君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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枯れる。
そういえば、自分の年来を四捨五入したら三十路になるようになっていた。
切れないと思っていた息は、階段で切れるようになった。
すぐ落ちると思っていた脂肪がへばり付くようになった。
すぐ治ると思っていた怪我が長引くようになった。

溢れ出ると思っていた言葉たちを、捻る出すようになった。
尽きることが無いと思っていた純粋な怒りは、燻るようになった。
自分の本質から来るものだと思っていた優しさは、どうやらそうでもないようだった。

僕の中で枯れていくものたちを切に感じる。
体力も知力も才能も、成長率やそういったものが確実に落ちた。
僕程度の年で、そんなことを言っていたら怒られるのかもしれないけれど、実際に感じる。
僕には、もう世界平和が夢だなんてことを堂々と語れない。

自分の限界を知り、能力を知り、それなのにどこからか仕入れてきた知識で祈りすらも拒否する。
クリスチャンとしては、どうなのかと思う毎日を送りながら僕は生きている。
そんな日々に幸せを感じて、品行方正なクリスチャンでいるときよりは自由を感じている。
その代わりに、品行方正なクリスチャンだったときよりは充足感は無い。

個々人の中にある心のフィルターさえ取っ払ってしまえば、みんながみんなの話を聞くようになる。
そんな風に思っていた時期が僕にもあったのだけれども、心のフィルターは自分の心を必要以上に
傷つけないためにあるものだと気付いた時から、不可能だと思うようになってしまった。

人は人の話を聞けない。自分自身を傷つけることが嫌いだからだ。
僕は君の話を聞けない。自分自身を傷つけることが嫌いだからだ。
君は僕の話を聞けない。自分自身を傷つけることが嫌いだからだ。

だから、僕らは表面上の話をする。
そして、信用が出来たら少しずつ心のフィルターの目を広げていく。
だけど、心のフィルターが無くなるなんてことはあり得なくて
結局のところ、人と人は分かり合うなんてことは原理的に不可能なことを思い知った。
だから、僕はもう世界平和が夢だなんてことを堂々と語れなくなった。

だから、必死で語る。
世界平和が夢だってことを必死で語る。
皆、分かり会うべきだと必死で語る。
不可能を可能にする方法を考えるべきだと言う。

三十路の時にはなんて言っているんだろう。
僕は成長しているのか、枯れているのか。
神様は僕をどう扱うのか。
さあ、楽しみだ。





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聖人などいやしない
僕の尊敬するクリスチャンはマザー・テレサだ。
生涯、インドのために働きそして死んだ。
世界平和にするためには、どうすればいいのかと問われたときに、
「家に帰って、家族を大切にしてください」と答えられる人間がいるものなのかと思った。

死後、聖人認定を受けただのどうだかの話があったりするけれども、
そんなものはマザー・テレサは望んでいたのかな。
キリストではなく、自分に栄光が向けられるのを果たして良しとしたのか。
気になるところだが、僕はやはりマザー・テレサ自体を褒め称えたい。
それが、クリスチャンとしては失格だとしても。

ホスピスを開設した時に、死ぬときの宗教をキリスト教に統一せず
死を迎える人の宗教で看取るその有様に、世界はようやく愛を見たのかな。
僕たちは、キリストに盲目になるあまりに人を見ようとしない。
それなのに、マザー・テレサは人を見た。

そんな、マザー・テレサはどんな人だったのだろう。
教会で昔、何人かが喋っていた。
「きっと、神様のことが大好きで仕方が無かったんだろうね」
「うん、きっとそうだね」
そんな、言葉が聞こえてきた。
僕は違うと思ったが、口には出さなかった。もしかしたら、本当にそうなのかもしれないけれども。
ただ、神様のことが好きでたまらなくて活動をしていて欲しくなかったのが正直なところだ。

一説によれば、マザー・テレサの日記には神様を呪う言葉が書いてあったと言う。
ああ、もしそれが本当だとしたらなんて素晴らしいんだろう。
神様を呪う気持ちを持ち、具体的な言葉にし、それでも尚信徒として生き続けた。

自分を捨てて神様に仕えるという、鼻で笑うような荒唐無稽なことをまさに実践し続けたんじゃないか。
そんな人を見ているはずなのに、僕たちはよく自分を捨てて神様に仕えなさいなどと無責任に言う。
捨てる自分すらない僕らは、絶望すら出来ずに中途半端なロジックで自分を捨てたように見せかける。
声高らかに証をする人は、誰もマザー・テレサにはなろうとはしない。
とても、人間らしいんだけどね。

本当にマザー・テレサが神様を呪う言葉を吐いたとすれば、きっと聖人なんてものはいやしない。
いや、いなくていいんだと思うんだ。誰も聖人にはなれないのだから。
だから、イエス様が来てくれたのだと思うから。
だけど、だからこそ僕はマザー・テレサが見せた人間の素晴らしさに心を震わされるんだ。
聖人にはなれない人間だからこそ成し得た、人間に与えられた愛がそこにあると思うんだ。

僕はマザー・テレサにはなれない。
じゃあ、僕はどう愛そう。
僕の中にある愛はどんなものなのだろう。
続いていく人生の中で、僕は何ができるのか。
そんなことを考えながら、今日も無防備で社会に出る。
さあ、明日も頑張ろう。




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証のために、喜ばなくてもいい。喜び溢れることは別に証でもなんでもないんだから。
タイトル通りの日記を書きたくなった。
僕は色々とクリスチャンのブログを読んだりをするのだけれども、これがまた面白い。
キリスト教カテゴリのはずなのに、たまに統一教会のブログが混じっていたりする。
ブログの内容を読んでみて、びっくりしたよ。
対象が神様か、統一教会の教祖かの違いなだけで、口調からハレルヤの仕方までが
どこぞの福音派教会のブログの人間と同じだった。
思考回路も同じで、要は自分の宗教を広めようとするのが、最大の生きる意味だということだった。

どこの宗教でも変わりやしないんだな、と改めて確認が出来た。
僕らはキリスト教を特別な存在にしようと、躍起になるが実際のところそんなことに成功はしていない。
数の多さを盾にして、他の宗教を否定するのが関の山な僕らは一体、どれだけ神様に近づけたのかな。
聖書というクリスチャンにしか使えない、絶対的な剣を振り回す様はドンキ・ホーテと変わらない。

そんなことには、薄々感づいているからこそ僕らは喜びを武器に証をしようとする。
クリスチャンになってから、こんなに喜びに満ち溢れました。
私が笑っているのは、イエス様のお陰です。
イエス様を信じればすべてがうまくいきます。
だから、クリスチャンになりましょう。

まあ、間違ってはいないのかもしれない。
伝道の理由が喜びを伝えたいだなんてことは、とても良いことなのだろうし。
でも、実際のところ本気でそんなことを思っている奴らは少ないと思うよ。

証をするために、喜びを作りだそうとする人間の方が多い気がするのさ。
無理やりな理屈で、自分の身の回りの些細なことを神様のおかげと称して、証をする。
滑稽にも映るその光景に対して、ハレルヤと無批判に賛辞を贈るクリスチャンたち。
この世と何が変わるんだい、そいつは。
一時の、心の平安を手に入れる効用は確かにあるのかもしれないが、それがコミュニティの満足を
消化させる以外に何の意味があるんだい。

証をするために、喜ばなくてもいいんだよ。
どうせ、喜びは証になんかならないんだから。
だから、悪い証になるからと悲しみを隠さなくてもいいんだよ。
どうせ、悲しみは証になんかならないんだから。

ぐだぐだと書くのは、クリスチャンらしく見られたいだとか言うそれこそキリスト教の教えと
真っ向から反抗する気持ちを意識的か無意識的かに行おうするその様が嫌いだからだよ。
自分自身を偽るのが疲れて、クリスチャンになった奴も少なくないだろう。
なのに、今度はクリスチャンという顔をかぶろうとする。
そんな、僕らの何が変わったって言うんだい、クリスチャンになって。

そんな変わらない僕らすら救っているから、イエス様は素晴らしいんじゃないかな。
僕は、そんな気がするよ。






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嘲られる死
生きることは素晴らしい
生きることに価値がある
命ほど大切なものはなくて、それは地球よりも重い
そんなことを、今もきっとどこかで誰かが謳っている
借り物の価値観と、疑わない純真な心で誰かが謳っている

なのに、死を避けようとする
死を恐ろしい、まるで悪魔がもたらす不吉なプレゼントかのように扱う
クリスチャンには来世への希望のチケットかもしれないけれども
実際のところ、残された人間には悲しいものだ

死とはなんだい
僕にはとてもとても価値があるものだと思うんだよ
死が無ければ、生も無い
一生涯かけて受け入れるものなのか、そこにただあるだけで祝福されるべきものなのか
生きるということがなぜこんなにも素晴らしいのか分からないと同じように
きっと、死もなぜそこにあるだけで素晴らしいものか分からないものだと思うんだ

だからこそ、死を嘲るようなことはしたくない
クリスチャンの世界ではよく自殺を取り上げて色々言う

「自殺は自分を殺すことです
 神様から与えられた命を自分が好き勝手に殺す
 つまりは殺人と一緒です」

「自殺は、罪です
 たとえ、どんな悲しい事情があってもそれは変わりません
 だから、「だから」私たちは伝道してキリストの教えを広めなくてはいけないのです
 人々の心を救うために、これ以上悲しいを死を増やさないために」

嗚呼、五月蠅い
黙れよ、黙れ
そんなことを言いたくなる言葉も数多く聞いてきた
自殺は罪だから、良くないことだからやめましょう

いや、分かってはいるんだよ
自殺ってのは悲しい出来事だよ
残された人間にとっちゃ悲しい出来事だよ
大切な人が自分から死を選ぶだなんて、そんな悲しいことは無くて
その悲劇を生みださないために、そういったことを言うのは分かるんだ

だけど、どんな死にも尊厳があるはずだろう
どんな死だって、祝福されているはずだろう
自殺は罪ですなんて言葉は生きている人間に向けられている言葉だけれども
その言葉は同時に自殺をした人間の死を嘲っていやしないかい
自殺までしたのに、その死を罪だと裁く権利が一体生きている人間の誰にあるって言うんだい

僕は自殺が罪かどうかなんてことは分からない
そんなものは、死んだ後に神様にでも聞けばいい話だ
大切なことは違うだろう、その死を貶めることが神様の御心なのかい
少なくとも、生きてる僕らが「自殺は罪です」なんてことは言えやしないはずさ

なあ、イエス様が十字架を受け入れたのは自殺じゃないのかい
生きることも選択出来たけど、あえて十字架を受け入れたから価値があるんだろう
その死を選ぶことは、罪じゃないのかい

堂々と語りたいよ、自殺は罪なんかじゃないって
でも、それを語るだけの知識も心も僕には無い
悔しいな
死を嘲る人間を嘲ることが出来ないのが悔しい






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毒されてしまえ
最近、とんと文章を書けなくなっていた
僕の中にある泉がとうとう枯れ果ててしまって、空っぽになってしまったのかと思っていたら
意外にも僕の中には、まだ吐きだしたい言葉があるようで
相も変わらずのつらつらした駄文をまた書いている

毒されていた毎日だった
生まれたときからキリスト教さ、友達というよりは仲間や家族だとかいう言葉の方がしっくりする関係が先で
僕は友達なんてものは、大学に入ってから初めて感じたよ
キリストに毒された後は大学の独特の雰囲気に毒されて、女に毒されて凹み、そして凹みを受け入れ
なんやかんやと社会へと出たんだ

そして、社会に出ればキリスト教徒が言う信仰の勝利なんてものはどこにもなくて
むしろサタンの誘惑とやらの方が腐るほどあって
それでも、その中には人間の英知や魂の素晴らしさなんてものもそれこそ腐るほどあって

なあ、僕には何が正しいかなんざまるで決めることができないんだよ
腐るほどの価値観の中を泳いでいるのに
僕らは一億二千万人とすら喋ることすらできない
右翼だ左翼だ、宗教家か無宗教か、キリスト教だのイスラム教だの仏教だの神道だの
一億二千万の価値観を、どれだけ大雑把に出来るかに心血を注ぎこんで、自身の能力の限界すら見極めずに

嗚呼、僕らは一体何と喋っているんだろう

僕は君と喋っているのかい、それともキリスト者と喋っているのかい
僕は君と喋っているのかい、それともイスラムと喋っているのかい
僕は君と喋っているのかい、それとも仏陀と喋っているのかい
僕は君と喋っているのかい、それともどこぞで聞いた本の著者の価値観と喋っているのかい

なあ、僕はどうやったら君と喋れると思う

捨てる自我すら確立出来ていない僕のこの心は一体何者なんだろう
僕には全てを知ることができない君のその心は一体何者なんだろう
愛することとは、一体どういうことを言うのだろう
幸せとはなんなんだろう
僕らは一体、どこに向かえばいいんだろう

そんなことを相も変わらず、愛も分からず過ごす日々には飽き飽きだ
そろそろ凝り固まった価値観でも欲しいところだけど、そんなものには反吐が出る
ちくしょう、永遠の中学生だ
怒りすら湧いてくるよ
何だって、みんな自分自身のためにしか生きることができないんだろう
何だって、僕は自分自身のためにしか生きることができないんだろう
一軒家に住みたくて、格好良い車に乗りたくて、モテたくて、お洒落な服を着たくて
誰からも尊敬されたいなんて欲望が何もかも邪魔をする

知恵の実は何だって、中途半端な知恵しか与えないんだろう
僕には、そいつが不思議でならないよ





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