君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
プロフィール

一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



FC2カウンター



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


癒されなくても神様に愛されている
癒しを求めることを責めることなどできない。
苦しみの中、ただひたすらに耐え忍ぶ美徳もあるだろう。
だけど、人間が全員そこまで強くもなくむしろ弱い。
突発的な事故や、難病に罹った時に僕らは祈る。
神様助けてください。ただ、御心ならそのままにと。

そして癒される人間が出てくる。わらわらと。
そして、証をするんだ。
癌が治りました。歩けるようになりました。
もっと凄いのになれば、癒しを求める集会さ。
癒された人は前に出てきてくださいと言えば、わらわらと驚くほど並ぶ。
なんて素晴らしいんだろう。反吐が出るぐらいに。

思えば僕が幼い頃、父親は癌だった。
クリスチャンだった僕の両親は教会の人と祈ったよ。
だけど、祈りによる癒しは与えられずに外科的な処置で癌は取り除かれた。
当たり前に幸福な出来事は、祈りによる癒しが与えられないことで
少しだけ悲しい思い出になった。
信仰が足りないかのような気分になる出来事だった。

癒しを求めることも、癒しがもたらされることも。
何も悪くない。
神様の栄光が本当に表れているのかもしれない。
その人の信仰がその人を救ったのかもしれない。

だけど、だけど常に付け加えて欲しいんだ。
癒されなくても神様に愛されているということを。
癒されなくても神様に祝福されているということを。
癒されたとか癒されないだとかで、
信仰の有無が決まるわけでも、その人の価値が決まるわけでもないことを。
いつだって、いつだって言って欲しいんだよ。

そのことを忘れたときに、泣く人が出てくるんだ。
そのことを忘れたときに、傷つく人が出てくるんだ。
癒されないのは信仰が足りないから。
癒されないのは神様に愛されていないから。
癒されないのは私が罪を犯しているから。
癒されないのなら私はクリスチャンでは無いのかも。

違うだろ。そんな馬鹿な話と思うだろう?
だけど、現実に思ってしまうんだ。
思ってしまったんだよ。
癒されたこと、目に見える祝福の証ばかりをまざまざと見せつけられ、
自分自身には何一つ奇跡が起きない劣等感。
真面目で平凡な信仰者を傷つける剣。
そんなものを生み出すことなんてないだろう?

癒されなくても神様に愛されていることに変わりは無い。
癒されなくても神様に祝福されていることに変わりは無い。
そんな当たり前のことをいちいち語ろうよ。
じゃなきゃ、愚かな僕らは忘れてしまうんだ。
喜びの花を、手を切り裂く棘に変えてしまうんだ。
そして、目に見える祝福ばかりを追い求めるようになってしまうんだよ。
そんなものは真っ平御免だ。

癒されない、奇跡も起きない、目に見える祝福なんてありませんでした。
そんなクリスチャンの人生も立派な証であり、ひたすらに神様に愛されて祝福されているんだ。
そんなクリスチャンの人生も、癒されて奇跡が起きて目に見える祝福だらけの人生に何一つ劣ってないんだ。
なあ、そうだろう?

僕らの人生はそれぞれに素晴らいんだよ。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。







スポンサーサイト

疲れたからだ
いつだって疲れている。
嘘ではないけれど決して本当じゃない幸福の湯の中に浸かりながら
少しだけ疲れを癒そうとする。
湯船から出るころには、湯冷めしているから僕らはいつだって心が寒い。
心は震え、体は冷える。
疲れたからだ。

癒されようと躍起になっている。
ただ、ひたすらに慰めが欲しくなる。
そして、神様に頼ったり異性に頼ったりとせわしない僕らは
決して共通した解を見出せずに、自分自身の幸福を唯一無二の真実としようとする。

正しい結論はいつだって、偽りに姿を変えて僕らの幸せを壊そうとする。
どの真実を選ぼうと、幸福の中に引きこもることは許されずに
傷つけあう現実と対峙していく。
欲しいものは絶対的な安堵なだけなのに、僕らは刺激を求めて彷徨う。
安らぎを怠惰にし、暴力を刺激としながら歩いていく。

満たされない心の硝子瓶に空いている穴を塞ごうともせずに、
ただひたすらに沸き流れる水の下へと置こうとする。
僕らに欠けているものはなんなんだろう。
ひたすらに求め続けても、答えは帰らない。

いつしか、自分の気持ちすらも分からなくなり
大切なものは社会に埋没させられていく世界で
僕らは、何を残せるのだろう。
自分自身が幸せになるための軌跡以外に、何を残せるのだろう。
僕は、大切な下の世代に何が残せるのだろう。

幸福を求め続けることに不幸を感じ、
キリストの扉を叩けど叩けど、答えは幾通りも用意されている。
知恵を虚しき愚者の道具とし、自分自身の真実の権化である聖霊に頼る信徒達。
保守だろうが、改革だろうが等しく矛盾を抱えながら矛の話ばかりをする。

なぜ、こんなことを考えるのだろう。
疲れたからだ。
癒されたいな。ひと時でも何もかも忘れて。
泣きたいな。恥も外聞もすべて捨てて。
体は勝手に震え始めて、瞼を落ちようとしてくれない。

癒しは、キリストの御手の中にあるのかな。
それならば、死ぬまでは諦めよう。
さあ、明日も生きよう。
そして、自分が勝手に作った敵と戦おう。
出来ることなら敵を愛せるように。


にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。




どれだけ言葉を紡げば偽らなくなるのだろう
求めていることは、そんなに複雑なことじゃないんだ。
君と心から分かり合いたい。それだけなんだよ。
クリスチャンだとかノンクリスチャンだとか関係なく。
ただ、君と分かり合って君の存在を喜び、僕の存在を喜んで欲しいんだ。

なのに、僕らは互いに分かり合うどころか突き放していく。
君を映す心の中の鏡は、決して君の本当の姿を映してはくれない。
僕の色眼鏡で見た、決して君ではない君を見ながら僕は君についてあれこれ言う。
そうして、互いの色眼鏡がその人の価値観自身だということに僕らは気づいていく。
見たくないもの見ずに、見たいものを見ようとする。

それなのに、僕らは互いに好きになり互いに嫌いあう。
大切な人の望まれる姿であろうと、自身を偽ることさえ苦にせず
ただひたすらに自分自身の葛藤を作り出し、矛盾を作り出す。

僕らは、いったいどれだけ言葉を紡げばお互いを偽らずにすむのだろう。
どれだけ時が経てば、お互いを偽らずに済むのだろう。
無条件に愛していると叫びたいのに、いつだって条件をつけてしか
愛していると叫べない。
なぜ、僕らはイエス様のようになれない。

信仰によって、この汚い心が変わるというのかな。
ならないと思うんだ。もし、なるのなら旧約の時代にとっくに人間は救われて
そして、イエス様が来る必要すらなかったはずだと思うんだよ。

だから、イエス様が来た。だから、救われた。
僕らは汚い存在のまま、ただひたすらに神様の恵によって救われた。
その救いを受け取る信仰は持っている。

だけど、それでも求めてしまうんだよ。
理想的な世界を、理想的な関係を求めてしまうんだ。
死んだ後にいくらでも楽園はあるのだろうけれども、
僕らが生きているこの世界の一切の悲しみや不幸を無くし、
ただひたすらに相手の幸せを願う世界を求めてしまうんだ。

無理だなんてことは分かっているのに。
僕自身にすら嫌いな人間もいるし、憎んでいる人間もいるのに。
誰だって望んでいるはずの理想的な世界は、漠然と誰の頭の中にも存在しているのに。
なぜ、僕らはそんな世界を作れないのだろう。

神様、分からないんだよ。
どう喜べばいいのか分からないんだ。
僕らは喜んでいいのかい。
救われたさ、嬉しいさ。
だけど、世界には現実に理不尽な死や心の痛みを負っている人たちがいるんだ。
僕らはその現実の中にありながら、ハレルヤと叫べばいいのかい。
なあ、神様。
分からないんだよ。

僕はどうやって喜べばいいんだい。
僕には、喜ぶことすら自分が汚いと思ってしまうんだ。
肯定してくれ、赦してくれ。
どうすれば、自分自身が生きていて価値があると思えるんだい。
分からないんだ。

一番赦せないのは自分自身なんだよ。




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。












君と同じ目線を持ちたい
僕らは、クリスチャンだとかノンクリスチャンだとかいうことで人のあり方を決めようとする。
だけど、僕らにとっての価値基準なんてものはそれだけなのかな。
僕は、生まれたときからクリスチャンの価値基準だったから
ある程度大人になってからのキリスト教なんてものは知らない。

だけど、ノンクリスチャン達はただこの世の価値観に塗れているのか。
僕は、別にそういうわけでもないと思う。
ノンクリスチャンの中にも色々な人がいる。
色々な価値基準がある。

それは、宗教に関わらず仕事の姿勢であったりだっとか、
男女間の関わり方であったりとか、
そういった細かいことや、大きなことまで皆が皆ばらばらなことを言っている。

僕らは、その中で気の合う人を見つけたり、考え方をの合う人を見つけたり、
耳触りの良い言葉を選んだり、自分に厳しい言葉を選んだりしている。
絶対的な自分自身の価値基準を持つことすらおこがましいと思えるほど
この世の中には様々な価値観が溢れていて、そして皆が皆違うことを言っている。

統一された意見なんてものは、強制的な賜物でしかないと思えるほどの歴史を
目の当たりにしていく中で、僕らは一体何を見ているのだろう。
何が正しいのかすら分からない世界の中で、僕らは何を見ているのだろう。

確立された価値観を持つことが、是とされている世の中で
ゆらゆらと生きていく価値観が受け入れられない。
自分が置かれている環境の変化によって日々価値観が変わることが悪とされてしまったら、
もはや何も言えない。
早期教育による、価値観の統一化が正しいと思われる世の中なら僕は、何を言えるのだろう。

何一つ正しいかどうか分からない世界ではどう生きていけばいいのだろう。
僕らは、何を聞けばいいのだろう。
僕らは、誰から話を聞けばいいのだろう。
それすら分からない内から、何を聞くか誰から話を聞くのかを決めるその様は
いったい何様のように僕らは振舞っているのだろう。

愛しているということすら、素直に吐けない。
愛という価値観ですら僕らは、皆違うことを言う。
この心の中にある唯一の綺麗な気持ちすら正しく伝えることができない。
綺麗では無いかも知れない、ただただ相手を大切に思うこの気持ちすら
言葉では、うまく伝えることができない。

統一された価値観すら持てないのなら悲しすぎる。
僕は、いつかただただこの溢れ出る気持ちを伝わっていると誰かに
証明して欲しくて、躍起になっているただの馬鹿さ。

虚しく徒労に終わるような僕の価値観は誰かに拾われるのかな。
いつか、誰かと心の底から共感し合えるのかな。
僕らは、心の中から願う誰か一人とすらろくに伝い合いきれない不完全な存在さ。
なのに、同じ価値観を持っているかのようなふりをして傷つけ合う。

愛しているんだ。
理解したいんだ。
君の事を見たくて、僕のことを見て欲しいんだ。
一生、叶わない願いだと分かっているのに願ってしまう。

君のことを理解しきることなんて不可能なんだ。
僕のことを理解しきることなんて不可能なんだ。
なのに、なぜ求めてしまうんだろう。
なぜ、そのことで苦しんでしまうんだろう。

僕らはどうやって、求め合うんだろうな。

愛しているということすら、ろくに分からないよ。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。










満たされる気持ちすら邪魔だと思う
ここ何日か、とても調子が良かったりする。
良い上司に恵まれ、仕事もようやく張りが出てきた。
仕事で気の合わない人間もいれば、気が合う人間もいたりする。
私的な人間関係も、割合と良好で久しぶりに会う予定の人間もいる。
金には溢れていないが、ささやかな幸せとやらを噛み締めている。

嗚呼、ちくしょう。
心が満たされようとする度に反発したくなる。
幸せになりたいんだよ。満たされたいんだ。
だけど、満たされてしまったら何もかもいらなくなってしまうんだ。
飢えていても何も出来ないことはわかっているのに。
それでも、満たされてしまって何も見ようとしなくなるのが怖いんだ。

自分自身の汚さなんてものは分かっている。
僕は、自分が正しいと思えば他の人間を差別する。
自分よりも劣っていると思う人間に対して容赦なく侮蔑の目を向ける。
そんな風にはなりたくないんだよ。
あいつよりマシだなんてことは思いたくないんだ。

なのに、満たされる。
心が幸せで満たされる。
こんなにも、色々な犠牲の上で生きているのに。
豊かな暮らしを享受出来るのは、どこかの国が貧困に喘いでいるからだと分かっているのに。
過去、戦争を体験した先祖の上に成り立っているこの命なのに。
人を殺したり、殺されたりそんな世界のおかげで生きているのに。

なんだって、それを何も見ようとしなくなるのだろう。
なぜ、いつだって自分自身の汚さを忘れるんだろう。
なんだって、自分自身が立派で優しい人間だと思おうとするんだろう。

悲しみを忘れもせず、それいでいて幸せを感じる。
そして、悲しい世界のために粉骨砕身生きようとする。
なぜ、それが出来ないのだろう。
心の天秤は必ずどちらかに傾いて、僕の心を不安定にする。
神様の声は未だに聞こえないし、僕が卑怯な人間であることも変わらない。

空想の中で、人を殴り、人を殺し不安定な精神の折り合いをつけようとする。
僕は、一体何様なのだろう。誰にも誰を裁くことなど出来ないはずなのに。
なぜ、いつまでたっても優しくなれないのだろう。
なぜ、求めている自分にいつまでたってもなれないのだろう。

嗚呼、神様。
あなたに全てを任せれば楽になるのですか。
あなたの声を聞いたことが無いんです。
聖書以外にあなたの声を聞いたことが無いんです。

再臨の時が近いと言うのなら。
頼むから早くしてくれ。
考えることを放棄したくなることもあるんだよ。




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。









信仰が罪人を作り出す
僕らは罪を犯す。それは間違いない。
誰もが、自分の中にある罪の種子を取り除くことはできずに
ただただ発芽させ幹を張り、枝を伸ばしながら罪の花を咲かせる。
罪の花が咲き誇る様を見ては、初めて見たような反応を繰り返し騒ぎ立てる。

何が罪なのか、誰が罪人なのかを探すクリスチャンは未だにいるのだろうか。
誰もが罪人であるはずなのに、自分が犯していない罪を犯す人を罪人と呼ぶ。
そんなことが今でも現実に行われているのだろうか。

そうじゃないと言うのかもしれない。
ただ、そうした方が幸せに生きることが出来るだけだから。
罪人かどうかは神様が決めることだから。
全ては神様の御手の中だから。
誰かを罪に定めることなんて、私にはできない。
そう言うのかもしれない。

そうだよ、確かにそうかもしれない。
殺人。強盗。詐欺。
そんなものを犯した人間に対して、罪人とは叫ばない。
悔い改めて神様に従いましょうと言う。
だけど、婚前交渉。同性愛。不倫。
そんな問題に関しては、言葉を濁す。
良くない、やめなさいと言うのに罪とは定めないと言う。

詭弁だ。
全ては神様の御手の中にと言いながら、善悪の基準は用意されている。
善悪が無いままの信仰を認めることが出来ないなら、偽善が罪人を作り出す。
救いのみに注目をしても、同じことだ。

信じることにより救われる。
じゃあ、信じない人は。信じることができない人は。
信じる知能が無い人は。信じる前に死んだ幼児は。
そんな疑問が湧いていく中で、それは神様の領域だと言う。
信仰義認を語りながら、説明出来ない部分は分からない。

分からないはずがないんだよ。
信じることにより救われると言うのならば、信じなければ救われない。
信じることにより救われる、と言う素晴らしい部分のみを語りたいがために滅びゆく人を作り出す。
その現実を認めないために神様に委ねると言うのを僕は義とは思わない。

婚前交渉や不倫をしている人間を注意する人たちは言うかもしれない。
本気で祈って、悔い改めているとは思えない。
神様を本気で愛しているのならしないはずだと。

だけどさ、そういう人たちは不平不満や悪口、陰口を言っていないのかい。
心の中で誰かを犯していないのかい。誰も憎んではいないのかい。
そう、同じ言葉を返せるんだよ。
本気で祈って、悔い改めているとは思えない。
神様を本気で愛しているのならしないはずだと。

罪に優劣をつけ、裁き、教会から追い出す。
どこぞのメガチャーチが行っていることに反吐が出る理由がそれさ。
救いようの無い罪人を大いなる恵みにより救ってくださったイエス様がいるのに、
僕らの偏狭な信仰で、また滅びの道へと歩ませる。

信仰により救われると言う人たちもそうだ。
僕らはどれだけ信じているのかな。
完全に信じているのか、疑う心が一片も残っていないのか。
クリスチャンになると決心しても、どこかで疑う自分は残っていないのか。
もし、残っているとしたらそれは完全な信仰じゃない。
じゃあ、信じていることと信じていないことの線引きはどこで決めるんだい。

人前で信仰告白をすれば、信仰かい。
洗礼を受ければ信仰かい。
何を持ってすれば、信仰だと言えるのか。
誰も完璧には答えられないはずなのに、絶対的な言葉で信仰義認を口にする。
誰も逆らうことが出来ない聖書を手に持ちながら。

嗚呼、同じように聖書に書いてある愛は一体どういうものなのだろう。
僕には、未だに何一つ分からない。
信仰よりも偉大な愛さえ分かれば、こんなことを言わなくて済むのだろう。
悲しいな。
僕には未だに愛が何なのかさっぱりわからないんだよ。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。









自分自身の未来すら切り開けない

無力な自分を呪いたくなる時がある。
世界平和を心から願っていた。
それが、どうだ。
何も知らなかった自分自身への問いかけの答えは、
未だに何も返ってこない。

自分自身が思っていたほどの能力を持っていなかったことに気付いた時の
衝撃は、それはゆるやかで僕自身を腐らせるには充分すぎるほどだった。

全ての人を愛したいと願った。
でも、全ての人を愛せるほど僕の心は強くなかった。
世界を平和にしたいと思った。
でも、僕は自分の食いぶち分の利益すら満足に出せなかった。
下の世代に良いものを残したいと思った。
でも、僕は尊敬されるような人格ではない。

自分自身への絶望は、妥協を積み重ねていく下地となり
なりたくない自分への階段を作り上げる。
それを何も気付かずに登って行くことに気がついた時には
下に下がる階段はどこにも無い。

万人救済論を唱えようが、愛を叫ぼうが
僕は心の底から人を幸せにしたいと思えない。
いつだって、自分自身がこの世で一番幸せになりたいんだよ。
神様にしか出来ないことに対して、知恵を使い人間にも出来ると叫び
絶望感に打ちひしがれながら、それでもハレルヤと叫べない。

この世の中の一切の不幸の廃絶を願いながら、
後進国を犠牲にした、先進国の暮らしの上でのうのうと生きている。
何よりも恥ずべき人間だ。

安全圏から戯言を吐き、保身のことばかり考えている。
それでも、怒ることがあれば怒り幸せを満喫しながら、不満ばかりを口にする。

こんな人生は真っ平御免のはずだったのに。
僕は、こんなにも甘美な堕落の道から抜け出そうとしない。
なぜ、こんなにも辛いんだろう。

本当は、もっともっと人のために働きたいのに。
なぜ、僕は自分自身のことしか考えられないのだろう。
なぜ、イエス様は自分を愛すように他人を愛すようにと言ったのだろう。
自分自身以外を愛せないはずなのに、自分自身以外を愛そうとする。
頭の中のパラドックスが笑っている。

いつだって、伝えたいんだよ。
君が好きだって。君が素晴らしい存在だって。
だけど、君を嫌いな気持ちが邪魔をする。
君を取り巻く環境を取り除く方に躍起になる。

なあ、どうやれば僕らは互いに想いを伝えられるんだろうな。
言葉じゃ表現できない想いは確かにあるんだよ。




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。









聖書だけではキリスト教を理解できない
クリスチャンにとって、聖書は絶対的な書物だと思う。
僕にとっても大切だ。特に絶対的というわけではないけれども。
思えば、聖書を根拠に軽い言葉を吐く人間はどういう人間なのだろう。
聖書の価値観を絶対と言いながら、その実自分の価値観を話しているだけに過ぎない
と思うときがよくあるんだよ。

例えば、婚前交渉を例にしてみてもそうだ。
婚前交渉を禁止するときに、申命記をよく利用する。
だけど、申命記は旧約だからその律法からは解放されているはずだ。
なぜなら、教会では申命記の律法の多くはまさに「旧約」として語られないから。
それなのに婚前交渉に関してはいつまでもその色を褪せずに語られる。

なぜ、そんなことが起きるかというと律法は決して無くならないからだと言う。
申命記には数多く書かれている他の律法に関してはどうなんですかと問えば、
それは歴史的な背景があるからだと答える。
その境目はと問えば、それは聖書をよく読めばわかると答えが返ってくる。

聖書を語る人の多くは、旧約の律法から僕らを解放し
時には旧約の立法で僕らを束縛する。
その匙加減で、福音派と呼ばれたり、バプテスト派と呼ばれたり、教団派と呼ばれたりする。
どの宗派も聖書を根拠としながら、別々のことを話す。

聖書をよく読めばわかるだなんて言葉は本当に誤魔化しの産物で
上からの目線に満ち溢れた、吐き気を催す言葉だよ。
まるで、自分が正しい聖書の読み方をしているかのような
絶対的な信仰を持っているかのような顔をする人がいる。
妄信を確信に変えただけに過ぎないちっぽけな自分の心を絶対化させるために
聖書を利用しているだけにしか見えないんだ。
聖書の言葉が一番大切だなんて言う奴らはね。

あれが違う、これが違うだなんて言っても正しい保障なんてものはない。
なぜなら、プロテスタントなら大抵が聖書を根拠に話しているからさ。
聖書というたった一つの書物から色々な解釈ができることを認めようとしないのは、
それを認めてしまったら絶対的な信仰が無くなるからさ。
自分が語ってきた絶対的な言葉が、実は「信仰していた言葉」に過ぎないことを認めるのが怖いんだよ。

そのくせ、いつだって聖書に立ち返ろうだなんて寝言を言うんだよ。
聖書だけではキリスト教を理解できるはずもない。
律法や行いを多く語る人間には理解出来ないだろうさ。
律法や行いでは、救われることがない。
それが僕らだから、イエス様が来たのだもの。

聖書に書いてある、聖書に書いてあると我が物顔で語るなよ。
僕らは、不完全な人間だ。律法すらまともに守れないんだ。
だから、きっと聖書を正しく読める人間なんて一人もいないんだよ。
もし、聖書を完全に理解出来る人間がいればイエス様はいらないよ。
それは、神様の言葉を完全に理解している人間だもの。

そんな僕らだから、イエス様が来たんだろう。
だから、十字架にかかったのだろう。
それでいいだけの話なのに僕らはなぜ余計な修飾をつけるのだろう。

まるで、不思議なのがキリスト教だよ。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。









別にこの世に勝ちたいわけじゃない
僕は成功神学が嫌いだ。
神様を信じることによって成長して人生がうまくいく。
そういった信仰生活を送りましょう、だなんて言葉に反吐が出る。
僕が最も忌み嫌う部類の信仰なんだよ。

じゃあ、なんだい。
人生がうまくいかなかったらそれは神様を信仰していなかったからかい。
それとも、信仰が足りなかったからかい。
ホームレスになった人は信仰が足りなかったからかい。
大病を患ったから祈ったけれども癒されなかったら不信仰かい。
事故に遭えば、間違いを犯したら、何もかもが不信仰の結果になるのかい。

いや、ならないさ。
辛いことはすべて神様の試練なのだもの。
人生がうまくいっているときはイスラエルを例に出し、
辛い時にはヨブ記を出す。
そうやって、どう足掻いても喜ばせようとするんだよ。

悦びに溢れる姿のみを追いかけて、陰で泣いている人間が見えない信仰なんていらない。
この世でクリスチャンの地位を上げるだとか、数千人規模の教会が出来るだとか
この世に勝利するだなんてことに対して夢中になっている様は単なる乱痴気騒ぎにしか見えないんだ。

ハレルヤ、ハレルヤと叫びながら自分の矮小な脳味噌で考えた限界の行いをすれば後は神様にお任せさ。
自分自身に対しての責任などこれっぽっちも持たずに、神様の赦しを存分に受けて好き勝手なことを喋る。
自分自身の吐く言葉がまるで絶対的に正しいかのような物言いで、この世の価値観を裁いていく。
裁いた結果、後に間違っていたとしても「神様を追い求める」と言えば、それが免罪符さ。
後は周りが勝手にハレルヤと叫んでくれる。

そして、言うんだ。
私たちは既に勝利しているってね。
ローマの八章を持ち出して、自分がこの世に勝利しているかのように言うんだ。
まるで、達成感や征服欲のために信仰しているようだよ。
一体、何に負けたくないっていうんだい。

別に勝ちたくなんかないんだよ。
この世に勝利することだなんてことに、これっぽっちも興味が無い。
優しくありたいんだよ、僕は優しくないから。

神様を隠れ蓑にしながら他人を踏みつけた上での幸せなら捨ててしまおう。
イエス様は、僕の記憶だと弱い人間の味方だった気がするんだよ。
嫌われていた人間の家に行くような人だった気がするんだ。

なあ、仕えようぜこの世に。
この世を少しでも良いものにするために、この世に仕えようぜ。
自分たちが多数派になろうとして、手段を選ばずに生きていればそれは
どこぞのクリスチャンが嫌うこの世と一緒だよ。

クリスチャンとはキリストに倣うものだと言うなら、一番惨めに生きながら幸せだと叫ぼう。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。









借り物の言葉
キリスト教は外国の宗教だ。
だからなのか知らないが、日本のキリスト教会はとても
外国のやり方に左右されやすいと思う。
僕が皮肉る意味で信仰が熱心だったっときにもそうだった。
チェンジングライフやらリバイバルやらレフトビハインドやら
そのほか諸々の横文字が溢れかえっていた。

最近では、メガチャーチとかいう言葉が流行っているようだ。
何のことは無い。
ただ単純に、大きい教会をたくさん作ろうということだ。
千人、二千人の教会をたくさん作れば日本のクリスチャン人口も
劇的に増えるはずだということだろう。

日本語に直すといやらしい。とても、とてもいやらしい。
まるで、数を増やすことが正義かのような物言いに対して
不快感を覚える人間もいるだろう。僕がそうだ。
それを英語に直すと格好良く聞こえるから不思議なものだ。
言語を変えるだけで印象が変わるというのは恐ろしい。

メガチャーチと叫ぶ教会では、教会員を出入り禁止にすることもあるらしい。
言い分は、自分勝手な価値観を振りまき人を傷つけるかららしい。
だから、出入り禁止にしても傷ついたとは思わないらしい。傷つけたのは向こうの方だもの。

なあ、そいつは教会かい。
君の教会の苦労を僕は知らないけれども、そいつは教会なのかい。
イエス様は、そんな人たちとも飯を食べていなかったけかな。
その人が出ていくことは、君の教会の敗北だと思うよ。

借り物の言葉を持ち出して、自分自身の行いを是とする様は醜い。
醜悪とさえ思うほどの行いは、言葉によってその印象を大きく変える。
子供を学校に行かせず、宗教団体である教会で教える。
社会的には虐待とさえ言えるほどの行いも、ホームスクーリングという
言葉でハレルヤと叫ばれる。

君が求めているものはなんなんだい。
救いか、愛か、それとも布教かい。
君の隣人は一体誰なんだい。
君の隣人の中に、教会を出て行った人はいなかったのかい。

なあ、なんだってパウロの大宣教命令ばかりを重視するんだ。
イエス様が与えた新しい教えはどこへ行ったんだい。
神様を愛して、自分を愛して、隣人を愛する。
なんだって、隣人をいつだって限定してしまうんだ。

だからだよ。キリスト教が日本で広まらないのは。
隣人を自分の好きな人だけにし、一か所に固まって
未信者を敗北者に分類しているから社会に受け入れられないんだ。

単一の価値観を持つことによって集団が暴走する様を僕らは歴史で見ているんだ。
だから、多様な価値観を持とうと教育を変え、知恵を絞っているんだ。
それを横から愚かだ、愚かだと言っているだけの集団が社会の多数派になるとでも思っているのだろうか。
思っているのだろうな。いつまでも風車に向かって戦っていればいいさ。

僕は、キリスト教が無くても幸せに暮らせる世界もありだと思うよ。
もちろん、そんな世界はあり得ないのだろうけれども。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。







放射能と同じくらい、無思慮な言葉が子供を殺す。
地震の爪痕が、ようやく瘡蓋になってきていると思う。
だけど、原発が未だに大変なことになっている。
情報が乱立している世界では、むしろ正しい情報が分からなくなる。
シーベルト、ミリシーベルト、マイクロシーベルトだの良く分からない単位が出てきて
結局のところ、危険すら危険じゃないのかと思ってしまう。
自分自身に被害が出ていないから、言葉は加速度的に軽くなる。

思えば、チェルノブイリの時も同じ現象が起きていた。
「妊娠中の被ばくは危険である」
そんな、言葉を軽く言っていた。まるで、心配しているかのような口ぶりで大々的に流布したんだよ。
結果、奇形児が生まれるのが確定的であるかのような物言いの中で多くの妊婦が中絶を行った。

歴史は進んだ結果、どうなったか。
劣化ウラン弾で、またもや奇形児発生説のリバイバルだよ。
放射能よりも、直接的に身体に害をなす重金属の被害を見ずに、
劣化ウラン弾が原因かどうかも分からない奇形児の写真を電子世界で見せびらかせた。

妊娠九週目以降の放射能による催奇性との関連性は見出されていない中で、
確実に奇形児や白血病になるかのように、不安を煽り立てた。
放射能による奇形は小頭症との関連性しか報告されていないにも関わらず、
ビタミンA不足による単眼症も全て含めて、放射能、放射能と叫んでいた。

そして、舞台は福島原発に移された。
相も変わらず、僕たちは一側面的な情報を流布することにより
無思慮な言葉を使って、泥沼に向けて背中から蹴り入れる様に当事者を不安に陥れた。
信用できない政府を利用して、確定的ではない不安材料をどれだけ確定的なものとしたのだろう。

この事態で、一体何人の妊娠した方が中絶を行ったのだろうな。
はっきりとしたデータは出るのかは分からない。
無思慮な言葉で、僕たちは何人の子供を殺したのかな。

きっと、原爆が落とされた広島と同じように福島でも結婚差別が起きるのだろう。
それは、きっと間違いがない事実だと思うよ。
どこもかしこも危険だ、危険だと叫ぶだけさ。
これを機に放射能のことを正しく勉強しようとすらしない。
笑えるだろう。
勉強しない僕らが子供たちに勉強しろと言い、無思慮な言葉で子供を殺していくんだ。

内部被ばくの問題もあり、確かに危険なことに変わりは無い。
だけども必要以上に危険性を叫ぶのは良くない。
それは、出さなくて良い犠牲者を出す。悲しみの民を増やすことに加担するのはやめよう。

信仰によって、毒を飲んでも平気だとか言う戯言を引き合いに出して
祈りによって、放射能をなんとかしようだとか言うのもやめよう。
僕らは祈る前に出来ることがあるはずだよ。
少しだけ専門的な知識を身につけるだけで、不要な強迫観念を払拭できるはずさ。
そうすれば、差別も少しは無くなるはずだと思うんだ。

危険なことに変わりは無いのは間違いないのだけれでも、
無思慮な言葉を僕らは気付かぬうちに話している。
それによって、死ぬ子供がいる。
それだけは、忘れてはいけないと思うんだ。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。








僕らは何にだってなれる。だから辛い、だから信仰できるのさ。
子供達には無限の可能性が待っている。
そして、僕たちにも無限の可能性が待っている。
僕なんてものは、まだ25歳で若い部類の人間だ。
だから、死ぬ気になって取り組めばきっと案外と叶うことの方が多いんだろう。

いつだってどこだって、可能性はそこにいて僕たちに手招きをしてる。
目の前に崖があろうとも、そんなことはお構いなしに希望達は呼びとめる。
崖の下には絶望がいて高笑いをしているけれども、前を見れば崖の向こうで希望も笑いかけている。

どこにいても何をしていても、今の僕とは違う自分の可能性が目に入るんだよ。
そうなんだよ。あるんだ、可能性は。
世界中の人間が心からイエス様を信じるような可能性もあるんだよ。
超天文学的に低い可能性ながらもあるんだ。
それと、同じように僕が世界を平和にする可能性があるんだよ。
超天文学的に低い可能性ながらもあるんだ。

その超天文学的な希望を胸に秘めて伝道するクリスチャン。
なのに、僕は何もしない。
到底起こりえないことを声高らかに叫ぶクリスチャンを嘲笑っているはずなのに、
僕は自分が世界を救えないことに絶望している。
向こうは、ほんのわずかな希望を信じて動いているのに、
僕は自分の欲望優先して半分も死んだ気にならずに日々を過ごしている。

偽善者は果たしてどっちだい。
僕かい?君かい?
きっとどちらも正解になる可能性は全てに含まれているんだ。

そうさ、僕らは何にだってなれるんだ。
だから、辛いんだよ。
まるで、何かになれと言われているようでさ。

死ぬ気になんて到底なれない僕は、果たして神様からの使命を全うしているのかな。
それとも、神様の意に反しているのかな。
誰か、そのままの君でも素敵だよって言っておくれ。
だけど、そんなことばかり言われたら何もやる気をなくすのはそれも真実で。
停滞に進もうが進歩に跨ろうが、行き着く先には絶望の奴も希望と一緒についてくる。

たとえ、どんなに何かを成し遂げようともきっと無力な気持ちは続くのだろう。
だけど、何かを成し遂げたいと思う心も確かにあるんだ。
人のためにただ一心不乱に働く自分の可能性も、
人を騙して金を奪う自分になる可能性も、
ただただ内包しているのはそれぞれの心と、そして神様なんだ。

まったく、こんな心があったんじゃ神様を信じたくなるよ。
意味も無くこんな心があったんじゃたまったものじゃない。
この心に意味があると思いたい。
それが、僕の信仰の礎だ。

こんな無知の自分の心すら愛の結果だと思いたい。
そうじゃなきゃ、僕らは無駄に辛すぎるよ。





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。






愛を語ろう

テレビをつければ悲劇的なニュースをやっている。
会社に行けば、経営を心配している。
キリスト教徒は、救いについて語っている。
理想論を言うのは、いつだって現場に関わらない人間ばかりだ。
現場は、理想論を放棄して現実論にも似た妥協案を語る。

神様の愛はどこにあるんだろう。
きっと、どこにでもいるんだろう。
僕らは愛されているのか。
きっと、愛されているのさ。
じゃなきゃ、僕らは存在すらしていない。

あの冷血とも思えるパウロですら、愛が無ければすべてが無意味だと語った。
僕らは、信仰ばかりを口にするけれども愛の有無を信仰ほど重要にしているかな。
ハレルヤ、感謝します、従います、伝道します。
愛します、とまず言おう。そうだ、思い出したよ。
キリスト教は愛の宗教だよ。

なぜ、今の今まで思い出せなかったのか。
それは、僕が愛せていなかったからだ。
周りの人間を愛せていなかったからさ。
僕の周りにいる人間を、僕に害をなす人間を屑だと決めつけていた。
存在する価値が無いとさえ、思っていた。
それでも否定しない僕は優しいと言われ、そして自分でもそう思っていた。
それは、間違いだった。
僕はまるで愛せていなかった。

誰かを批判する前に、キリスト教徒を批判する前に。
僕自身が何よりもクリスチャンでは無かった。
信仰さえあれば良いと思っていた。
愛をいつの間にか見失っていた。
知恵があれば、愛は見つかると思っていた。
まったくの愚者だった。

なぜ、愛せなかったのか。
愛せば辛くなるからだと気付いた。
愛する人間を増やせば増やすほど辛くなる。
愛する人間に対して、何も出来ない自分に対して絶望することが辛い。
それだけならまだしも、引導を渡さなきゃいけないこともある。

なぜ、皆が清くないんだろう。
なぜ、皆間違えるんだろう。
その結果、今ある幸せすら壊すようなことを自分自身が行い
なぜ、それを僕程度の人間が知り得るような底の浅い真似をするんだろう。

愛せば、辛くなる。
愛せば、茨の道を歩まなくてはならない。
他人のせいにすれば、驚くほど苦しみは少なく、悲しみも少なく
そして、僕自身に対して絶望しなくて良い。
愛しさえしなければ、自分自身を懐深いものとすることが出来るのに。

なぜ、僕は愛せないんだろう。
なぜ、他人のために涙を流せないんだろう。
なぜ、僕は何も出来ないんだろう。
なぜ、こんなにも心が辛くないんだろう。
なぜ、僕はこんなにも汚い。

愛したいと思う気持ちよりも、自己保身を優先する僕の心は一体何様なのだろう。
神様、再臨の時が近いと言うなら早くしてくれ。
少しでも早く、この世を愛で満たしてくれ。






にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。

















交わらない世界
昔、僕の教会の伝道師がこんなことを言っていたらしい。
「会議で一致することは良くない。一人でも意見が違っていたらそれは素晴らしい」
まったく、キリスト教会で言うような言葉じゃないはずなのに、妙に感動してしまう。
一致を求めてしまう心に、はっと目が覚めるような一言だと思った。

一致しましょうと心から叫ぶ声がキリスト教会ではよく聞かれる。
だけれども、君が言う一致が何か分からないから一致なんて出来やしないよ。
例えば、キリスト教会全員が、聖書は神様の言葉で一字一句間違いなんて言って
伝道に燃えるようになったら一致なのかな。
福音派が求めるトランスフォーメーションやリバイバルなんてものはきっと、
そんなようなものだと思う。

でも、そんな出来事はきっと起こらないと思うんだ。
人間がその技術を持って、狭くした世界を頑なに見ないようにしているだけだと思うんだ。
交わっているかどうか分からない世界なんていくらでもあるんだよ。
僕と君の世界のようにあるんだよ。
誰の世界も、誰とも交わっているかどうかなんてものはきっと分からないんだよ。

なあ、リバイバルの集会や若者の賛美集会に数百人集まっただなんて言うけれども
数百人なんてものは案外少ないんだよ。
札幌のどこかの区の一部のそのまた丁目程度のものなんだ。
それを根拠にリバイバルやトランスフォーメーションだかの前兆だなんて言っても、
説得力はこれっぽっちも無いんだ。
世界は今日も平常通りに、誰かが誰かを蹴落とそうとしているよ。
何の変わりも無く。

なぜ、こんなことを言うのかと問われれば認めて欲しいとしか言えないんだろう。
違う世界もあるんだと。
君にとってはキリスト教が唯一正しい世界なのかもしれない。
そして、それはひょっとしたら正しいのかもしれない。
だけど、それが真実じゃない世界なんてものはそれこそ皆の心の中に腐るほどあって、
その世界からキリスト教が言う言葉を聞くと、時折反吐が出そうになるくらいだよ。

そして、それはキリスト教徒の世界でもおんなじなんだよ。
同じような信仰と思っているかもしれないが、それは人によって姿を変え、
僕のようにはっきりと福音派と違う人間もいる。
それは、間違っていたり駄目だったりするのかな。

自分が心の中に持っている真実を、無証明に他人にも正しいとする信仰は正しいのかい。
君の言う一致とやらは、その程度のものなのかい。
違うということは、一致していないということなのかい。
クリスチャンじゃなきゃ、一致なんてものはしていないというのかい。

僕は、もう一致しているような気がするんだ。
違っていても一致していると思うんだよ。
もちろん、そんなものの根拠はどこにもなくて、僕の願望さ。
イエス様がもたらした救いなんてものは、きっともう誰の胸にも泉のように流れていて。
まだ、死んでいない僕らがぐだぐだと喋っているだけなのかと思うのさ。

それなら、素晴らしくないかい。
こんなにも違う君と僕が一致しているんだよ。
それは、僕にとっては唯一の希望なんだ。
あまりにも違いすぎる君と僕が本当は一致している。
そんなことがなければ、悲しすぎて生きてはいけないよ。

分からないことだらけさ。
世界は狭くなったと言うけれども、心の距離はどんどん離れていく。
自分自身が哲学的ゾンビなのかもと思うよ。
脳のニューロンだけの存在なのかとも思うよ。
知識を仕入れても、社会を経験しても、希望なんてものは少なくなっていく。

だけど、消えてはくれないんだ。







にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。

















どこにいても愛なんざ見つかるさ
この世の中は汚い。
はっきり言ってしまえば、この世の中は汚い。
つまり、それは恐らくクリスチャンが言っていることに間違いは無いだろう。
ただ、誤解して欲しくないのは汚いだけじゃないってことだ。

綺麗なものもある。
完璧ではない中に宿る優しさや誇り高さ、義が確かにそこにある。
足りない経験、足りない知恵、足りない魂。
そんなものがありありと見える中でも堂々と語られる拙い愛や正義が
僕には、根本的なものに思えて仕方がないのさ。

だけど、汚い。
そいつは間違いないんだ。
色々な欲望が渦巻いているよ。
自己顕示欲や自己達成感や、誇りやなんやらが入り混じって反吐みたいなものになる。
狭い世界で、狂乱騒ぎをしている馬鹿も数多くいるものだ。
そんな世界で蔑まれている人間は確かにいて、そしてそれすらに気づかない阿呆ばかりさ。

いや、ひょっとしたら気付いているのかもしれない。
だけども、日本人だからか否定も出来ずにただただグループダイナミックスのままに
反吐が出そうなことを平気で喋るのかもしれない。
女性の人権や、身体障害者、精神障害者や健常者でも自分が気に入らない奴は排除する。
そんな側面も確かにあるんだよ、社会には。

まあ、僕からしたらキリスト教会も同じようなものだ。
クリスチャンという特権を持った者しか愛してくれないような世界があるんだよ。
人を殺してもクリスチャンになれば素晴らしい人と褒め称えられる一方で、
現役のクリスチャンが婚前交渉を行えば教会に来ないでくれと言う。
この世の汚い側面と何が変わるって言うんだい。
自分の都合の良い人間、自分達の都合の良い人間にだけ許される世界なんざ
見え方が異なるだけで、本質的には同じなんだよ。

だから、みんな同じことを言って教会を離れていくんだよ。
結局、教会もこの世と変わらないって言うんだよ。
そんな状況で、なにが日々主によって成長していきますだ。
笑わせるな、クソが。

主の恵み、主の恵みと自分たちを奮い立たせるために叫んでも
結局のところ、僕たちは自分を愛するように他人を愛せているのかい。
愛せているのかい。
そんなことは僕に判断なんざ下せないけど、個人的にはクリスチャンが言うようには
出来ていないよ。なんたって、肝心なところは神様に逃げるのだから。
聖書のお墨付きだから、仕方が無いのだけれども。

だからと言って、クリスチャンを全否定なんざ出来やしない。
不完全な信仰、不完全な知識、中途半端な関係。
そんなものの中にありながら、理想論のような愛が確かにあるときはあるんだよ。

だから、どこに行こうと何をしようと愛を見ようと思えば見れるのさ。
クリスチャンが自分たちだけの特権だと思っている愛なんざそこら中にあるんだ。
僕には、そいつがとても素晴らしくて仕方がないと思う。
そんな希望が無ければ、とても生きてはいけやしない。

どこのどいつにも、愛が溢れてそして汚い。
そんな、社会でどうやって生きていく。
少なくとも、下の世代に絶望はされたくない。
だから、理不尽なことには屈したくない。

悲しみや悔しさに溢れているから、喜び溢れてハレルヤとは叫べないけれども。
それでも、信仰なんざ続いていくんだ。
ひどくくだらないと思える自分自身に絶望して
その程度の価値の自分を最大限に活用していこう。

愛なんざ、どこにでもあるんだ。
絶望ばかりじゃなきゃ、生きていける。








にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。

















麻痺していく感受性
世の中にはいろいろなことがたくさんある。
色々な人がたくさんいる。
僕は、高校生ぐらいの頃まではこの世の中にはサタンの罠とやらがたくさんあって
そして、それらには触れちゃいけないものだと思っていた。
それは案外正しいものなのかもしれないと僕は最近思った

クリスチャンが蔑むこの世の中に、確かに愛はあると言ってはみたものの
愛以外の様々な汚いものもたくさんあるわけで
愛を見つけようとしたときには、その汚い泥の中につま先から頭の先まで浸かっているなんてことは
よくある話なんだろう。

不思議なことに自分の体が泥に塗れてしまえば、もう自分がそれ以上汚くなるなんてことは感じなくなる。
そして、心が麻痺して頭が麻痺して、そのうち何にも感動しなくなっていく。
そんな、自分がいるということに最近思ってきた。
君と話すことすらどうでもよく思えて、世界平和などを叫ぶ前に自分自身を救って欲しい
だなんて、以前の僕なら自分に刃を向けるようなことも平気で思っている。

満たされていないんだろうな、と思う。
自分自身に対して幸せを感じずに、周りの人間を妬み嫉み、
自分自身の能力が社会では通用しないことに対しての絶望感や虚無感が
心を麻痺させて誰もが持っているはずの大切な優しさや憐み深さを削りとっていく。

いくら、世界が平和になったところで自分よりも上の人間がいれば結局は妬み嫉み、
争いごとを起こし、謀略を尽くして自分自身に対するすこしばかりのちっぽけな
虚栄心を満たすために、人を傷つけるのだろう。
それが、人間というものだ。
と、自分自身に問いかける日々が続く。

だけど、蓄えておいた知識がその問いに邪魔をする。
いやいや、待ってくれよ。
人類は知識を積み重ねてきただろうと。
今ある問題の何個かは教育によって何とか出来る問題も数多くあるだろうと言う。
麻痺している心を、知識によって無理やり動かす。
そんな日々を送る僕はまるでロボットのように動いているのかな。
心を動かしても、魂の慟哭なんてものは起きるわけもなく。
ただ、苦しい。

自分自身が生きる意味など問いかける暇もなく、
ただ、その日をどれだけ楽しく生きることができるか
そして、これからの日々をどれだけ充実させることが出来るのか。
そんなことに、頭を使い始めた。

平和のために活動をしている人間を嘲笑うことすらせずに無関心になり、
街ゆく高級車を憧れの眼差しで見つめる。
嗚呼、これが普通の感覚なのかと新鮮な驚きも無いままに自分自身の変化を
ゆるやかにゆるやかに受け入れていく。

こうなったら、きっと苦しいだろうと思っていた自分になった自分は
実際のところ何も苦しくなく、ただ麻痺していく自分を無関心に見つめる
自分が出来上がるだけだった。

大切だと思っていた事柄や、大切だと思っていた人たちは
どんどん大切じゃなくなっていく。
離れてしまえば、関心を失ってしまう残酷な自分の心にすら
絶望を覚えずに、ただただ日々が流れていき、次の給料日までの
金の使い方を計算する毎日がそこにある。

ちくしょう、世界を変えろよ。
そんな世界を変えてしまえよ。
そんなことなんでもないと笑えるような世界を、なんでもないと笑える関係を
僕は、僕はなぜ作れない。

僕は、なぜ作れない。







にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。














許されたい、赦されたい
クリスチャン。
この言葉が持つ意味は何だろうな。
キリスト馬鹿とはよく言ったもので、確かに馬鹿みたいな奴は多い。
キリストに狂うとはよく言うが、確かに狂ったように信じる人間も多い。
それが、是か非かなんてことは問うつもりはない。
ただ、思ったことを口にしただけだ。

こんな言葉を吐く僕でさえクリスチャンを自称している。
だけど、僕はイエスさまのようには決して生きることが出来ない。
主の祈りを祈るたびに、僕はいつも違和感を感じていた。
なんで、僕たちに罪を犯すものを僕たちが赦すように僕らの罪もゆるしてくれ
だなんて、言えるんだろう。
僕には不思議だったんだ。

違うんだよ。
赦すなんてことは、案外は出来るもので
そんなに、そんなに大した問題じゃないんだ。
生まれたときから、そんな価値観で育ってきたんだ。
ノンクリスチャンでも赦すことが出来る人間がたくさんいるんだ。
そんなことは大した問題じゃないんだよ。

僕は、特に僕はそうさ。
人の悪行を目ざとく見つけては、それを気にしないふりをしてまるでそれを赦したかのような振る舞いをするのさ。
自分自身がまるで、とても心の広い人であるかのような錯覚に浸りながら悦に入る。
そうしていると、案外尊敬が集まったり、優しいだの言われるようになる。
嗚呼、自分に栄光を返した結果なのかな。
自分自身に対しての絶望の振幅も、それこそ絶望的に確定的になってしまう。

僕自身が人を傷つけたとき、僕はどうすればいいんだろう。
僕自身が人の心を侮辱したとき、僕はどうすればいんだろう。
そうだよ、僕は許されたいんだ、赦されたいんだよ。
でも、赦されない人がいるのは現実だから神様の赦しが欲しくなる。

神様の赦しは絶対的で自分自身がこの世に存在していてもいいと思えるのだけれども
だけど、赦されない人がいる現実は僕の目の前で高笑いをしている。
嘲笑されるような気分にさせる現実という名の怪物たちに立ち向かい続けるほど僕の心は鋼ではなく
また、サイコパスにもなりきれない。
僕が悪意を持って、誰かを傷つけたのならば笑うことも出来るのだろう。
だけど、大切な人を傷つけてしまったときの心の柵はどこにも出口を作らない。

だから、この世の現実を見ないように赦される場である教会ばかりに傾倒していく気持ちはわかるんだ。
ああ、クリスチャンがこの世が全員クリスチャンになればこの世は平和になるって言う気持ちは痛いほど分かるよ。
だけど、ご飯を食べるためには違う共同体に身を置かなければならない。

それすらも拒否して教会という共同体のみで生活することを僕は責めることは出来ないのだろう。
でも、一つだけ忘れてはいけないことがあるんだ。
それは、教会にすらもどうしても赦すことが出来ない人間はごろごろいるんだよ。
首を絞めてやりたくなるような人間なんざ腐るほどいてさ。
信仰を持てば成功するだなんて言っているようなアメリカの牧師を障害者に変えてやろうかと思うほどだよ。

だから、人間のいる場には赦されない環境が必ずあって
それでも、僕たちは神様に赦されていて
それでも、赦されない現実もそこにいる。

胸が痛くて、苦しいよ。
許されたいし、赦されたいよ。
赦したいし、赦されたいよ。

もっと、違う人間だったら別な人生を送れたのかな。
スヌーピーのように「配られたカードで戦うしかないのさ」とはなかなか言えない。







にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。














やさしくない肯定や共感
これは、キリスト教に限らずにきっと日本のどこにでも起こっていることだと思うんだ。
自分が属するコミュニティの意志や意見に対して無批判に肯定や共感をすること。
それは、あまりにも溢れている。
それは、コミュニティだけに留まらずに個人にも溢れだしていく。
悲しいほどに、それこそ泉の如く溢れ出て、底なし沼のように身動きが取れなくなっていく。

クリスチャンのコミュニティには、とてもそれは顕著でなんでそんなことが起こるのかと、
考えていると涙を流したくなるような気持ちになる。
影響力を持つ人間の価値観がある日、突然でも少しずつでも変わっていったとしたら。
以前、発言していた価値観と整合性が取れなくなっていったとしたら。
それでも、神様のためにという結びを入れるだけで、ほら不思議。
無批判にハレルヤと肯定し、共感する人間が後を絶たなくなる。

たとえ、自分で以前の自分を否定したとしても、神様の教えの下に誰かが肯定をする。
ハレルヤと叫ぶ。今まで通り一緒に頑張ろうと言う。責任は神様が負ってくださる。
神様のことを常に考えているあなたは素晴らしい!
そんな、曖昧な言葉を重ねて僕らは自身の否定を疎かにしては、いつの間にか神様の下に特権階級を作りたがる。

いや、そんな高尚なものじゃないのかもしれない。
ただ、単純に嫌われたくないだけなのかもしれない。
信仰的じゃないと見られたくないのかもしれない。
否定や裁きは、クリスチャンが最も忌み嫌うものの一つであると僕は思っている。

「じゃあ、お前が今まで言ってきたことは何だったんだよ」

そんなことを言おうものなら、もしかしたら関係がぎくしゃくしてしまうかもしれない。
その人とぎくしゃくしたら、もしかしたらこのコミュニティからも外されてしまうかもしれない。
そんな不安を取り去るための都合の良い言葉である「裁くな」を持ち出して、その通りに行動して
心の平安を得て、コミュニティに属する自分自身を守ろうとする。
ひょっとしたら、そんな程度のことかもしれない。

でもだよ、もしそうだとしたらだ。
僕らは、果たしてイエスさまの愛とやらを実践出来ているのかい。
ありのままの自分を受け入れてくださる神様がそこにいるはずなのに、
いつの間にか仲間たちに肯定せざるを得ない環境を作っていたらだよ。
僕らは果たして、その人たちの心を救えているのかい。

この世で疲れきり、重荷を背負いながら教会に来ている人たちの重りを神様が外しても
僕たちが、新しい枷を付けたら何の意味もない。
なあ、悲しくないかい。結局、教会でもこの世と何も変わらないんだと絶望されたら。

切なくないかい。批判も否定もされないのは。
誰もが僕のように、教会に唾を吐けるわけじゃないんだよ。
聖書にある否定をされ、聖書通りに生きていると評価されている人間の否定は許されない。
だって、聖書通りなのだもの。そんな人を否定出来るわけがないと思うかもしれない。

だけど、否定されたい夜もあるだろう。
人間ってのはそんなものじゃないのかな。
否定されることは辛いけど、傲慢になって人の悲しみを
見ることが出来なくなることの方が苦しいとは思わないのかい。

だけど、誰もが無意識にそうやっている。
嫌われないために、優しくない肯定や共感を繰り返している。
僕も繰り返しているし、君も繰り返している。
間違いなく、多かれ少なかれ誰でもやっている。
そんな自分を恥じてみても、恥じない人間は溢れかえっている。
怒りがこみ上げると同時に、空しさや哀しさも溢れかえる。

切ない。
自分を愛するように他人を愛するっていうことはなんて難しいんだろう。
絶望的なぐらいに、自分しか愛せない。
ひょっとしたら、自分もろくに愛せていないのかもしれない。
だから、他人に対して優しくない肯定や共感を繰り返すのかもしれない。

なあ、クリスチャン。
君が本当に聖書が真実で、君が聖書通りに行動していくことによってこの世が変わるのだとしたら。
早いとこそんな世の中にしてくれ。
僕には、この世界は難しすぎるんだ。






にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。












優しさを偽るな、優しさは必ず君の中にあるから
利己的な人間は嫌いじゃない。
というよりも、人間全体が結局のところ利己的だなんてことは
誰もが経験則で身につけている暗黙の了解だと思う。
だけど、僕が嫌いなのは利他的に見せかける人間のことだ。
こう言えば、頭に思い浮かべるのが偽善を気取るどこぞの太った社長の顔でも思い出そうとするが
あんなものは可愛いものだ。
誰もが、見ても分かるような人間を隠れ蓑にする人たちもいる。
そして、クリスチャンの中にもいるんだよ、自分がまるで綺麗な心を持っているかのように振舞う人間が。

例えば、周りに困難な状況にあった人間がいたとする。
癌になった子供なんていうのは分かりやすい例だ。
その子の困難を試練と置き換え、神に祈る姿を見せつけ、懸命に看病する周りの人間の信仰を素晴らしいと褒め称える。
反吐が出そうなぐらい、偽善的な行為にしか見えない。
悲しみを偽った喜びで周りに見せないようにして、自身の信仰深さや優しさを表そうとする。
そんな人間が僕は嫌いだ。

そして、熱狂的な祈りなんてのも嫌いだ。
ブログに神様だとか何だとか言う人間も嫌いだ。
聖書には、祈るときは家でひっそりと祈れと書いてあるのに。
なぜ、その聖書の箇所には忠実に従わずに簡単にハレルヤと叫べるのだろう。
意味がわからない。

何だって、みんな立派な人間に見られたいんだろう。
利己的な人間に見られたくないからさ。
何か一つ良いことをしても、立派な人間じゃないと下心があるのかと邪推されるのが嫌なのさ。
自分自身に自信を持って、誰かに何かれ言われたくないから自信を立脚していくのさ。

利己的な自分を偽ろうとして、優しさすら偽っていく。
本当に行いたい優しさすら、信仰で覆いかぶせて本来の姿とは遠いものしていく。
偽るなよ、優しさを。
優しさなんてものは誰の中にでもあって当たり前のものだろう。
利己的な自分も誰の中にでもあって当たり前のものだろう。

なあ、立派な信仰的な人間じゃなきゃ教会にいることが出来なくしたのは誰だい。
教会に行きながら、目に見える罪を犯す人間を白い目で見るようにしたのは誰だい。
風俗嬢が風俗嬢のまま信仰生活を行えなくしたのは一体誰だい。
殺人者が熱心な信仰者にならなきゃ教会にいれなくしたのは誰だい。
教会から、言論の自由を奪ったのは誰だ。

信仰という名の、暗黙の了解で人をがんじがらめに縛りあげて、聖書に書いてあるような
杓子定規な優しさしか行えなくしている教会なんてものはきっとごまんとあるさ。

優しさを偽るな、偽らせるな。
そんなものは誰の中にもあるんだよ。
それが目に見えてなくてもあるんだよ。
だから、信仰的なフィルターなんかでそいつを覆いかぶせるな。

君は、きっと君が思っているよりずっと自由なはずなんだ。






にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

ランキングに参加しています。ランキングを上げたくない方は、クリックしないでいいです。









上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。