君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
プロフィール

一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



FC2カウンター



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


ただ一つの死
人は生まれながらに平等であると思う
それは、人は生まれながらに死ぬからということを僕らは知っているから
人は、死んだ後は自分のために何一つ残せない
善行も、悪行もすべてはこの世に残っていく
だからこそ、人は生まれながらに平等だと思う

僕等クリスチャンは死後の世界を知っていると思っているからすぐに忘れがちになってしまう
僕等クリスチャンといえど、その信仰が正しかったとしても
死んだ後には、ただ神様の御手の中の存在なんだぜ
この世の中では、特に無力
いや、平等なんだ

そのことを忘れて憐れみだとか、伝道だとか言っても説得力が無いんだぜ
平等ということを忘れていやしないか
知らず知らずのうちに、自分達が正しいだとかの使命感に酔ってはいないか
僕等は、僕だ
単なる僕だ

僕等は、自分が最も低い人物だと思うくらいに低くならなきゃいけないんだろう?
だったら、なんだってクリスチャンの世界がベストだなんていうんだい
この世の人の人生だって素晴らしいじゃないか
平等にすべてが素晴らしいじゃないか

特権意識なんざドブに捨ててしまえ
僕は自分をくだらないと思っているよ
それこそが誇りだもの
おかげで全部の人が素晴らしく見えるぜ!
自分を素晴らしいと思えないのが難点だけどね

この世は平等だよ
誰かそれをイスラエルに教えてやってくれ




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン



http://novel.fc2.com/novel.php?mode=tc&nid=14901
過去の小説をこっちにアップしました。
スポンサーサイト

ただ、なんのためになんのために
人と話すこと
他人と話すこと
知人と話すこと
友人と話すこと
恋人と話すこと
家族と話すこと

そのどれもが、その瞬間のどれもがすべて奇跡の上になりたっていることを僕は知っている
振り返った過去のすべての瞬間に、僕の過去と違うものがあれば
今は決して今とはならなかった

僕等クリスチャンが陥りやすいのはこのことを忘れること
目に見える奇跡に踊らされ、何気ない奇跡を見逃す
僕らは世界の一部になっているという奇跡を忘れてはいないだろうか
この世に存在しているということは、それだけで神の御業になっているということを忘れてはいないだろうか

癒されたのも奇跡だろう
リバイバルも起きたのも奇跡だろう
主が特別に働いてくれたのも奇跡だろう
だけど、忘れないでおくれ

今君がここにいること、そして僕がここにいること
それ自体が奇跡のなせる業で
そして、君と話せること自体が幾重にも捨てられた未来を押しのけた現在であることを

そいつだけは忘れないでおくれ




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン



http://novel.fc2.com/novel.php?mode=tc&nid=14901
過去の小説をこっちにアップしました。

オバマ大統領が何をした?
オバマがアメリカ合衆国大統領になった
とても素晴らしいことだと思う
正に、自由の国の体現
そして、また一つ平等へと近づいた歴史ある一歩だと心から感じる

しかし、その感動も僕の中ではアメリカ市民に向けられるものであり
オバマ大統領個人に向けられるものではないと思うんだ
アメリカ合衆国の総意がオバマ大統領であって
オバマ大統領はまだ、特に何もなしとげていないだろ?

所信演説でアメリカの国民が涙するのは理解できる
だけど、なんだって僕達日本人までそのブームに乗っからないといけないんだ?
すべては、これからのはずだろう?
これからも、ヒーローになりそうな人間が現れたらただその人を賛美するだけかい?

情報社会に生きるものとして、隣人の国には冷静な目でありたい
もし、隣人が不安な道に行こうとしていたら、話し合うのが役目だろうさ
サブプライムのことは、もう忘れたのかい?
皆が同じ方向しか見ていなかったから起きたんだろう、あれは

オバマ大統領が良いか悪いかは、せめて日本人は冷静な目で見ていよう
そいつが、同盟国の国民としての責任ってやつだろうさ









にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン








疑って信じて見なくなる、それは信仰かい
僕は信じるということについて、考えを巡らせている
信じるということはどういうことなのか
神を信じるとは何を言うのか

今、僕が僕だけに通用する考えはこうだ
「信じるということは、不確かなものを自分自身で選び取ること」
それを確かなものだと感じた時点で、僕はそれを信仰とは呼ばなくなる

例えば、現在の世界の成り立ち
物理学の世界では、この世界がどうやって出来ているかを証明できない
クオークが集まって出来ている?
そんな単純なものじゃない
この世にどのような力が働いて、「なぜ」それが起きるのかすら分かっていない
つまるところ、科学も信仰の世界であり、一概に信じるものじゃない

だけど、だからといって聖書が唯一の真実だとなぜ言える?
そう、「なぜ」言える?
個人的な霊的な経験からかい
悪いがそれなら、マホメッドや仏陀もしているはずだよ
そう、他宗教の人でも霊的な体験話は腐るほど出てくる
それが、偽者か本物かを君はどうやって証明するんだい
自分の感覚以外で、何か僕に証明できるのかい

霊的な話をたくさん聞いて、キリスト教が真実だと思い込めば満足かい
悪いが、僕にはコミュニティに浸って外の世界を見ないようにしているだけにしか見えないときもあるよ
他宗教の霊的な話を聞いて、「サタン」と軽々しく言えるときは特にね
君がサタンじゃないと誰が僕に証明してくれるんだい
君が拠り所とする聖書だって、福音書のイエスの言葉の多くにおいて弟子の加筆が常識なんだぜ
キリスト教の歴史家の間ではね

聖書が真実
この一言がどんなに重くて、また残酷か君には分かるかい
聖書以外の価値観に触れることも許さず
自分達と同じ価値観を強制しようとする様すら時には垣間見えるんだ

癒された、異言を話した、預言をする
ああ、素晴らしいことかもしれないよ
君にとっては、それが絶対的な真実なのだろうね
だけれでも、僕には真実かどうかなんてとても分からないよ
君はそれを信じるのではなく、当たり前のものとしてしまった

証明の術が見つからない僕等のはずなのに
なんだって、僕等はいつだって断定してしまうのだろう
ただ、信じることしか出来ない無力なものなのに

弱さゆえか、それとも強さゆえか
何かを否定するところから、すべての道は閉ざされる
解決の糸口すら見えない
悲しい世界だ

言葉を紡ぐことにすら、僕等は不器用なのだと実感するよ







にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン








神様にまる投げ
神様が自分にとって最良の道を用意してくれる
よく聞く言葉だ
その信仰はその信仰で素晴らしいと思うよ
それは、嘘じゃない

だけど、それを逃げ道に使っている人もいるだろう
自分が何かしたい
何か出来ることがあった
神様がそれを用意してくれた
だから、自分はそれに打ち込む
後のことは神様がなんとかしてくれるさ
僕は、自分の責任を果たしているもの

それは本当に神様に任せているのかい?
自分が責任を負いたくないから逃げている人もいるんじゃないのかい
僕はその人のそんな弱さを責めたいわけじゃない
僕が批判したいのは、そんな弱さを信仰という強さで覆い隠すことだ

弱さは僕等にとって強さだろ
僕だって弱いところや、駄目なところがたくさんあるよ
だからこそ、僕は人に対して深く考えようとするんだ
出来るかどうかは知らない
だけど、それが僕の行動原理になるんだよ

なのに、なんだって自分の弱さを隠すために過剰に信仰を強調するんだい
君はそのままでも充分素晴らしいはずだろう

信仰ですべてを計るような教会が間違っているのかもしれない
それに、その中で自由に自分の信仰を表現できないのかもしれない
だけど、それでも僕は君に自由に解放されて幸せでいて欲しいんだよ

そのやり方も力も無い僕の言葉なんざぺらぺらかもしれないけど
頼むから、信仰で自分の弱さを隠さないでおくれ
そいつは僕等にとって誇りだろ?






にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン





本物も、偽者も、完全も、不完全も
何のために生きているのか
その答えは、分からない
神様のために生きれば、納得するのだろうか
でも、僕は納得できない

神様のために生きるってどういうことだ
神様が殺せ言えば、僕は殺すのか?
昔言っていたことが今も言われないって保障はどこにあるんだい

いや、そもそもなんで神様のために生きなきゃならないんだい?
創造してもらったから、当たり前だというかもしれない
だけど、その理屈がなんでそうなるのかは教えてくれない
コンピューターが自我を持ったら人間に従わなきゃいけないのかい?

不完全なものが完全を目指す意味はなんだい?
その疑問に答えておくれ
そうじゃなければ、キリスト教徒だらけの世界なんてありえないよ
この世に僕みたいに屁理屈を言う人間は多いんだ





にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン





正義とやらに、反吐が出る
クリスチャンブログも巡ってみると色々なものがある
それこそ、尊敬で出来るブログから共感を覚えるブログ
反感を覚えるブログや、怒りを覚えるブログなど様々だ
僕の気持ちが反感程度ならそれでいい
そんなのは意見に違いだ
だけど、怒りを覚える意見主張ってのは絶対にある

それは、自分の意見を完全に是とすること
そしてあまつさえ、他の人の意見を勉強不足やら信仰不足だか知らないが間違っているとすること
嗚呼、そいつらに不完全性定理から2重スリット実験までとくとくと説明してやりたい
僕が一番嫌いなのは、自分が何かの権力を借りて絶対の意見だとすることだ

自分自身たまに、この世の知識を使って断定的に話すことがある
そんな自分にも、信仰やら何やらで絶対的になっている他人にも反吐が出る
なんだって、もっと他の人間の意見を聞けないのだろう
なぜ、自分が正しいといつも思ってしまうのだろう
そうしないと自分の生き方が否定されるから?
そんな人生の指針なんざドブに捨ててしまえ

ああ、思い出した
イスラエルのガザ空爆
クリスチャンの中の何人がイスラエルの祝福のために祈った?
僕の教会では、イスラエルの祝福のために祈っていたぜ
その答えがこれだ
自分達を絶対的に是とした時の結果がこれだ

そんなものが、神様かい
それを肯定するのはキリスト教かい?
堂々とイスラエルを否定してみろよ、あの神に祝福されている民族を!

とりあえず、聖書の権威を笠に着て自分達を絶対的な正義だとするのをやめてみようぜ
マザー・テレサはそんなことはしなかった
イエス様だったらどういうのかな

君と僕の違いはきっと違うのだろうな
ああ、悲しい世界だ
反吐が出る






にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン




仕方ない 諦める 受け入れる
文体をもとに戻します
めんどくさくなりました


クリスチャンにとって、受け入れるとはどういうことだろうか
クリスチャンがクリスチャンを受け入れるのはすんなりといく
だけど、クリスチャンがノンクリスチャンを容易に受け入れられるかというとそうでもない
それは、なぜだろう

僕は思うんだ
受け入れるとは、諦めることではないと
その人の有様を考える、そしてその人はそうでいいと思う
だけど、その人をそのままでいいと思うのにも二種類があると思っている
一つは、仕方が無いと思い、諦める
もう一つは、その人の人生は素晴らしいと受け入れる
この二種類

僕は、クリスチャンはノンクリスチャンに対して前者を選びやすいと思うんだ
ノンクリスチャンの生き方を是としてしまっては、自分の生き方が危ぶまれる
だから、ノンクリスチャンを是としない
受け入れない
そして、諦める

だけど、そんなことは無いと思うんだ
ノンクリスチャンが神様を信じていないとどうして分かる?
僕等は他人の心のうちなんて何も分からないんだぜ
そう、何も分からないんだ
なのに、人の有様を僕等が決めて神様の有様を無視する
そいつは一体どういうことだい
僕には納得が出来ないよ

たとえ、ノンクリスチャンとその人が自分を決めても僕はそれでいいさ
なぜなら、その人の世界にも必ず神様の愛ってやつは流れているから
クリスチャンだけにしか流れない神様の愛は本物じゃないよ

だから、僕は受け入れたい
すべての人を受け入れたい
そんなことは到底不可能だとは思うけれども
そういう言葉を吐いていかないと世界はこれっぽっちも変わりやしないんだ
僕の世界じゃ全員天国行きだよ
君の世界は違うのかい?

悪魔だ天使だ霊的だ導きだ何だの言う前に
この世界をもう一度見ておくれ
未だに戦争が絶えないこの世界で生きている人の心の内を想像してくれ
絶望だけかい?
愛があるというのなら
全部神様に繋がっているんだよ

受け入れよう
それがどんな人であっても
たとえ、ノンクリスチャンであっても
そいつが今のところの僕の望みだ




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン



クリスチャンとして
クリスチャンとして生きる
僕は自分の人生をその決意のもと生きています
だけど、クリスチャンとして生きるとはどういうことなのだろう
そのことを考えてみたいと思います

オーソドックスの答えとしては、聖書に倣って生きるということでしょう
しかし、安易にその答えに僕は賛成できない立場です
なぜなら、聖書はその解釈次第でいかようにもなる危険性もはらんでいるからです
いや、聖書というよりも人間の内にそういう危険性があると言った方が正しいでしょう

そもそも、クリスチャンとはイエス・キリストに倣うものです
しかし、ガンジーはこう言っています
「キリストは好きだがクリスチャンは好きじゃない キリストのようではないから」
この言葉を考えた時に、僕等はクリスチャンとは何かをもう一度問い直すべきだと思うのです

新約聖書の中で、パウロがキリストに倣うとはどういうことかをつぶさに書いています
しかし、それは本当にキリストに倣う姿勢なのでしょうか?
パウロの主観、その時代の歴史の主観が入っていると僕は考えています

愛と救いを説いたイエス・キリスト
しかし、パウロのクリスチャン像は救いの方面に特化していると思うのです
無ければ信仰すら無意味だと言われる愛がおざなりになってはいないでしょうか

人を愛す、人を憐れむ
それは一体どういうことなのでしょうか
ノンクリスチャンを見て、救われていないから可哀想だと思うのは果たして愛でしょうか、憐れみでしょうか
僕の答えは否だと思います

なぜ、その人がノンクリスチャンなのか
そもそも僕等が考える救いとは果たしてその人にとって本当に救いなのか
自分達のエゴは無いのか
隣人であるその人に対して何が最善の道なのか
伝道なのか、友情を結ぶことなのか
それとも、その人の生き方を深く理解し、自分自身を変えていくことなのか

そこまで考えて初めて、愛の入り口に立つのかもしれないな、と僕は思うことがあります
それと同時に知的な障害によりそこまで考えれない人を見たときに、その存在だけを見て愛の塊だな、と思うこともあります

つまるところ、僕等は何も知らないということです
であるから、謙虚にならなきゃいけない
僕は、そう思います
それこそがまずキリストに倣うものとしての第一歩なのな、と最近は思います

あえて、その道を自ら踏み外す時もあるんですけどね
飄々と生きたいものです



にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

なぜ、救いを軽々しく言えるのか
今まで、散々愛について語ってきました
しかし、僕はこれまであまり「救い」に関しては語っていませんでした
僕自身は、「救い」というのはあればラッキー程度のものでなくても大して困らないものだったんです
だけど、今回はあえて「救い」について書きたいと思います

そもそも僕は救われている、救われていないと分けるのが嫌いです
クリスチャンは救われている
ノンクリスチャンは救われていない
そういう意識がそもそも間違っている
僕はそう思っています

信じれば「救われる」キリスト教
しかし、なぜ他人を見てこの人は信じていると断定できるのでしょうか
口で言っていても嘘かもしれない
ノンクリスチャンが信じていないといっても本当は信じているかもしれない
もしくは、信じているつもりでも実は全然別な理由で信じているかもしれない

そんな状況です、今の社会は
それなのに、クリスチャン、ノンクリスチャンかによって容易に救われている、いないを分ける
これは、おかしいです

行いに表れると反論するかもしれません
しかし、人の心はすべて行いに表れるでしょうか
思いとは裏腹な行動をしてしまうことも多々あります
それなのに、行いで判断できますか?

聖書にも書かれている通り、救いとは恵です
その決定権を握っているのはすべて神様であり
僕等が何かそこに出来ることはありません
救いとは、人間と神様の一対一の関係の中にあるのです

ですから、救われている救われていないとぐだぐだ言うのはやめた方がいいと思います
愛について、いくら語っても救いが出てきたとたん利己的な面が顔を覗かせます
救いは素晴らしいものです
しかし、それが第一になってしまい、僕等の信仰がそこだけにいってしまったら
僕等はクリスチャンと言えるのでしょうか

今日、イスラエルとパレスチナが争い、アメリカが戦争を起こす世界に
クリスチャンとは何かとまた一つ問いかけていきたいと思います




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

何のために愛するのか
キリスト教とは、どんな宗教ですか?
という問いにクリスチャンはなんと答えるでしょうか
「イエス・キリストを信じることにより救われる宗教だよ」
と、答えるでしょうか
それとも
「隣人を愛する宗教だよ」
と、答えるでしょうか

あなたは、一言で表すとしたらどちらを選びますか?

僕は、後者を選びます
救われる、それはとても偉大な恵です
しかし、その恵を受け取るために僕等は愛するのでしょうか
僕等の行動原理はすべて「救い」によって動いているのでしょうか?
救われたいから、神様を愛す
救われたから、他の人を愛す
確かに、それも愛でしょう
そのような形も僕はありだと思います

しかし、愛したいから救われる
隣人を愛したいから、神様を信じたい
そういう視点も確かにあると思うのです
神様を切に求める心の根底に愛があるのだと僕は思っています

救われがたいためにのみ、愛と信仰を置くのでは結局利己的なとこにいってしまいがちだと思うのです
そのような視点から、ノンクリスチャンを「救われていない人」と軽視することも含まれると思います
何ゆえに、救いにこだわるのでしょう
キリスト教は愛の宗教のはずですよね

救われたから、私達は成長するのですか?
救われないと人間として不完全なのですか?
神様を知らないと、優しさが足りない?
神様を知らないと、人生が用意されていない?
神様を知らないと愛が無い?

そんなはずはありません
神様の愛は太陽のようにさんさんと降り注いでいます
誰もが皆、神様の愛によって生きているのです

救われたことは、存分に喜びましょう
しかし、救われることを第一とは出来ません
それは、神様の手の中のものですから
僕達が救われた、救われていないと言う事は出来ません

人を愛することに努めましょう



にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

オカルト
最近ではキリスト教のオカルト化が激しいと思います
「最近」です
なぜ、最近ではキリスト教のオカルトが激しいのでしょうか
その要因として、以前まではオカルトがオカルトではない時代があったということです

例えば、医療
聖書の時代、キリスト教に限らず病気は悪霊が起こすものだとされていました
しかし、実際はウイルス、最近等が原因だということが分かりました
それなのに、未だに悪霊が原因
もっというならば、「霊」が原因だと言うのは、正しいでしょうか

心についても同様です
聖書の時代、脳が心と関わっているということは知られていません
また、脳内物質、外的要因によって心もその有様を変化させることもまた知られていません
しかし、心の問題に至っては、キリスト教の中では容易に「霊」を引き合いに出します
霊的な成長=心の成長
といったようにするのはオカルトです
現代医学への反逆だと言って差し支えないでしょう

そもそも、霊とはなんでしょうか
現在の四次元の世界における物質とは別の何かでしょうか?
それが、物質的な世界に影響を与えることはありません
あるとしたら、それは現象として物質世界に現れます
ですから、霊的な成長=心の成長とはなりません
心は物質世界の支配の中のものです

それなのに、スピリチュアル、悪霊の追い出しなど騒ぐのはナンセンスと言えるでしょう
理由は先に挙げたとおりに科学的に考えてあり得ないからです
それを、また「真理」などと騒ぐのはむしろ神様に対して失礼と言えます
しかし、それを信仰する分にはかまいません
科学も言ってしまえば信仰であるので、自分は違うものを信じるのは個人の自由です
しかし、それを「真理」と言ってしまえばそれは寛容を無くした独善的な態度でしょう
そこまで言ってしまうものを僕はオカルトと呼びます

今、世界がどう創られているのかが解明されてきています
それは神様の創造の業を知ることにも繋がります
しかし、その結果を「聖書とは違う」とはねのけること
それは、神様の創造の業をもはねのけるむしろ背信的な行為と僕は思います

簡単に言えば、もっと勉強しようということです




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン




あけましておめでとうございます
年末にインフルエンザという不運をもらいましたが、年明けの瞬間にはほとんど治っていました
また、新しい一年を迎えられることを感謝します
しばらく、ブログの口調を少し丁寧にしたいと思いました
ただ、無礼でいるよりいんぎん無礼のほうがより良いかな、と

日本では、神社に初詣をしたり絵馬を書いたりおみくじを引いたりしますね
そのことに対して、キリスト者(特に福音派)は霊的に良く無いと言いますね
何をもってして、霊と呼ぶのかが僕にはよく理解できません

まず、日本における神はカミです
GODとは違う概念であることをまず理解しなくてはならないと思います
自然に対する畏敬の念が日本の文化の根底には存在している思います

日本はその自然に対する畏敬から独自の文化を創り出し道徳を育んできました
しかし、それは本当の神様を知らないから偽者だと一概に断ずることは出来るのでしょうか
神様の創造の業が最も表れている自然からの文化
それは、神様に対する畏敬の念とも言い換えても言いと僕は思います

また、聖書の中では神様との関係ともう一つ、人との関係の重要性も唱えています
ただ、聖書とは違う理由で日本の宗教、文化を霊的に良くないと断ずること
それは、日本の文化を創ってきた我々の祖先をないがしろにしていると言って間違いないでしょう
祖先に対して畏敬の念をもてない人間が、神様に対して畏敬の念をもてるでしょうか
僕は出来ないと思います

ただ単に、キリスト教とは違うからとすべてを霊的に悪いと言う姿勢
その寛容の無さは僕は、むしろキリスト教的だとはとても思えません
ですから、僕等が新しい信念を迎える上でどうか日本の文化も大切にして欲しい

日本は宗教の絶対性を無しに、道徳を育んできた数少ない民族です
それを断ずるのではなく、むしろその根底に流れる精神を深く理解してキリスト教徒として新たに価値観を変化させていきたい
僕は、そう思います

あけましておめでとうございます
今年も良いお年を




にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。