君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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後ろ向きに歩いていても
前向きに生きる人はとても輝いて見える。
何が起ころうと全てを自分の益とする。
そうやって生きていけば、成功や幸せを掴めるのかなと思う。
そうさ、前向きに生きることは素晴らしい。
だから、後ろ向きな生き方も素晴らしいと思うんだ。

過去に囚われ、後悔に塗れて生きている。
そんな後ろ向きな虫は僕の頭の中にもいて
あの時ああしていればだなんて無駄なことを何度も繰り返す。
あの時に、今の自分さえいてくれればあんなにも人を傷つけることも無かったのに。
あの出来事さえなければ、あんなにも自分が傷つくことも無かったのに。
あんなことやそんなことばかりを何度も何度も頭の中で反芻するのに、未だに消化されてくれない。

そして、思うんだ。
自分は屑でひどく醜い魂の持ち主なんだって。
苦しくなるくらいに、自分に自信が持てずに精いっぱいの虚栄を持って人と向き合う。
なんだって、こんなにも自分の心は汚くて何も出来ないんだろうと思う。
でも、別にそれで良いと思うようになってきた。

前向きな人の中には、人を傷つけることも厭わない人がいる。
自分の価値観を槌のように振り回しながら、他人の価値観を打ち砕こうとする。
戦うことすら前向きに捉えて、何かを破壊することに抵抗を持たない。
自分が何を踏みつけているかも分からずに、道を進んでいく。
そんな人もいる。

前向きな人が全てそういう人だなんて馬鹿なことは言わない。
優しくて、素晴らしくて、尊敬出来る人はたくさんいる。
でも、僕はそうなれない。
前向きな僕は、きっと誰かを踏みつぶしながら槌を振るう。
人を傷つけることすら含めて、全てのことが自分を成長させてくれる糧だと言う。
それだけは、なんとなくわかる。

せめて、自分が人を傷つけていると分かりながら傷つけたい。
自己嫌悪を繰り返しながら、心の中で自分を悪党と責め立てたい。
卑怯者と罵りたい。
そうしなければ、僕は誰かを傷つけることを厭わなくなる。
それが、何よりも怖い。

誰にも勝ちたくないよ。
誰にも負けたくない。
いつだって、引き分けを繰り返しながら同着一位を目指したい。

自分を最底辺と思えば、誰もが皆尊敬できる。
そんな風には、まだ成れないけれども、いつかとは思える時がある。
だから、僕は後ろ向きな自分が嫌いでは無い。
神様にも、嫌われてなければいいのだけれど。




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暗闇に光が差しても、そこは暗闇
憎らしい人がいて、面倒くさい人がいる。
そんな人はきっとどこにでもいるのだろうけれども、僕はそれが嫌で仕方が無い。
憎い人間が嫌いなのは当然で、憎む自分も好きじゃない。
憎むのが良くないなんてことは、教会から既に答えを用意されていて僕もそれを受け入れている。
だから、きっとどれだけ時が経とうと僕が僕を好きになる切るなんてことは無いだろう。

例え、どれだけ辛い状況にあったとしても僕には福音があって救いがあって。
そして、仲間がいて信頼出来る友達がいて、恵まれていて。
本当に暗闇に光が差し込むように僕の心を晴らしてくれるようなことばかりだよ。
本当に僕の心を腫らしてくれるかのようだよ。

恵まれている。
それは自覚している。
僕は本当に運が良くて、周りには愛が溢れていて何度も助けられて。
辛くても応援してくれる人がいて、分かってくれる人がいて。
注意してくれる人がいて、助けてくれる人がいて。
語り合える友がいて、そして大切な人もいる。

でも、結局のところ暗闇は暗闇なんだ。
どれだけ光が差し込もうと暗闇は暗闇さ。
それが、良いのか悪いのか楽しいのか辛いのかなんてことは分からない。
確かに、この世は暗闇だ。
それは、確かに間違いないと思うんだ。

ああ、楽だ。
下手にこの世の良さをつらつらと書くよりなんて楽なんだろう。
この世は、辛くて嫌なものだと書くことは本当に楽だ。

辛いし、苦しいし、汚いし、濁っているし、醜いよ。
この世界は本当に。
インターネットを漁れば、人が死ぬところも人が殺すところもいくらでも見れる。
そんなものを見てしまえば、誰もの心にも愛をだなんて言えないさ。
とても、信じられなくなる。
人間なんてものは、周りの環境次第でどうとでもなることが分かるよ。

無力さに苛まされて、打ちひしがれて落ち込んでさ。
神様にでも全てを任せれば楽なんだと思うんだよ。
それが、正しい信仰の形なんだろうとは思う。
重荷を全てイエス様に背負って貰うのが良いと思うのさ。

暗闇に光が差し込んでも結局は暗闇さ。
そんなことは分かっているんだ。
天国にしか光の世界が無いことなんてことは分かっているんだよ。

だけど、悔しいんだよ。
人間が無力だなんて認めることが悔しいんだよ。
神様に反逆しているのかな、これは。
知恵の実の罪なのかな、これは。

何だって、皆が仲良く出来ないんだ。
何だって、皆名誉が欲しいんだ。
何だって、誰かより優れていたいんだ。
何だって、純粋に愛せないんだ。

こんなにも不完全な人類であるはずなのに歴史を見れば少しずつ成長している。
いつか、暗闇が晴れるのかと期待してしまう。
それが、間違っていると言われるから余計に暗闇を感じる。

ああ、ちくしょう。
一つでも人類共通で同じ答えが無いのかな。
何だってこんなにばらばらなのだろう。
僕らはキリストの体のはずなのに。




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救いがあるから自分の汚さを認めることが出来る
僕が小さい頃から周りにはキリスト教が溢れていた。
両親はクリスチャン、一番仲の良い友達もクリスチャン。
初めて接する他人の大人は教会にいて、社会性も教会から学んだ。
自分の汚さなど目に入る前から救いを与えられていた。
それが良いか悪いかなんてことは知らないけれども。

だけど、僕のような二世クリスチャンとは違い一世クリスチャンの人たちは
救いを与えられたことに多大なる感謝と思い出を持っていた。
それを横目に見ながら羨ましい気持と同時に、埋められない溝を感じていた。
僕にとっては常識だったものが、彼らには文字通り救いだったのだから。

自分の汚さに苛まされて、人生の羅針盤を見失っていたときに見つけた灯台。
夜道を照らす街頭があるのが当たり前の生活。
そのぐらいに僕は救いという光の捉え方が違っていたのだと思う。
確かに、前者の方が感動は大きいだろう。

ただ、この年になって感じることがある。
自分の汚さ、醜さを認めたから救いを受け入れたのではないと。
救いがあるから、自分の汚さや醜さを受け入れることができるんだと。
街灯があるから、夜道を歩けるということを感じるようになった。

僕らの心は決して強くない。
自分の価値を認めずに、自分の汚さや醜さを受け入れることなんて出来やしない。
いつだって誰かに自分の価値を認めてほしくて、受け入れてほしくて仕方が無くて喘いでいる。
仮に何もなしに自分の醜さを受け入れてしまったら、それは心が壊れてしまう。
悲しいほどに、弱さには無力だ。

だから、自分の汚さや醜さを心の奥底に押し込めては疼き続ける心を押し込めて
決して見ようとはせずに自己を確立させていく。
いつだって自分に嘘を言い聞かせながらまるで自分が価値があるかのように錯覚させていく。
そうしなければ、生きることなんて出来ないもの。
自分の汚さを感じていても、決して認めることが出来ない。
僕は、そう思うようになった。

救われている、愛されているということを感じなければ自分の醜さを受け入れることが出来ない。
絶対的な愛を信じていないと、とても自分が醜く価値が無いなんてことは受け入れられない。
救いという恵が先にあり、自分の罪や汚れを知るのが後だった。
自分自身に嘘を吐かずに、ありのままの自分を愛されていると知ること。
それを信じることが、僕はキリスト教の信仰だと思ったんだ。

信仰によって救われるのではなく、恵みを受け取っていることを信仰する。
それが僕にとってのキリスト教であり、君に伝えたいことなんだよ。
それは君の信仰とは遥かに違っていても、そう信じているんだ。

僕はひどく醜く汚い人間だよ。
本当にそう感じる時があるんだ。
だけど、神様はそんな僕を愛してくれた。
そいつは僕の信仰によってなんかでは無くて単なる恵としか思えなくなったんだ。
それは、多分だけれども一生変わらない。
そう感じて、生きていきたいよ。




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悲しみの無い世界
クリスチャンはキリストを信じている。
キリストの救いを信じている。
救いを求めて、天国を求めてこの世の中の地獄と戦う。
そういった信仰が巷に溢れかえっている気がする。
いつか、死んだときに全てが報われるようにと。

僕も信じていた。
キリストを信じれば救われて、死んだときに天国に行けるものだと思っていた。
思春期特有の生きることへの飽きを感じたときは、トラックが一瞬で自分を殺してくれないかと夢想した。
クリスチャンの若者なら、一度は考えていることだと思う。
ぞっとする話だ。

天国は、どんなとこだろうと想像してみるが皆目見当がつかない。
ただ、そこには悲しみも涙も無い。
そんなところだと僕は教えられてきた。
一切の苦しみが排されて、幸福だけを満喫できる世界。
そんなものが約束された自分は運が良いと思っていた。

だけど、いつしか自分の感情の中に眠る曖昧な疑問を感じていた。
信じれば救われると仮定した場合、信じない人は地獄へ行く。
滅びの道を歩むのだと。
現に何人もの何人もの人が滅びの道を歩みながらその行いを悔い改めなったと聞いている。
そんな言葉を聞きながら、自分自身の信仰を問い直すだけの日々から少しだけ先のことを考えるようになった。

僕の友達は地獄へ行くのか。
僕の恋人は地獄へ行くのか。
僕のとてもとても大切な人はキリストを信じないが故に地獄へ行くのか。
僕はキリストを信じているが故に天国へ行くのか。

大切な人が滅びるのが嫌なら伝道を熱心に行うべきだという強迫にも似た概念が頭の中を支配していた。
だけど、理想論を打ち砕けるほど現実を経験していない僕はただひたすらに悩む程度しか出来なかった。
自分自身が信じる救いを最後の安全弁としながら、僕はただただ友人を滅ぼしていた。

年を重ねて思春期の理想論を打ち砕く程度に現実を噛み締めるようになった。
その時に感じたんだ。
信仰によって救われるのでは、僕の周りの人間で必ず滅びの道を歩む人が出る。
僕は伝道すること無く、無力さを悔いながらも何も出来ないままだろう。
だから、僕の大切な人で必ず滅びの道を歩む人は出る。
そう、感じた。

だとすると、僕が信仰によって救われて仮に天国へと至ったとしたら。
僕は、滅びゆく大切な人を横目に悲しみもせず涙も流さずに笑っているのだろうか。
友を救えなかった苦しみから一切を解放されて幸せを満喫しているのだろうか。
そんな自分を想像すると寒気がするほどに恐ろしくなった。
今までそんな自分に至ることを考えていたかと思うと、自分がひどく汚く思えた。
自分が救われていることに感謝していた自分がひどく偽善的な自分に思えた。

僕は大切な人が滅んだとしたら、例えそこが天国でも喜びたくない。
天国がそんな残酷なものであって欲しくない。
全ての人が救われていて欲しくて、全ての人が笑っていてほしい。
駄目かい、それは。
聖書に義なる神様だとか、裁きがあるって書いてあるから駄目なのかい。

なあ、なら教えておくれ。君が言う天国ってのはどんなものなんだい。
どうすれば、大切な人が滅びながら笑えるんだい。僕には分からないんだ。
自分が幸せなだけじゃ、幸せになれないくらい罪深いんだ。
滅びる人を一人でも見たくないんだよ。




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儲けることに嫌悪感を抱く人へ
儲けることに、金を稼ぐことに躍起になることに対して嫌悪感を感じる人がいる。
現在の社会を否定する人たちが口にする言葉ある。
資本主義の世の中になってしまったことにより、自殺者が出ている。
競争世界のせいで、劣等感を抱き人生に絶望する人がいる。
精神的な負担によって、うつ病になりやすくなった。
そんなことを言いながら、今の世界を否定する人たちがいる。

だから、キリストの救いが必要だ。
そんな言葉を吐く信仰者に対して、学生だった僕は言葉に出せない疑問があった。
何だか大切な過程を飛ばして、全てキリスト教で済ませようとしているように感じていた。
まるで、信仰を持てば人生がうまくいくような論調を見かけたときに、疑問は確信を持って
それが違うと語りかけるようになった。

そして、学生から社会人になって数年が経ってようやく少しだけ言葉に出来た。
金を稼ぐことの意味と難しさと問題点、そしてそれを批判する側の問題点も。
本当に子供だった自分がいたのだなと実感した。

正直、金を稼ぐこと自体は悪いことでは無いと僕は思う。
誰かが何かを生産しなくては、僕らは住めず食えず着ることが出来ない。
新約聖書の時代では、共同で財産を分かち合った。
だけど、今の時代にそれをすることは不可能だ。
まさか、生活保護を受けながら伝道をし、今の資本主義から抜け出そうなどと言う人間はいないだろう。
誰かが働いていなきゃ、牧師だってご飯を食べれないんだ。
それは、間違いないはずなんだよ。

そして、儲けることも悪いことでは無いと思った。
たくさん儲ければ、たくさん人を雇うことができる。
そうすれば、たくさんの人たちの生活を維持することができる。
というよりは、儲けなくては誰かの生活を支えることが出来ない。
消費も増えない、雇用も増えない、給料も増えない。
責任を肩に抱きながら、仕事をする。
儲けを求めないなんていうことは、誰かに対して責任を持たない。
そう言っているのと同じように聞こえるようになった。

だけど、お金を稼ぐことも儲けることもひどく難しい。
理想論は、皆が皆儲けるように出来ればいいのだけれども
それが出来ない凡人の僕たちは人を蹴落とすことで自分の利益を守ろうとする。
そんなことが良いはずも無いのに、間違った方法でお金を得ろうとする。
お腹が空いたから、誰かのご飯を奪い取ろうとする。
お金はマナのように天からは降ってこないことを実感した。

だから、問題となるのは人を蹴落とすことであってお金を稼ぐことじゃない。
お金を儲けることじゃない。
叫ばなくてはいけないのは、正しくお金を稼ごうと言うことだと思う。
そして、正しく儲けるためにはどういう構造が必要と考え、それを実行していくことだと思う。

今の社会を否定するだけでは、何も生まれない。
全ての人が伝道者になれば全ての人が飢えてしまう。
理想論と笑われても、全ての人が正しくお金を得る道を考えなくてはならないと思う。

もし、今の社会を否定するのなら対案を出そう。
信仰を持てば、どうにかなるなんてことにはならない。
現実に、僕らは食べなくては死んでしまうのだから。

声高らかに、今の社会を否定して儲けることに嫌悪感を抱く人達へ。
どうすれば、人を蹴落とさずに儲けることができるのか。
その答えを持っているのなら、この世を否定することは間違っていないと思う。
だけど、もしそれを持っていないとしたら。
誰かを蹴落としながらも必死に金を稼いで誰かの生活を支えている人達をただ否定することになる。
その方が残酷じゃないのかな。
僕は、そう思うよ。



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積み木崩し
日本を愛している。
日本を変えたい。
クリスチャンの中でも比較的若く活動的な人間からよく聞く言葉だ。
日本を愛しているという言葉が一体、どういう状況なのかは分からないが
兎にも角にも日本の変革を望むクリスチャンは確かにいる。
恋人を愛しているから、恋人を自分色に染めたがる人間のようだよ。

思えば、日本を変えたがる人間は日本をどうしたいのだろう。
まさか、日本人全員がクリスチャンになれば何か変わると言うのだろうか。
確かに変わるかもしれない。
ただ、歴史を見たときに単一の宗教を信じる国はどこかで暴走していた。
それに、教派もばらばらな今のキリスト教会だったら分裂して争うさ。
僕の母教会ですらそうだった。

自分を救い、他人を救い、地域を救い、日本を救う。
そんな大それたことを平気で言う人間がいる。
だけれども、個人の救いと地域の救いを混同していたら何も始まらないだろう。
この世の中全員がクリスチャンになっても、貧困の問題は無くならない。
キリスト教国には、貧困が無かったとでも言うのかな。

歴史を見ずに、聖書ばかりを見るその様には何が映っているのだろう。
君の目に映るビジョンとやらは、妄想以上の現実を与えてくれるのだろうか。
人類が積み重ねてきた知識、知恵を否定しながら積み木を崩すように伝道の言葉を口にする。
日本を愛しているのなら、まずは日本の何を愛しているかを語ろうぜ。
自分の理想論を語る前に、日本を受け入れてくれよ。

僕は好きだよ、寺も神社も祭りも。
仏教の教えには興味が津々だし、禅もやってみたいものだ。
全てを偶像と見なして、否定して、破壊するつもりかい。
いや、君は壊さないだろう、寺も神社も祭りも。
だけど、寺や神社からの改宗者が自主的に壊すことは願ってはいないかい。

日本の文化全てが偶像と言い、聖書から引用されていないから価値が無いような目で見る。
偶像の中に本物の神様を見いだせたら、それは偶像じゃないと思うよ。
仏陀を見ながら、真の神を感じることはそれほどまでに不可能なのかね。

他の価値観を否定するだけの偏狭な宗教が果たして本当に広まると思うのかい。
クリスチャン以外の人たちの心の色が白か黒かの二原色で見てやいないかい。
この世の中の人たちの心の色はそれこそ色々あって、鮮やかで美しく時に醜いんだよ。

その美しさや醜さを両方受け入れてから言おう。
日本を愛していると。
自分に何が出来るかを考えるのはその後だ。



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無意識な嘘つき
昨日の記事が思ったよりも反響があったらしく訪問数がいつもの三倍以上に。
訪問数が多い時に過激な記事を書いて、躓きの石にでもなろうと思います。





僕は基本的に福音派が好きじゃない。
というよりも、信仰義認を唱えながら伝道熱心な人間を見ると反吐が出る。
最近、自分自身の牙がすっかりと抜けて草食動物のようになったと思っていたが全然そんなことは無かった。
僕は未だに真実とやらを語る人間を嘲ろうとする気持ちはあるらしい。

信仰義認、信仰義認、ああ信仰義認。
信じる「だけ」で救われるというその教義。
信じなくては救われないその教義。
まるで自分達の教義が他の教義よりも寛大かに見せかけているのか、思いこんでいるのか。
そんなことは知らないが、垂れ流すその言葉に対する嫌悪感は未だに拭えない。

信じなければ救われない。
信じなければ滅びの道を歩む。
そんな言葉をなぜ軽々しく吐けるのか。
信じれば救われるということは、信じなければ救われないと同意語だというのに。

信じることが出来ない人は一体どうなるんだい。
僕は、何回も言っている。
「信じる」ということすら理解できない知的障害者はどうなるのかと。
「信じる」ということすら理解できない年代のまま罪を犯して死んだ子供達はどうなるのかと。
誰も何も答えてくれない。
誰も明瞭な答えなんてものは教えてくれなかったさ。

どいつもこいつも言うだけさ。
「それは分からない」
「それは、神様の領域だ」
「神様に委ねるしか出来ないよね」
そんなことを言うだけさ。
聖書を根拠に真実を口に出している人間が皆そう言う。
はっきりと言えばいい。
信じていないから全員滅びの道を歩んだと言えばいい。
脳障害で知能指数が20程度しかない幼子の前ではっきりと「信じないとあなたは地獄へ行きます」と言えばいい。

分からないなんてことは言わせない。
出来ないなんてことは言わせない。
マルコ16章15説にはっきりと書いているだろう。
全ての作られたものに福音を述べ伝えよと書いているんだ。
分からないと言ったり、神様に委ねると言いながら彼らへの伝道を行わないなら
それは、まさしく大宣教命令への明確な反逆さ。

聖書を根拠に自分が口にする言葉を真実と言いながら、聖書の言葉通りには行動しない。
笑えるほど滑稽な卑怯者だよ、そんなものは。
笑い話にもなりやしない。
仮に知的障害者は全員救われると言ってみたとしよう。
じゃあ、次は障害者と健常者の境目はどこにあるのかと問おう。
どこからが無条件の救いで、どこからが本人の責任になるんだい。
その境目はどうやって、見分ければいいんだい。

語らずに、見ようともせずに。
誰もが無意識に差別して、誰もが無意識に嘘をつく。
健常者だけに与えられた救い。
まったく反吐が出る。
そんなものを僕は福音とは認めない。




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実名では書けません
キリスト教人気記事の第一位がこんな記事だったので、勝手に返答をしてみたくなった。

「それ、実名で書けるのかい?」

はっきりと言えば、僕は実名では書けない。
内心、この記事に書かれている無責任なクリスチャンと見られていないか焦っている。
僕が実名で書けない理由は、クリスチャン以外の友人に見せている人物像があるからだ。
その人たちに見られてしまっては、都合が悪い。
そんな理由だ。だから、くだらない。

そんな僕個人のどうでも良い理由よりも、匿名性の是非について僕は論じたい。
この記事でも書かれている様に、以前は匿名の記事はは軽視されていた。
ただ、そこで終わってしまってはただの懐古主義になる。
冷静に分析をするのなら、匿名の記事が軽視されていた理由は権威主義であったからだと思う。

「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」が重視されていた。
そのため、匿名の記事は否定されていたと思う。
ただ、それが悪いとは言えない。
その時代の匿名の記事なんてものは単なる噂話程度のもので何一つ裏付けがないものだったからだ。
だから、実名を挙げて記事を書き、社会的な信用を得てからでないと読みもされなかった。
それが、実情であったと思う。

だけど、時代は変わりインターネットが発達した。
裏付けとなる情報も、インターネット上に存在し、誰もが「誰であっても」情報を発信できるようになった。
もちろん、それは裏付けとなるものが存在する上での話だけれども。
そして、同時に個人の実名の不必要性も浮き彫りになってきたと思う。

例えば、僕は「一重まぶた」というHNで記事を書いている。
特殊な場合を除き、それは僕個人を指している。
僕が書いた想いは僕のものであり、誰のものでもない。
聖書的な根拠なんてものも検索すれば出てくる。
この場合、実名を出す必要があるのかが疑問に思えるんだ。

むしろ実名、年齢、性別、その他諸々を視野に入れられて僕の意見を歪んだ目で見られる方が恐ろしい。
僕は、それが嫌だから匿名で記事を書いているのもある。
そんなものを抜きに話をしたい。
そんなもので、君と僕の間を邪魔されたくない。
そういった想いも確かにある。

匿名にすることにより、「誰が書いたのか」という視野を抜かして
「何を書いているのか」という部分に集中することができる。
それは、まさに匿名性の利点の一つであると言えると思う。

明らかに自分とは異なる意見、悪しきものだと思える意見。
それが、例えば自分の教会の牧師、自分の教会の兄弟姉妹から出ていたとしたら。
その意見が持つ意味よりも、その人自身に何があったのかと考えてしまうと思う。
だけど、匿名にすることで純粋に「なるほど、そういう意見もあるのか」と見ることもできる。
何より、普段出せない本音が出せるのは大きい。

無責任と利便性の一長一短が匿名性には存在する。
人によっては、悪く映るし良くも映る。
無責任な言葉に、怒りを抱く人間もいる。
逆に無責任だから言える言葉に、今まで埋もれていた意見だと騒ぐ人間もいる。
ただ、こういった意見を忌憚なく話せるとしたら僕は匿名性もありじゃないかと思う。




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敵は誰だ
今日は教会へ行った。
説教の冒頭で牧師様がこんなことを言っていた。
「一週間の戦いが終わって、教会に来てほっとして、また世の中へと信仰の戦いへと出かける」
僕のような放蕩息子にとっては、耳が痛い言葉だった。

だけど、思うんだよ。
敵は一体誰なんだい。
世の中には確かに誘惑があって、やましいことがある。
教会の中では口に出せないような罪深いことが平然と行われている。
だから、世の中は敵なのかな。

だけど、そこには人間がいるんだよ。
どんな誘惑にも、どんな罪深いところにもそこには人間があるんだ。
僕らは汚れた世の中と戦うとはよく聞くけど、じゃあ彼らと戦うのかい。
どうやって、何をして、僕らは世の中の人と戦うんだい。

君は間違っている。
イエス・キリストを信じなさい。
そうすれば、君はその罪深いところから抜け出せるんだから。
そんな風に戦うのかな。

それとも、近寄るなと言うのかな。
あなたは罪深いから私のところに来ないでください。
あなたは罪深いから私の耳にあなたの言葉は入りません。
私の耳には聖書通りの言葉しか耳に入らないんです。
そんな風に戦うのかな。

違うなんてことは分かっている。
キリスト教を信じていても、奇跡を願うぐらいしか出来ないほどに
絶望的な状況にある人なんてのはたくさんいる。
キリスト教の言葉じゃなくても、心を動かされる言葉なんてものも
世の中にはたくさん溢れている。

結局は自分との戦いなんだと思う。
自分がどれだけ満足した信仰生活を送っているかの自己満足を戦いと言っているのさ。
敵なんていないんだ。敵なんてものはいないんだ。
そう言い聞かせながら、また明日から誰かを敵にして自分自身を立脚させる。

そんな自分に吐き気がするのに、自分自身の力だけでは立てない。
誰かの弱さを用いて、初めて自分の立ち位置を作るほどに能力が無いはずなのに
誇りだけは一人前に持っていて、全くもって反吐が出る。
弱くて醜いはずなのに、強くて綺麗に見られたい。

そんなことを説教中に思った。
やれやれ、教会に行ってまで落ち込むなんて全くどうかしてるよ。
まあ、いい。
教会に行っただけで、今日は上出来。
そう思おう。






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それでもいい
陽だまりの中に佇むように心地よい空間に身を置いていた。
昼を求め、太陽のような愛を受け入れるだけの日々を。
夜を軽蔑し、拒絶しながら昼に咲く言葉のみを飲み込み、
人の中にもある暗闇を見ないように見ないようにしていた。

年を重ねるたびに、夜が自分の中にあるのを知った。
同時に昼の言葉だけでは、人は不完全だということも知った。
夜を避けていたはずなのに、自分の中に花咲く残酷さに気がつかず
人の悪意にも気がつかず、傷つきながら傷つけながら癒し場所を求めていた。

そこにあったんだと、いつだって新鮮な感動を味わいながら
また違ったんだと、絶望を繰り返す。
そんな日々の中、気がつけば昼夜を繰り返しながら生きている。
全ての人が幸せになればいいのにと、昼に思いながら
夜に自分自身の無力さに泣きたくなる。

いつになれば、僕は世界を平和に出来るのだろう。
誰にでも賜物が備わっているだなんて戯言を信じていた時には
自分にも何か特別な使命があるだなんてことを夢見ていた。
そんな幻想は、周りを見渡せばいくらでも砕かれることを知りながら
自分自身だけは特別な存在だという錯覚に陥りながら、夢を見ていた。
終わらない、だけど叶わない夢を。

奥底に眠る夢の欠片は、僕の中の夜を闇にしていく。
諦めきれない強情さは、妥協を産みながら自分自身を強固にしていく。
他の人の心の中にある、傷にも似た誇りを認めることも出来ずに、
互いに傷つけあう言葉を知らず知らずに吐いていく。

僕は傷ついたんだ、だから君も傷つけよ。
そうすれば分かりあえるんだ。
そんな言葉を心の中で吐きながら、他人にも自分自身の無力さから湧き出る心からの絶望を強要する。
誰も傷つかなければ、そんな素晴らしいことは無いはずなのに。
互いに慰め合いたいから、互いに傷つけ合いたくなる。

そうでもしなければ心からの信頼など不可能だと嘯き、自分自身の愉悦を満たすためだけに吐きだす。
闇の中で輝く人になりたかったのに、昼に光ろうとしながら夜に引きこもろうとする。
まるで、僕はイエス様のようにはなれなかった。
いつまでたっても、僕は僕自身だった。

それでもいい。

いつか、絶対的な愛でそう言われるのを夢見ながら生きている。







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信仰によって成長することは僕は間違いだと思う
思えば、僕は今まで色々と教会を非難していた。
キリスト教会、それも福音派と呼ばれる人たちを感情のままに罵倒していた。
それは、自分が過去に感じた傷や辛いこと、その鬱憤を晴らしていた。
そんなことに大した意味があるわけでは無いのだけれども。

ただ、今でも感じる。
信仰を万能の基として扱い、ひたすらに自分自身の欲望を正当化する様に対する言いようの無い違和感を。
僕にとっての礎であるキリスト教会は一体なんなのかと問われたときに、
福音派の一部が主張する信仰万能論を決して見せたくは無い気持ちを。
僕は今でも感じている。

信仰によって成長しましょう。
毎日、聖書を読んで神様に祈ってイエス様に近づいていきましょう。
そんな言葉を吐く人間に対して、抱く反発心は心の奥底で棘が玉の様に転がる。
無関心を装おうとする僕の心を、いつだって傷つける。
それは、きっと僕が信仰によっては成長出来ない人間だからだと思う。

この世の中には、成長出来ない人間、成功出来ない人間が数多くいる。
社会に出て感じたことがある。
僕よりも遥かに年を重ねた人間が、僕よりも安い給料で働いていたり、
僕よりも遥かに年を重ねた人間が、僕よりも幼稚な言葉を吐いたりする。

それをただ僕の傲慢だと決めつければ、簡単な話だけれども。
きっと多くの人が感じていながら口に出さない禁忌のようなものになっているだけだと思う。
どうしようもない人間はいる。
それは、本人の能力の問題だったり、環境の問題だったりするけれども。
身体障害者や精神障害者、発達障害を例に出すまでも無い。
そんなことは無いだとか、努力次第でどうにでもなるとか言う方が残酷とすら僕は思うんだ。

この世の中には、成長も成功も出来ない人間はいる。
それは、どんなにキリスト教を信仰していても変わらない。
少なくとも、信仰によって成長を謳う輩が言う「成長」にはほど遠い。
だから、僕は信仰によって成長することは間違いだと思う。

もし、成長することが信仰の結果だとしたら成長出来ない人はどうなるのだろう。
信仰が足りないことになってしまうのだろうか。
信仰の先に成長や成功が待っていると確信してしまえば、成長や成功出来ない人はどうなるのだろう。
極端なことを言えば、クリスチャンになってから仕事を失い、家を失い、路上生活者になる人は
信仰が足りないことになるのだろうか。
そんなことは絶対に無いはずだろう。

どんな人でも神様に愛されている。
それは、太陽が特定に誰かにだけ日を照らさないのと同じように。
だけど、僕たちは自分が成功してしまうとそれが唯一の真実だと思ってしまう。
信仰で成長出来たと思う人は、それが唯一の真実だと思う様になると思う。

もし、信仰によって成長だとか成功しただとか思っていても。
それは、ただ単純に神様からの恵だと思うんだよ。
神様が与えてくれた恵を、自身の信仰の功績だと思ってしまえばそれこそ傲慢になってしまうんじゃないか。
僕は、そう思う。
ましてや、それを万人に通じる絶対的な真実としてしまうことが僕には悲しいんだ。

僕は弱い。
僕の心は醜い。
それだけならまだしも、僕は卑怯者でもあるんだ。
僕はイエス様の様にはなれないんだよ。

そう、僕は自分をクリスチャンだと思っているけれども、成長を望む君の様なクリスチャンにはなれないんだ。
僕は君とはまるで考え方が違っていて、君が罪深いと思うことすら平気でするんだよ。
こんな僕は君から見たらクリスチャンには見えないのかな。
もし、そうだとしたら僕はひどく悲しい。

僕のような人間でも救ってほしいんだよ。
僕のような人間でも愛されたいんだよ。
僕のような人間でも愛したいんだよ。

だから、人を選別するような信仰を真実にしたくないんだよ。
隣人を限定してしまう信仰を真実にしたくないんだ。
これだけは、きっと一生変わらない。

僕は、弱く醜く成長出来ない卑怯者のまま信仰を続けていく。
こんな僕でも神様は愛してくれていると信じる。
それだけさ。






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限定的な愛でも癒される
キリスト教会にいると、愛についてよく聞く。
僕らは神様から無条件で愛されていて、それは最高の愛だと。
無償の愛、ただひたすらに与える愛をアガペーと言ったり、
見返りを期待する愛をエロスと言ったりする。
そんな風に、人間には出来ない神様の愛を強調して人間をくだらなくする。

生まれてきてくれと良かったと言われた時もあった。
だけど、その理由は自分に対して優しくしてくれるというものだった。
僕は、そういった言葉は俗に言うエロスだと思ってくだらないものだと思っていた。
だけど、それはただ単純に僕が僕自身に対して絶望しておらず自分に対して驕っていたからだと
気づいたときに、その言葉が変わった。

こんな僕でも人に優しくしたり、大切に出来たりしたんだなと思えた。
それは、ただ無条件に愛されるだけでは気づくことが出来ないことだった。
そう感じ始めたときから、気づいたことがある。

僕もこれまで他人を無条件で受け入れることが正しいことだと思っていた。
だけど、無条件に愛されてもそれは人間を見ているだけで、その人自身を深く見ることが
出来ていないと感じてしまう。
神様には可能だけど、僕は神様にはなれないことをこれでもかと思い知らされた。
僕自身の矮小さに気がついた。

拙い心しか持ち合わせていない僕のような人間にとっては、限定的な愛にすら癒される。
それが愚かなことだとは思えない。
その人自身が持っている限界の愛を駆使していると思ったからだ。
本来不可能なはずの、全てを受け入れる愛を行おうと演技するよりは
その人自身が持つ限界の愛、限定的だろうが愛することの方が僕は人間味があって好きだ。

あの人が好きだとか、あの人が嫌いだとかに左右されがちな僕らの愛だけれども
それでも、どんな形であろうと愛は癒される。
そう、思えるんだよ。

キリスト教の価値観以外の愛をエロスと決めつけて、アガペー以外の愛が無価値かのように
言う様は、果たしてそれはアガペーなのかなと疑いたくなる時がある。
無条件に受け入れるだけが、愛じゃないと思うようになった。
限定的な愛にすら癒される僕らの心は、本当はとても弱々しい。

だから、悪いことだとは思わない。
条件付きで人を愛することは悪だなんて価値観がキリスト教会に藻のようにこびりついてるけど
もう少しだけ、考え直しても良いと思うんだ。
もちろん、その愛の弊害はあるだろうけれどもそれ以上にやはり素晴らしいと思う。

そう思えば、今の世界も少しはましに見える。
限定的な愛が溢れかえっている世界。
愛が溢れかえっている世界。
少しだけ足りない世界。だけど、減点されているわけじゃない。
そんな世界の見方も悪くはないと思うんだ。

誰もが素晴らしい世界と、悲しい世界を持ち合わせている。
そんな中にある愛。
僕には煌めいて見えるよ。
それを間違っているとは、とても思えないんだよ。







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探り合いながら試し合いながら絶望し合う
いつだって、傷つくのには慣れない。
心をどれだけ強く保とうとしても頬を殴られれば痛いように
いつだって、心を傷つけられれば痛い。
罵詈雑言だけではなく、冷静な非難だけではなく
ただ、相手と価値観が違うだけでも傷つくこの心の脆弱さには呆れるよ。

何か満たされない心を抱えたまま、ひたすらに自分を守る防波堤を作る。
他人の言葉に傷つかないように、他人の言葉に心を惑わされないように、ただひたすらに。
だけど、いつだって心の防波堤は少しの亀裂で崩壊して、せき止められない血を流す。
だから、砲弾を作り、大砲を作り、防波堤に近づくものを壊そうとする。
壊される前に相手の価値観を壊し、有無を言わさず自身の防波堤を最良のものとする。

自分の中で最良とした価値観は、いつしか自分以外にも最良だと思うようになる。
それは、傷つき流れる血をより恐れるようになり、傷ついた心を癒すまでにかかる時間を長くする。
傷つきたくないから、お互いに傷つけ合う。
そんな空しいやり取りをしながら、僕らはお互いに分かってくれないだとか分かってくれるだとかを語る。

だけど、大砲を持たない人も中にはいる。
防波堤すら持たない人もいる。
でも、大切な人や大切にしたい人もいる。
満たされたい心がある。
満たして欲しい心がある。

大切な人に捨てられるぐらいならと、自分の心を傷つける人もいる。
信仰的に見られないと大切な人に捨てらえると思えば、信仰的になる。
下品なことを言わないと、周りから引かれると思えば下品なことを言う。
心に嘘をつくことも厭わずに、ひたすらに他人に心の欠片を埋めてもらおうとすることは愚かなのかな。

自分のために相手を傷つける人と、相手のために自分を傷つける人。
お互いに違う属性ならば、良いのだろう。
だけど、誰もが両方の属性を持っていて、いつだって誰とだって傷つけあう。
相手を責め、自分を責めて、そして棒らは均衡を保とうとする。

辛いよ、本当に辛い。
心の中には、人に優しくしたり自分に優しくしたい気持ちも確かにあって
でも、僕らはいつだってお互いに傷つけあって、暖かいもの以外の存在をどこかに感じているんだ。
ある一定の領域にまでしか他人の心に踏み込めない無力さを誰もが実感して
そして、ある一定の領域にまでしか他人は踏み込んでくれない絶望も誰もが実感している。

だから、価値観を統一しようとするのだろう。
お互いに踏み込め合える関係を期待して、相手との距離を縮めたくて。
だけど、価値観を統一しようとしてもそれは叶わずに、皆食い違うことを言い始める。
個人の心の壁が、集団の心の壁となっていく。

探り合いながら、試し合いながら、いつだって限界を感じて傷つけあう。
本当に人と分かりあいたいなら、自分の心を傷つけて相手の心を傷つけなきゃいけないんだよ。
でも、人を傷つけたくないし、傷つけられたくも無い。
そんな矛盾を抱えながら、僕たちは拙い言葉で分かり合おうとする。
その気持ちは無駄じゃないと思う。

なあ、僕にも君がつけた傷が欲しいよ。
そんな風に思うのはおかしいのかな。
ああ、神様。
傷つけ合わずに、お互いを分かりあう力を僕らは持っているのかな。
それとも、持っていないのかな。

持っていると信じよう。
それが、僕にとってのキリスト教だ。







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どうすれば敵を愛せるのだろう
僕は人間だから。
僕に仇成す人間を憎んだりもする。
僕がどうしても受け入れられない人間がいる。
それでも、聖書はイエス様は隣人を愛しなさいと言う。
気が狂いそうだよ、何だってこんな言葉に支配されてしまうのか。

傷ついた心で傾く天秤を憎しみという重しで釣り合いをとろうとする度に
その重りは聖書の言葉で取り去られる。
代わりに愛の重りを乗せろと言われても、僕の心の中にはそう易々とは愛は無く、
心の天秤はいつだって自分自信を否定する方に傾くばかりだ。

敵を愛せ。
敵とは一体誰のことを言うのだろう。
自分自身に対して仇なす人間をどう愛せばいいのだろう。
憐れめばいいのか、下に見ればいいのだろうか。
こんなことして、可哀想な奴だと見ればいいのだろうか。
本当は彼の心の方が渇いているのだろうと見下せばいいのだろうか。
無理だよ、そんなこと。

僕自身、人を傷つける。
僕自身、渇いているさ。
だから、そんなことは重々承知しているんだよ。
誰だって、何かかしらの理由があって辛いことがあって人を傷つけているなんてことは
分かっているんだ。

だけど、敵は僕よりも裕福で僕よりも慈しみ深くて僕よりも愛に溢れていたら。
僕は、そんな奴のことを愛せない。
ただ、嫉妬するばかりの愚か者になり、憎むことすら止められない。
敵を愛する。
自分よりも下の敵しか愛せない僕のこの心はどれだけの卑怯者なんだろう。

分かっているんだよ。
こんなことを言っても、本当は分かっているんだよ。
本当の敵は自分自身だなんてことは分かっているんだ。
だから、余計辛いんじゃないか。
僕は僕自身を愛せなんかしないんだよ。
こんなにも最低な自分自身を愛せないんだよ。

ああ、ちくしょう。
今だって愛せずに憎む人間がいるぐらいだ。
これからの人生はもっと増えるだろう。

面白い人生だ。






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墓前礼拝
先日、墓前礼拝に行ってきた。
久しぶりに合う人もいた。
というよりも、聖書を読み讃美歌を歌うこと自体が久しぶりな気がした。
讃美歌を歌うときに、泣きそうになった。
どうやら、自分はまだクリスチャンらしいと思えた一日だった。

墓前礼拝が嬉しい出来事だということに、最近ようやく気がついた。
神様に祝福され、この世の命を終えて砂になった家族達。
神様に祝福され、この世にまだ留まっている僕ら。
一緒にいるということを改めて思いだせる。
久しぶりに父親に会えた気がした。

「しかし、私たちの本国は天にあります」

この御言葉がとても好きだ。
少し間違えれば特権階級を意識してしまう危険性も孕んでいる。
だけど、僕はこの御言葉は特権階級とは無縁だと思う。
差別されない、差別をしなくてよい国。
僕らは、本当はそこにいるんだと思える。
なんて素晴らしいんだろう。

死ぬことの恐怖がまた少し薄れた。
だけど、まだ死にたくない。
神様、ありがとう。
やはり、僕はあなたのことが好きらしい。




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この世で一番惨めに生きながら笑える人間になりたかった
キリスト教徒と言えばどういった人間を指すのだろう。
教会にいればイエス様の救いを信じている人間と言うと思う。
でも、世の中の印象は柔和で優しく慎み深い人間を想うのかな。
そんな人ばかりではないことは教会に行けば分かる。
優しくする前に優しくして欲しくて、自分に自信が無いから頑固になって
自分を見てほしくて信仰を証したりする。

神様さえいればいいだなんて言葉が宙に浮いてしまう。
心の中にある苦しみの沼に足を取られて座りこんでしまうことの方が多い。
一歩、俗世間に出れば成長と成功無しには幸福が無い世界だ。
自分自身の無力感に苛まされ、教会に行ってもそこには俗世間と成長と成功の価値観が居座っている。
人を愛することも、人に愛されることも当然とされる教会で、
人を愛することも、人に愛される実感も無いままに理想と現実の境目から孤独を叫ぶ。
そんな人達もいたりする。

どうすれば、全ての人に福音を届けることができるんだろうな。
全ての人に届けることができる福音とは何なのだろう。
イエス様は何を伝えたかったのだろう。何で弟子の足を洗ったんだろう。
僕らは何に仕えればいいのだろう。

イエス様に従って歩くとは、よく聞く話だけどイエス様はどう生きたのかな。
若者がよく集まる教会にいるカリスマ的なリーダーのような人だったのか。
僕は、それだけじゃないと思うんだよ。
嫌われている人たちの家に行って、共に食べて飲んで笑ってさ。
それでも、最後にまだ目が曇っている弟子たちの足を洗うような人だったと思うんだよ。
十字架に磔にされて侮蔑され侮辱されて惨めに死んだ。

イエス様のように生きたかったよ。
この世で一番惨めに生きながら笑って生きたかった。
だけど、三日目に復活出来ない僕は生きている間の名誉が欲しいと思ってしまった。
地位や名誉が無いと、誰も僕の話なんて聞いてくれないと思ったんだよ。

そうしてしまえば、後は楽な話だ。
成長と成功を強要されるこの世界の価値観に一飲みさ。
成長しようとして、成功しようとして、誰かに伝えたかったはずの何かすら見失いかけている。
だからこそ、教会で成長だとか成功だとか聞きたくないんだ。
人間ってのは手段が目的に変わるなんてことは皆知っているはずなのに、
誰だって自分だけは大丈夫だと思ってしまう。

なあ、どうすればイエス様のように生きることができるんだろうな。
なんだって、社会的に惨めに生きていても人が集まったんだろうな。
きっと、弱い人に優しかったんじゃない。
イエス様の目には、強弱の定義なんてものは無くて、皆が隣人だったんだと思う。

イエス様のように生きたかったよ。
だけど、僕は僕のようにしか生きることが出来ない。
だからイエス様の十字架が必要なんだよ。






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キリスト教を自分が成長するために使う人たち
イエス様はどういう人だったのだろう。
僕らは、勝手な思い込みで自分なりのイエス様を作る。
そのイエス様が正しいかの判断は聖書に委ねると見せかけて、
実際は都合の良い箇所を抜き出したものだと思う。
イエス様が何を語ったのかは実はそれほど重要では無くて、
自分の価値観に合う御言葉を探す方が重要だったりする。

時に、それは旧約と新約をごちゃ混ぜにしたりする。
特定の箇所だけを強調したりする。
なぜそんなことをするかと言うと、成長したいからだ。
キリストのためにと名付ければ、全てが免罪符になると勘違いしている馬鹿も
まだまだ多くいるようだ。

そんな奴らに限って、キリストの名前を呼び捨てにしたりする。
欧米にかぶれているのか知らないが、日本人なら敬称ぐらいつけたらどうなのかと思う。
結局のところ、人格を認めていないように見えるんだ。
「イエスは~と言った」
そんな表現を見ていると、そう思うんだよ。

成長することが素晴らしいだなんてことを疑わない人間なんて大嫌いだ。
僕は信仰で成長するだとか、信仰で成功するだとか言う奴が大嫌いなんだ。
筋萎縮性側索硬化症の人間の目の前で、伝道するために成長しましょうと言え。
路上生活者の目の前で、信仰で成功するだとかを叫べばいいさ。
時と場合と相手を考えなきゃいけないようなものが、イエス様が与えてくれた福音なのかよ。
そんなもの、旧約の時代にユダヤ人にだけ与えられていた福音と同じじゃないのかい。

僕らに与えられた平安はなんなんだい。
僕らに与えられた救いはなんなんだい。
僕らに与えられた愛とはなんなんだい。

成長だとか成功だとか、そんなものに失敗しているからキリストの救いが欲しくなるんだよ。
自分じゃどうしようもないから、神様に頼って成長や成功したいわけじゃない。
失敗したと思っている僕でも、神様の目から見たら尊くて愛されるべき存在なんだよって言って欲しいんだよ。
なあ、愛って包括的なものがあるのになんだって限定的なものを使おうとするんだい。

男女差別がようやく無くなってきたと思えば、教会では同性愛を差別して
健常者と障碍者の違いもろくに理解しようとせずに、信仰と叫んでいる。
福音を限定的なものにして、隣人を限定している教会ほど
大宣教命令を大事にしたりするんだよ。
冗談が過ぎるから笑えない。

成長したいのなら、そこらの自己啓発セミナーで充分だ。
僕は別にキリストのために成長したくなんかないんだよ。






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