君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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僕は悪党だ
なあ、君は自分のことを悪党だと思うかい
僕は思うんだ、ひどく思うんだよ
僕は、ひどく悪党で侮蔑に値する人間だと思うんだ

僕は、これまで実際のところ殺人や強盗や放火
盗みや引ったくりや、喧嘩に恐喝、恫喝、万引き
のそのどれにも手を出したことが無いんだよ
だけど、悪党であるかどうかなんて実際のところ
そんなことを起こしたかどうかなんて本当は関係ないんだよ

上に挙げた殺人や強盗や放火に盗みに引ったくりに、喧嘩
、恐喝、恫喝、万引きを行いたいと思う心は確かにここにあって
僕の心の中にそれらに対する憧れは確実に確実に住みついているんだ
遺伝子の問題なんだろうね、それはもう
僕が格闘技やっていた時に、試合で相手の骨を折ったことがあったよ
その時に、僕にはまるで罪悪感が無くて、自分が相手に勝ったという
自己満足の気持で一杯だったよ

だけど、今ですらそのことに対してなんら罪悪感は無いし
そして、あの出来事は試合という形をとっている以上ひどく
誇り高いものであるとすら、思うんだ

そして、社会に出たら世界平和だなんて戯言は
どこか胸の内にそっと秘めておいて、昔よくテレビの中で見た
悪しきサラリーマンと同じように、売り上げ売上と呟いているのさ
この世の中は不況だから仕方ない、サラリーマンとはそういうものだと
自分自身を、それこそいとも容易く説得して僕は昔なりなくはなかった
大人に着々となろうしている

だけど、そんな僕でも涙するんだよ
人の優しさに涙してしまうんだ
人の善意に舌を出して笑い飛ばすことだって、別にどうということは
無いはずなのに、失われている相手への情だとか何だとかが
いつのまにか僕の心の中で踊り出すのさ

僕は、いつだって中途半端で悪党にも善人にもなりきれやしないよ
僕はどうやらわがままらしくて、自分の性格の弱さも強さも優しさも
冷酷さも、悪も善も全て捨てたくは無いんだ
どれか一つでも矯正してしまえば、僕はきっとより人の気持ちが分からなくなる
だから、僕はきっと一生悪党の僕と付き合っていくんだと思うんだ

だけど、僕の心の中の愛もきっと本物さ
そうやって、過ごしていくのが少しだけ心地良い
なあ、クリスチャン
自分の中にある悪を否定して生きていくのは、正しいのか間違っているのか
そいつを、僕は君と一晩中話したいよ
























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躓いている人間なんていやしないんだよ
キリスト教徒は、躓くという言葉をよく使う
躓くという事に対して、非常に敏感になりそして
見えないように問題を個人の持っている素質や素養や
心や、そして信仰のせいにして、時として人に牙を剥く

なあ、思うんだ
躓くことがそんなにも悪いことなのかい

たとえば、クリスチャンになった筈なのに
結婚前にセックスをしてしまったなんて話は
とても、よく聞くことで有触れた話さ
たとえば、病気になったから祈ったにも関わらず
神様がそれに対して何の返答もしてくれないのに
他の人の病気が癒された話をよく聞くなんていうのも
これまた、教会内では有触れた話だよ

祈っているのに応えてくれない
現状がよくならない
付き合っていく内に、信徒がひどく性格の悪い人間に
見えてしまって、だけど他の皆からは信頼されていて
自分がひどく不信仰な人間に思えてしまう

伝道で熱心な人に比べて自分がまるで何もしていないかの
ように思えてしまう
牧師の人間性やメッセージが、気に入らなくなる
ゲイである自分が変えられない、ビアンである自分が変えられない
相も変わらずアルコールに逃げてしまっている
家族が救われないのは、自分の信仰が足りないからだ

「だから、結局キリスト教なんて何の役にも立たない」

そんな、結論を出すのは少しだけ待っておくれ
なあ、はっきり言ってしまうと君は何にも躓いてなんかいやしないんだよ
セックスしようが、癒されまいが、性格が悪かろうが
ゲイだろうが、ビアンだろうが、不信仰だろうが
そんなことは、神様が君に与えてくれた救いになんら影響を及ぼさないんだよ

だって、そうじゃないか
僕らは何かしたから、救われたのかい
違うだろう、僕らは何回も聞いているはずさ
ただ、神様の無償の愛によって僕らは救われているんだ
だから、今更僕らが足掻いたところで、神様の愛は変わらないんだ
それほどまでに大きなものだと僕は思うんだよ

だけど、そんな話をしたら必ず言われることがあるんだよ
じゃあ、結婚前にセックスをしてもいいのか
癒されなくてもいいのか、ゲイでいいのか、ビアンでいいのか
伝道しなくていいのか、この汚い世の中に埋没していいのかと

ああ、いいさ
その程度の反論の材料ならいくらでもあるさ
そんなことは声高らかには言えないけれどもいくらでもあるんだ
だけど、僕はあえて声高らかには言わないよ
それぞれの事情に対して、それぞれの想いがあって、そしてそれぞれの信仰
があるんだもの

だからこそ、僕らは考えなくてはならないんだ
十把一絡げに、あれが駄目だとかこれが駄目だとかは
言えないんだ、絶対に
答えなんざ皆違うんだ
想いなんざ皆違うんだ

だから、ただその人の幸せを考えて
教会内の風紀の乱れを気にするのをぐっと抑えて
僕らは、その躓いてしまっただなんて誤解している人のことを考えて
ただ、その人の幸せのために祈り、話を聞くことに専念して
そして、神様に委ねることも時には必要だと思うんだ

僕らはとうに救われているんだ
天国への道が約束されているんだ
だから、僕たちは何にも躓いてなんかいないんだ






















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つまらない決意
伝えたいことなんてものは、実際のところ
ほんのちっぽけなもので、僕らの心にわずかな
さざ波を一瞬だけ起こす程度のものなのさ
だけど、そんなちっぽけなものでさえ、心の中の
銀河を爆発させるのさ

例えば、恋焦がれている時でさえも目の前の仕事が
僕らにあったとしたら、僕らはその恋を忘れて
目の前の仕事に夢中になってしまう

そして、消えていく希望や夢の狭間を僕らは現実と名付けて
夢や希望を叶わない理想と決めつけて、他の人の夢や希望を
ただただと否定していく悲しい存在なのかもしれない

そう、僕らの世代はもうそんなものから変えようがないというのを
僕らは薄々と気づいていて、そしてそんな世代の世界に埋没して
居心地の良い空間を求めて、仕事やコミュニティやグループや
宗教や友人や恋人や結婚や、そういったものに自分時自身を
帰属させようとするのさ

だけど、そんな中にある大切なものの素晴らしさすら僕らは
十二分に分かっていて、そして次世代を担う希望を見るたびに
僕は、この世界を変えたいと思うのさ

素晴らしいものがとても、多くてでもそれでいても悲しい現実も
数多くあるこの世界が僕はとても好きなのだけれども
次世代にも、僕らと同じような悲しみや不幸を背負わせたいとは思わないのさ

だからこそ、何かかしらの良いものをせめて残したいと想いながら日々を生きるのさ
なあ、君もそうだろうさ
僕らは皆、子孫を残そうとする本能を持っている
だけれども、この世の中には子孫を残せない人間だっている
僕だって、子孫を残せるかどうかなんてわからない
だからこそ、僕らは世界を残そう
次世代に良い世界を残そう
幸福な未来を夢見るぐらいの世界は、僕らは次世代に残せるように頑張ろうぜ

その決意だけは、もう迷いたくないと思う






















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パウロはキリストじゃない
よく勘違いしてしまうことの一つに
僕らはパウロの言葉とイエス様の言葉を混同して
しまうことが多々ある

パウロの言葉の数多くが、それは僕らにとって
まるで有益であるかのように見せかけ、その実のところ
ただ単に、当時の一教会に当てられた言葉であることもあるんだ

特に、パウロは男女の違いについて明確な差をつけようとしたんだと
僕は思うんだ
だけど、今の世界にはゲイもビアンも溢れている
トランスセクシャルの人たちの前で、男女の違いを堂々と
話せる牧師がいたとしたら、そいつは単なるクソ野郎だ

なあ、イエスさまは答えたじゃないか弟子が結婚するかしないかの質問に
こうやって、答えたじゃないか
「「生まれつきのタマなしもいれば、わざわざタマなしにしてもらうようなヤツもいる。
そして、天の国のためのタマなしもいるのさ」って

なあ、全ては神さまの思し召しなんだよ
僕らはなんだって、正しい道だとか癒しだとかにこだわるんだい
よっぽど、いやらしいよ

自分の誇りが欲しかったり、ご利益が欲しがるのがキリスト教かい
僕は、それは少しばかり違うと思うんだよ
そう、癒しの話が出るたびに祈っただけじゃ癌が治らなかった親父を
思い出すよ
君の癒しの経験は一体何から来るのかさっぱりと分からないけど、
その癒しの経験がまるで信仰から来る見たいな言い草はやめてくれないかな
癒されないと信仰が無いだなんてそんな馬鹿な話があるものかい

イエスさまは生まれつき、目の見えない人がいたときなんて言ったんだい
弟子たちが「本人のせい? 両親のせい?」だなんて頓珍漢なことを戒めたじゃないか
神さまの栄光が現れるためだろう
そいつは、イエス様は奇跡を起こすから言ったのかい
僕は、そんなものは信じたくないね
皆、栄光を表していると思うのさ
生きている人間、それだけで神さまの栄光を表していると思うのさ
それだけじゃ、不服かい
超自然的な現象や、確信や誇りや癒しや聖霊や威厳や異言が欲しいのかい

パウロの言葉は所詮はパウロの言葉だ
神さまの言葉じゃない
僕は、聖書を懐疑的に読むことになんら抵抗は無いんだよ
むしろ、聖書を懐疑的に読まないことの方が神さまに対する
冒涜でさえ思っているんだ

なあ、君はどう思う
僕は、そいつを知りたいんだ





















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いつのまにか、僕らは世界を裁く
聖書の言葉を利用する人間が僕は嫌いだ
単純に嫌いだ
思えば、情報化が進んだこの世の中であるからこそなのか、
僕らはひどく聖書に対して無知なのかもしれない

カトリックの時代には、免罪符を販売したけれども
プロテスタントは聖書をうまくうまく使って
自分の主義主張をまるで、それが
聖書に保障された絶対的なものなかのように振舞っている

経済から家族まで、聖書がまるでマニュアルかのような
振る舞いを見せる牧師を見るたびに僕は吐き気と
侮蔑の笑みとなんとも言えない憤りが浮かぶんだ

聖書に書かれていることを絶対だと保障する保障は
君の心の中にある、信仰という名のちっぽけな
それもひどくちっぽけな薄っぺらい、個人の体験という
これまで人類がが積み上げてきた歴史や知識や
そして、なにより知恵と比較することすらおこがましいもの
でしかないはずなのに、何だって君はそれが全てに通用する
絶対的な真理かのように振舞うんだい

だけど、それを否定するための聖書の知識や、聖書の歴史や
そして、君に訴えかけるような魂の慟哭も僕は持っていない

だけれども、聖書の中にある千年単位も前の生活様式を
現代に持ち出して、現代が間違っているだの、家庭が壊れているだの
そんなことを言い出して、聖書の通りに生きさせて
これまで積み上げてきた歴史を全部捨てさろうとするのかが
僕にはまったく持って理解できないのさ

良くなっているんだぜ、現代は
少年の犯罪率は下がり続ける一方で、マナーやらんモラルが無い老人が
増えていると言われる世の中で
君は何だって、この世界が壊れかけているだなんて
それこそ、聖書の時代から言われ続けていることを
未だに何の工夫もせずに言い続けるんだい

努力してきたんだよ、世界は
この世界の貧困を無くそうと、不幸を無くそうと
そして、誰もが幸せな世界を作ろうと
努力をしてきたんだ
愛してきたんだ、世界をさ

そのために勉強して動いて捧げてきた人たちが
いたんだよ、数多く
その人たちの願いが全て叶っているはずはないのだけれども
その実りは少しずつ少しずつ、僕らの生活にそれこそ
注意しないと分からないほどに当たり前に愛を捧げてくれているんだ

それなのに、相も変わらず、愛も変わらず、
未だに世界が壊れ続けているだなんて言うことは
それは、きっとその人たちの努力は未だに何の実りも
もたらしていないって言っているのさ

僕はこの世界がひどく好きだよ
君の目には汚れているかもしれないし、ひどく壊れているのかも
しれないけれども、僕はこの世界がひどく好きだよ
だから、あまり聖書で裁かないでおくれ


















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世界平和くらい簡単に作ろう
忘れかける志を、いつだって僕は現実に引きもどそうと努めている
世界平和だだとかいう、とても個人の力では成し遂げることが出来なく
それでいて集団でも、集団になった瞬間に実現出来ないような
そんな、志をいつだって心の中に持っていたいと思っている
この愚かな心がなんだって、僕の魂にあるのかと問いかけたい

世界平和を望むことを笑う人は、きっと幸せか不幸せなのか
そのどちらなのかとは思うけれども、そんな幸や不幸かが
人生というか君にとって、どれほどの意味を持つのかが
僕にはわからないけれども
そう、思うんだ
僕たちが言う、幸せやら不幸やらは一体なんなんだい

僕が幸せだと思えば、それがきっと君が見たどんな不幸な
事象であろうとそれは、ひどく幸せで
僕が不幸だと思えば、それがきっと君が見たどんな幸せな
事象であろうとそれは、ひどく不幸で
それは、僕が見た君にも当てはまって
だから、僕らはついついと呟いてしまうんだ
「幸せや不幸なんて結局のところその人次第だよ」って

でもだよ
選択の機会は必ず誰にも平等で与えられて
キリストの福音は誰にも生きているうちに知る権利があって
そして、飢えず、凍えず、理不尽な暴力を受けない権利も
きっと誰にも平等にあって当たり前のはずなんだよ

そして、その権利が与えられている僕らは
それが、与えられていない人達を見て薄っぺらい
ひどく薄っぺらい憐みを心の中に飼うのさ
でも、そんな薄っぺらい憐みなんかは
受けて当たり前の権利に付随する義務をこなす毎日に
埋没して僕たちを世界平和からまた一歩遠ざけるのさ

自分に出来ることをすれば良いとはよく聞く話だけれども
僕の限界を決める神さまは僕に何をしろとは言ってはくれない
そして、僕は実際に動く人間を見ては、偽善だと間違っているだと
ひどく知識が足りない馬鹿ものだと決めつけて、分裂を招こうとする

そんなことが正しいわけがないと知りながらも、それでも
僕は声を大きくして、君が言う正義は時として人をひどく侮蔑
するのだとまた言うのさ

そう、僕はひどく弱い人間を盾にして強い君を否定したいだけ
なのかもしれない
そして、君は実は素晴らしい人間であるのかもしれないのに
そんなことは無いよと、僕は言い
その口でまた誰もが素晴らしいと、語り始めるのさ

ああ、パラドックス
誰もを否定したくないはずななのに、そうだ、否定したくないのに
何か一つの否定を打ち破ろうとすれば、僕は君を否定してしまう
誰もが、尊重される世界なんてものを望むのがそもそもの間違い
なのかもしれないけれども、そんなものは誰もがあれば良いな
と思うと思うんだ
だから、そいつを作ろうぜ

ああ、僕は君を否定するさ
だから、僕も否定しな
そっから初めてお互いを否定して
そして、お互いを尊重しよう
なあ、世界平和くらい簡単に作ろうぜ

















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