えきれないほどの人がいて
そして、個々人の価値観を大切にしようなんて言葉が無駄に思えてくる。
それほどまでに世界は広くて、人間は多い。
悲しくなるぐらいだ。

69億分の一の奇跡なんてことは良く言う話だけれども
過去の人間も含めてしまったら、僕らはどれほどの奇跡になるのだろう。
そんな人間同士が出会って、嘘をつく。
他人にも、自分にも。

自分自身の本当の気持ちや、性質を隠しながら
生まれながらに自分自身が良いものであろうと見せかける人なんてものはそれこそ大勢いて。
否定されたり、間接的に否定しながら自分を肯定する繰り返しの中で、みんな足を引っ張り合う。
好きか嫌いかではなく、優れているか劣っているかで判断してしまう。
少しでも優秀な種を残したい人間の本能なのかな、これは。

嘘をつこうが、何をしようがその人の価値観に合った優秀ささえ獲得してしまえばいい。
そうすれば、信頼を掴めるし幸せも手に入る。
他人は落ち込んでてもいい。
それは、その人の自己責任だから。
そんな理論を使いながら誠実の皮をかぶりながら生きていく。

認めることなんて出来ない事柄はどんどんと増えていく。
僕も、そうなってしまうのかな。
僕よりも下の世代を愚鈍と罵る時が来るのかな。
僕たちは一体どれほどまでに豊かになれば、何も気兼ねなく人と話せるのかな。

恨み、妬み、嫉み、自分自身は負けていないと思う。
駄目な人間と認められるのが悔しくて悲しくて怒りに満ちて。
僕たちは、いつだって勝利者になりたがる。
勝ちたくて勝てなくて、下を見て、土俵を変えて。
どうにかして、自分だけの勝利を欲しがる。
そんなことを数十億の奇跡同士が出合いながら張り合っている。
あまりに滑稽だ。

出会えただけでも、涙をどれだけ流しても流し足りないほどの奇跡なのに。
僕らは、狭い世界で物事を判断してしまう。
競おうとしてしまう。
勝とうとしてしまう。

勝ち負けなんてものは本当に存在しないのに。
どこにも優劣はつけられないはずなのに。
僕たちはどうして、こうも争うんだろう。
銃を使わない戦争を何時だって繰り返している。

なあ、クリスチャン。
僕たちは勝利者だとよく言うよ。
例え罪に勝利したとしても、誰かに勝利してしまっては意味が無いんだ。

僕たちはどうすれば、争わずに済むのかな。
皆、やすらぎを欲しているはずなのに。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。










新しい発想なんてものはどんどん出来なくなっていく
情熱の衰え、感受性の錆付き、妥協の繰り返し。
そんな言葉達が素直に体に染み込んでいく。
若くてやり場が無く、溢れんばかりにあったはずの馬力は
いつしか、自分を守るために使うようになった。
自分自身を否定する言葉を聞かないために耳を塞ごうとするこの腕は、
誰かと価値観を分かり会おうと差しだした握手の手だったはずだ。

最近分かってきた、切ないほどに。
誰もが疲れていて、誰もが自分を守るために精一杯だ。
昔、思い描いていた大人なんてものは実際のところ自分自身と変わらない。
みんな何かの責任を負いながら、自分の価値観を作り上げる。
それを守ろうと躍起になって、必死になって、孤軍奮闘を繰り返す。

新しい発想なんてものが、いつだって自分の価値観を脅かす。
自分の価値観を肯定してくれる材料をいつだって探し出して納得して
否定するものを否定する。
正解は人それぞれだからかまわない。
最も大切なことは自分自身が納得することだから。

以前の僕はそんなことに憤っていた。
自分自身だけ納得して何になる。
自分自身だけ幸せになって何になる。
僕らは分かりあうべきなんだよ、そうなんだ。
そうじゃなきゃ、世界はいつだって変わりやしない。
そんな言葉を吐いていた。

でも、僕らに見える世界なんてものはそれこそ世界のほんの少しばかりの割合で。
世界の全てが変わろうが、自分に見えている世界だけが変わろうがあまり差は無い。
自分をいつだって否定して、構築しなおしていくほどに素晴らしいことは無いだろうけれども、
そんなことをいつだって出来るほどの余裕も無い。

世の中の人の多くが必死だ、必死なんだよ。
どうにかして、少しでも自分の価値を見つけたいんだよ。
褒めてほしくて、誉めてほしくてたまらないんだ。
金が欲しくて、幸せが欲しくて、安定が欲しくてたまらないんだよ。
渇望に勝てるほど余裕なんてものは無いんだ。

新しいものを創造する力なんてものはどんどん失われていく。
自分が社会人になれば、新しい世代が待っているかと思えば
実際に、やっているのは過去の焼き直しだ。
それを求められて行いながら、自己否定に飽き足りる時に妥協が生まれていく。
憤っていた気持ちすら、無くなっていく。
みんな、疲れているんだ。仕方が無いんだよ。
そんな、妥協の言葉を吐きだしそうになる。

だから、言葉を振り絞る。
自分自身だけ納得して何になる。
自分自身だけ幸せになって何になる。
僕らは分かりあうべきなんだよ、そうなんだ。
そうじゃなきゃ、世界はいつだって変わりやしない。

昔、誰かにぶつけていた言葉を自分にぶつける。
そっか、こんな気持ちだったのか。
お前に何が分かるんだ、そう言いたくなる僕がいる。
でも、本当は違うんだ。

若過ぎて何も分かっていなかった自分にすら分かっていたこと。
当たり前だけれども、当たり前に出来ないこと。
それをやって生きていこう。
耳を塞ぐ手を握手のために差し出そう。

そうしなきゃ、過去の自分とそれを支えてくれた人達に申し訳が立たない。
さあ、明日からも頑張ろう。
なんとか、今日もそう思えた。




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。








上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。