君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
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霊的に悪いとは、よく聞くけどそいつはいったいなんなんだい
「日本は物質的に恵まれているけど、霊的に乾いている」
という言葉をこの間クリスチャン・トゥディで見かけた
というよりも、結構まえから言われている言葉だと思う
物質的に恵まれているけど、神様の霊が無いから日本人はこんなにも苦しんでいるんだ!

確かに自殺者は多いね
だけど、犯罪件数は他国と比べたら少ないだろう?
犯罪が多いのは霊的に乾いているとは言わないのかい
虐待などの問題も他国の方がひどいんじゃないかい?
アメリカはクリスチャンが多いけど、日本よりレイプ件数が多いぜ
韓国もね

それなのに、なぜ他国から来た伝道者は日本が霊的に乾いていると言うんだい
僕は、他に日本を貶めるところがないからだと思うんだよ
夜中に一人で歩ける
地下鉄の中で、酔っ払って寝ていられる国が日本以外にどこにあるっていうんだい
治安の良さは折り紙つきだぜ

そもそも、自殺者が多いから霊的に乾いているというのも気に食わない
自殺する人は、色々な問題が重なって自ら死を選んだ
それは生きていくことが辛い環境だからだろう
心からご冥福をお祈りする
それを、「霊的に乾いているから」の一言で済ます
それは、無礼というものだろう

また、心とは別の霊的なものが感じ取れるとするよ?
オカルトじゃないか、そいつは
この世の知識、智の歴史を完全に否定しているというものだよ
愚者は経験に学び、智者は歴史に学ぶ
クリスチャンはどっちだい?

霊的に乾いている打なんて、いつから言い始めたんだい?
様々な社会問題
そいつを伝道だけでは解決できないのは、クリスチャンが多い国の犯罪件数を見れば分かることだろう?
なのに、なんだってそんなことを
マザー・テレサはそんなことを言ったのかい?

僕等は、この21世紀に生きるクリスチャンだ
聖書の精神を受け継ぐことは、確かに大切だろうさ
だけど、同時に現代人として過去のノンクリスチャン達の財産をも背負っているんだよ
君は、この世ではなく神の国に住んでいるのかもしれないけど
少しは、こっちの世界の有様にも目を向けておくれ

僕は、軽々しく霊的になんて口にしたくないんだよ





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神様とは、「神」とはなんだろうね
昔から、色々な論議の種になる神様
神様というのは、いったいなんなのだろうかね
聖書に書かれている神様が神様だと言うかもしれないけど
僕は、そいつを受け入れてはいないんだよ

モーセの時代には神様は女だった
というより、そういう形容詞が使われているらしいね
また、神様は嫉むらしい
そして、時には虐殺を命じ奴隷制度も容認する

そういうった、神様を僕等はハレルヤと叫ぶのかい?

イエス様が語った神様もそれと同じなのかい
僕は違うと思うんだよ
僕が新約聖書の中に見たイエス様はただ弱者の味方だった
地獄に投げ込まれる人々を羅列した後でさえ
その人たちすら救うために来たと仰っているように見えたのさ

神様が御自分の御子を捧げたとか
神様が人格を持っているのだの
正直、僕にはどうでもいいことなんだ
それを信じている人たちを否定するわけじゃない
あくまで、「僕」がどうでもいいだけなんだ

僕にとって、一番耐えられないのが自分の人生に何の意味も無いこと
この世界に何の意味も無いこと
それが嫌だから、意味と価値を与えてくださる神様を信じている
そして、その根源的な愛ってやつがなんなのかを知りたい

僕はそれだけで、クリスチャンと名乗っている
イエス様の贖いも、きっと本当だと思っている
だけど、一番はやっぱりそこなのさ

相対的なこの世界の中で、絶対的なものを信じようとする心
不完全な人間が完全なものを求める
パラドックスが笑っているけど、そいつがしかめ面になるところを見たいものだよ

いつの日か僕は死ぬ
だけど、その時がスタートだと思える今の気持ちはそう悪いものでもない
自分を誤魔化しているだけなのか
それとも、人間のあるべき姿なのか
気にしていたらきりがない
自分の頭の仲の世界が一番になっていく

だからこそ、僕は何も知らない
そう思っている
だけど、そんな自分も好きなのさ






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信仰と聖書、そして僕の中の黒い箱
随分久しぶりになってしまいました
卒論がとても忙しいです
だけれども、孤独感と自我同一性の研究でまた一つ人間の心理の面白さを知りました

そして、今回の思うこと
信仰と聖書は、実は直接的には結びついていない
僕が思うのは、自分の信仰のあり方が聖書の読み方に影響を及ぼすということ
聖書→信仰ではなくて
信仰→聖書だということ

たとえば、僕は聖書に対してとても懐疑的な人間だ
だからこそ、おかしいものはおかしいと思う
だけれども、聖書は全て正しいと思う人が聖書を見れば
聖書にはなんら矛盾点がなくなるように見える

聖書が人間のあり方を決定するのじゃない
人間のあり方が聖書を決定している
その方が多いような気がするんだよ

だけどね、僕は思うんだよ
聖書を全肯定したら、カナンの虐殺を神様が命じたと信じなきゃいけない
奴隷制度も、旧約時代は神様が許したと信じなきゃいけない
時代時代によって、神様の言うことが違うんだ
だから、僕は聖書の中の神様をただ信じることが出来ないんだ

それは、僕の信仰が劣っているからなのかい?

僕にとってはね、聖書の内容が逐一正しくなきゃいけない理由はないんだ
僕が信じているのはイエス・キリストさ
彼の贖いがあるということを信じている

ああ、神様がこの世の中を作ったということも信じているよ
だけど、同時に進化論も信じている
別に僕にとっては、そこはどうでもいいんだよ
ミジンコから始まったとしても、ミジンコにも意味があるのだと思うのだし

僕等の信仰の根源とはなんなのだろうね
聖書と言っても、神学の壁が色々な宗派に見てとれる
僕は、一致というものはどうなったらありえるのかすら分からないよ

だけどね、君と話したいというのは本当なのさ
もし、君のことを全て理解できたとしたら話す必要なんてないだろう?
だから、僕は君と話したいのさ







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思想信条の話
この世には様々な思想信条がある
日本国内だけの思想信条でもそのありようは様々だ
国歌、国旗についてすら分かれているのが現状だ
戦争による価値観の変容
これは良いことなのか、悪いことなのか

僕は、思想信条が様々であること悪いことでは無いと思う
それは、人間が生み出してきた知的財産の一つであると思うから
だから、一人ひとりが様々な思想信条を持つことは大いに賛成だ

だけれども、その結果すぐに現体制に反抗するのは良く無いと思う
例えば、先に挙げた国歌・国旗問題もそうだ
公立の学校というからには、国の定めたことを守るべきだ
それを自らの意思を持って反するのは、教師としてあるまじき姿だと思う
校則を守らない生徒を処分する学校で、教師が国の規則を守らない
それは、卒業式においては生徒に対する侮辱とすら僕は思う

それが気に入らないなら、別の場、しかるべき場で行なうべきだ
クリスチャンといえど同じ
今の日本は駄目だと、自らの信仰によって告白する時
国歌からどのような恩恵を受けているのかをまず知るべきだと思う

改正するべきところはもちろん改正するべき
その時にはメリット・デメリットを提示する
そして、しかるべき場でそれを行なう
反体制というものは、そうやってやるものだと僕は思う







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人は誰だってそのままで愛される価値がある
僕には、最近とても大切な人が出来ました
その人と話していると、自分が考えなかったことをよく考えます
自分が考えようとしなかったこと
昔、色々な人と話して自分の中で作っていったもの
その根本的なものごとをよく考えます

そして、聞かれる言葉
「あなたはなんで私といるんですか? こんなにも私は私が嫌な存在だと思っているのに」
思うんだよ
僕は、君が好きだと思うよ
でも、君は君が嫌いで愛される価値だとかそんなものはないと思っている
勝手かもしれないけどそれは違うと思うんだ

人間は生きているだけで愛される資格を持っていると思うんだ
それなのに、僕等が条件をつけて愛さないようにしている
だからこそ、僕らは愛せない原因を自分の心に見つけ
また、愛される資格が無いと思ってしまう

全て取り払うことは出来ないかもしれない
だけど、少しずつは分かち合っていきたい
僕は、そう思っているよ






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クリスチャンはカウンセラーじゃありません
昔、僕の教会にいた牧師を目指していたのかいないのかわからない人がいた
その人は、「カウンセリング」と言い、人の悩みを聞いていた
ブログを見ていると、カウンセリングという言葉がたまに出てくる
クリスチャンはカウンセリングをするのが目標、みたいなことを言っているところもあった

何をもってして、カウンセリングと言っているのだろう
悩みを聞いて、アドバイスをする
まあ、広義的にはこれもカウンセリングの内だから問題が無い
だけど、個人的には悩み相談という言葉で済ませて欲しい

うつ病だとか、そのほか精神的な疾病を患ってしまった人
その人たちへの治療は主にカウンセリングと投薬
なのに、その人たちにまでカウンセリングをしてしまうのは間違いだ
呪術師が医者の変わりにまじないをするのと何も変わらない

そして、一番問題のなのがもう一つある
悩んでいる人に対して、聖書に書いてあるからああしろ、こうしろと言うことだ
これは、カウンセリングじゃない
どちらかというと「行動療法」と呼ばれるものだ

カウンセリングの基本は、クライアントにあくまで自発的に結論を出させる
だけど、相談を受けた側が自分(この場合は神様か)の思うように行動させる
それは、現在の心理学の間でも倫理の面で揺れている問題だ
人の心を、自分の好きなように扱っていいのか?
そういったことで

それが悪いと言うんじゃない
その方法で、本人が満足することは充分にありえる
だけど、そういった背景を知らないで行なうのは僕は間違っていると思うんだ
そして、それを安易にカウンセリングと称して行なうのは間違いだ
というより、心理学を築いてきた人たちに申しわけが立たない

だから、カウンセリングという言葉を使う時は少しだけ考えてください
この世の人たちはとても考えてきました
それをちょいとつまんで使うのではなく
使うのであれば、せめてその背景を知って使って欲しいと願います









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君の中にあるプライドは愛とどちらが大きいのか
クリスチャン、ノンクリスチャンに限らずプライドっていうのは厄介な問題だ
プライドは自分を誇らしめる、とてもいいものだ
だけれども、そいつが度を過ぎると自分を変えることが出来なくなる
そして、クリスチャンってやつはそのようになることが多々あるのさ

なぜなら、クリスチャンのプライドっていうのは聖書
そして、聖書は完全なもので全く誤りの無いものらしいから
つまるところ、自分を否定することは聖書を否定すること
そんなことは出来やしない
だから、自分を否定できない

なあ、僕は思うんだよ
自分を否定することも一つの才能だと思うんだ
自分は駄目な奴だと、するんじゃない
自分を冷静に客観的に見て、否定することはとても意義があることだと思うんだよ

それなのに、聖書に照らし合わせて全肯定する
まあ、それが必要な時は多々あるけれども全てがそういうわけではないと思うんだ
そこから先の領域は宗教家か心理士の分野だから、おいそれとは口には出せないけれども

だからこそ、クリスチャンって奴は意固地になりがちだ
そういう輩も好きだけどね
だけど、たまには聖書を疑ってみてくれるとありがたい
というよりも、自分の中のプライドが何によっているのかを知りたいよ
僕の場合は、自己顕示欲もかなりの割合を占めている
それだけではないけどね

自分の罪を曝け出すってことは、自分の心を曝け出すってこと
それは、おいそれとは出来ないし
理解されないこともある
ジャハルの窓の理解が必要だね

だけどもさ、その辺はうまく按配をとっていきたいよ
僕は、君のことを理解したいしね
そして、理解して欲しいよ






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悲しいは悲しい、辛いことは辛い
ポジティブシンキング、ネガティブシンキング
この二つを提示された時に、どちらを取りますか?
キリスト教会に限らず、色々な宗教、または社会的にもポジティブを取るように教えるだろう

それは、そうだろう
僕もどちらかと言えば、ポジティブシンキングだ
だけど、ネガティブな考え方の人の中にはとても思慮深い人もいる
そういう時は、ネガティブも悪くないと考えてしまう

だけど、今回考えたいのはどちらかを取るのではなくて
どちらも取らない、という選択肢についてだ

事実をただそれだけを受け取る
例えば、恋人と別れたとき
悲しみもう自分には恋など出来ないと思うのがネガティブ
これから、もっと良い人が現れると思うのが、ポジティブ
そのどちらでもなく、ただ「僕は恋人と別れた」と思う

だから、どうしたと言われると困るけど
主観的な、嬉しい、苦しいとは別にメタ的な視点を持つことは大切だと思う
もちろん、ポジティブに考えることは全く否定しない
ただ、色々な視点を持ったほうが人と話すときに気持ちを理解しやすいと思うんだ

そういった視点を持つと、例えば今言ったネガティブ、ポジティブ両方を知ることが出来る
そうったニュートラルな視点って大切だと思うんだ

クリスチャンを見るときも、伝道ばかりしている人を見て賛成、反対の気持ちが湧き上がってくる
だけど、それもまず事実を見てそれがもたらすメリット、デメリットを考える
そして、両方を自分の中で噛み砕いて思考に移す

僕は、これからそうすることにした
ただ単にキリスト教を批判するのじゃなくて、そういう風に見ていく
悲しいことは悲しいままに、辛いことは辛いままに、ハレルヤはハレルヤのままに






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怒りは消えて、それでも残っているもの
僕のブログの原動力は、怒りだった
既存のクリスチャンに対する怒り
あいつらは人を傷つけている、なんだってんだ
そういった、怒りをぶつけていた

だけど、気づいたんだよ
それだけじゃあ、ないってことに
彼等も、人を励まして傷つけて、そして僕もそう

そう考えた時に、怒りは消えた
残るものが何も無いか、と思ったら意外にも前より強い気持ち
ああ、僕はこいつらと話したいんだな、と

まず話したいのが、「もし神様なんかいなかったらどうする?」ってことを
というよりも、大抵のノンクリスチャンが神様なんか信じていない
存在を感じていても天国や地獄なんか感じていない

だけども生きているんだぜ
そいつは凄いと思わないかい
考えてみてくれよ
僕等が今まさに神様がいないと想像してみたら

世界に絶望してしまうよ
ノンクリスチャンはそういうことを考えていないのか?
そういう人もいるだろうさ
だけど、深く考えて自分なりの結論を出しながら天国や地獄が無いって思っている人は?

そういう人は純粋に凄い
だって、神様がいなくて天国や地獄なんて無いって言いながら、ちゃんと生きていけるんだよ
単純に、正に最大級の敬意を表す、僕は
僕は、その精神がどうなっているのかがさっぱり分からない
他のクリスチャン、「クリスチャン」っていうだけで分からないよね
そういう人に伝道するとしたらどうする?

地獄の恐ろしさをとくとくと説くか
それとも、クリスチャンの素晴らしさを説くか
だけど、そういった人が自分達より立派だったら?
そういったことを君と話したいのさ

僕等の意味だとか、信仰の根源的なものだとか
ただ単純に「ノンクリスチャンの心は乾いている」って叫ぶんじゃなくてさ
僕は、君と話したいのさ






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忘れていたんだよ、君にも愛があることを
忘れていたんだ
僕の信仰に、全ての人は愛を持っているって考えがあった
だけど、それなのに僕はそれを既存のクリスチャンに当てはめていなかった
寂しさや、自己顕示欲、満足感
そういったもので自分で自分に説明していた

それは、なぜ?
問題点があるからか、傷つけている人がいるからかなのか
そのことに気づいていないように見えるから?
僕が嫉んでいたからか、憎んでいたからか、馬鹿にしていたからか
なんにせよ、忘れていい問題じゃない

そう、僕と君は基本的に同じだったんだ
君は多くの人を励まし、また傷つけてきた
僕は君が励ました人を傷つけ、君が傷つけた人を励ました
方向性が違うだけで、やっていることは同じ
でも、その根底には結局のところ愛が流れていると思うんだよ
もちろん、それ以外にも流れているんだろうけど

だからね
君が純粋なキリストの知を求めると言うのなら、僕は別の知を蓄えよう
君が信仰を確固たるものにするのなら、僕は疑い続ける道を歩もう
でも、底に流れるものは同じだと思うんだ
君の中には愛があるんだろう?

君とは違う道を行く
それは、間違いないと思うんだ
だけどそれでもいい、そしてお互いが成熟したら話し合おう
僕等のコミュニティの中だけで幸せになっても結局はお互いを否定してしまう
だから、語りあおう
どうやったら、一致できるのか?
一致?いや、違うな

資本主義も、共産主義も、社会主義も、キリスト教も、仏教も、イスラム教も
今のところ世界を平和に出来てやいやしない
その結果が、今回の世界恐慌一歩手前だ
だから、君と僕で僕達で話し合おうよ
新しいものを
それは、君が言うように古い聖書の中にあるのかもしれない
僕が言う知識の中にあるのかもしれない
だけど、それをただ主張しあったって納得なんて出来やしない
だから、話し合おう

今が転換点だ
いつだって、転換点だったのかもしれない
君と僕の僕達で
もっともっと語り合いたいんだよ






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祈るだけで終わっていないかい?
祈ることは、とても素晴らしいことだ
神様との関係を、密にするとても素晴らしい時間
だからこそ、祈ることに逃げることがあると思うんだ

僕は、このブログを通しても色々なことを言っている
その中で、熱心なクリスチャンの方と議論を交わすこともある
その中の全員では無いが、たまに言われる言葉

「そのことは分からないから、祈って答えを出すよ」

そうして、議論は終り
後日話を聞いて見ると、議論のスタートラインに戻っている
しかしながら、相手の顔は晴れやかだ
堂々と、ハレルヤと叫べるからかどうか知らないが、僕のことなど頭に無いかのように

祈って、答えを出すと言うと大抵は分からないから神様に任せると言う
だけど、僕が言っているのは信仰の根本に関わることなんだぜ?
君の確信を崩そうとして、意地悪な質問をしているんだ

だけど、そういった質問がまるで無かったかのように話す
いつまでもいつまでも変わらずに
そう
いつまでもいつまでも変わらずに

祈って、答えが出ないことを初めから分かってやいやしないかい
僕は君の答えが何であれいいんだ
「君」の答えがなんであれいいんだ
話し合いたいんだよ、結論を出したいわけじゃないんだ
僕の持論を説得させようとしているわけじゃないんだ

道を探したいんだよ
君はもう見つけているというが、僕から見たら穴があるんだよ
それでも、信じると言うのならそれは素晴らしいことだよ
だけど、それを事実として言うのはおかしいだろう?
だって、それは「信仰」なのだから

それなのに、祈って答えを出すというとスタートラインに戻るか
もしくは、分からないことは分からないままにしておく
僕がおかしいのかい?
延々と考え続けている僕がおかしいのかい?

さあ、死んだ時がどうなるのかが楽しみだ
答えがあるのかどうかすら分からないよ



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