君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



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聖餐式
今、日本基督教団で聖餐式のあり方が問題になっている
それは、聖餐式を洗礼を済ませた信徒だけに施すか
それとも、未信者を含めて集会に参加した参加者全ての人に施すか
このあり方が問題になっている

以前の日本基督教団はどちらでも問題になっていなかった
だけど、今は信徒だけに聖餐式を施す方向に動いている
最近起こった問題は、未信者の方にも聖餐式を施した牧師が免許を剥奪されたこと
つまるところ、日本基督教団にも改革の動きが出てきたということだ

僕は、昔からオープンの場でやってきたから、クローズにしろと言われると戸惑ってしまう
そもそも、イエス様がパンとぶどう酒を弟子達に与えた時は
弟子達は、イエス様が贖い主だということを信じてはいなかった
だから、未信者には「恵」という形で与えればいい
と、僕は思っている

だけど、クローズの人たちも人たちで言い分はあるのだろう
僕自身、全ての聖餐式をオープンにしろなどと言うつもりは毛頭ない

だけど、問題なのはどちらかに強制をすることだ
そして、異にそぐわないものを排除する
それこそが、真の問題だ
なぜなら、両方に言い分があり
それは、神学的な問題だからだ
異にそぐわないものを排除するのは、寛容さを失い自分を是とする最も傲慢なものだ
それは、いけない

神学的に違うから対立する
その問題のせいで、ま教会は混乱する
そして、神学云々じゃなくて結局多数派が勝利するキリスト教会
結局、権力を持つものが強いキリスト教会
たとえ、どんなに良く見えてもそれじゃあ十字軍を作り虐殺をしていた昔と同じじゃないか

僕は、日本基督教団にそんな風になって欲しくない
元々、色々な考えの人たちが集まって出来たものなのに
それなのに、単一の考えで染めてしまうだなんて

そんなのは悲しすぎる






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近づいたり、離れたり 分かったり、分からなかったり
昨日、昔働いていたバイトの人達と飲みに行った
そこで、久しぶりに会った友達と色々なことを話した
自分の中にある、大切なもの
心の根源的なもの
そいつをどうやって、伝えるか
僕等は、それを伝え合うのにとても時間をかかった

僕は、足し算で答えを求めていく
心に壁をこれでもかと、作っていってそこを通過するものを本物と認める
彼女は、引き算で求めていく
心にある壁をどんどん、取り払って本物を見つけていく

どっちがいいとかじゃない
どっちも、心の根源的なもの
人間にとって一番大切なものを、見つけたいと思っていた
こんなことを飲み会の場で話せる友達は、正直ありがたいよ

人は理由を付けたがる
~だから、と
だけど、理由を出してもその理由、そしてその意味
それは無限に続いていく
環状線になっているのかもしれない
終りが無い

だから、自分の感覚を信じていい
それが伝わるとは限らない
自分ひとりの妄想だと、笑われても何も言えない
その感覚の理由など分からないのだから

だけど、伝わる人には伝わる
出来ることなら、社会的に伝えたい
だけども、今の段階だと伝えることが出来る人に伝えることしか出来ない

信仰もそうだろう?
君がなんだって、信じているか
救われるから
信じないと地獄に落ちるから
神様が愛してくれるから
その方が幸せだから
確かにそれもあるだろうさ

だけど、心の深いところにある何か分からないもの
その感覚が君にもあるだろう?
僕は、それを「愛」と呼びたいのさ

それが伝わった時
嬉しいとか幸せとか、そういう言葉だけじゃ答えきれない感覚があるよね
それを大切にしたい
僕は、それこそが何よりも大切だと思いたい

君が生きている
そして、分かり合える
それは、とても良いことだよね





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理論的に批判
今日は理論的にキリスト教のおかしいと思うところを批判したい
まず、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」
次に、「イエス・キリストを信じなきゃ救われない」
これは、どっちでもいい
主観的な判断で分かれることだ
人によってどっちにもなるさ

問題は、イエス・キリストを信じると救われる
これだけだ
つまり、イエス・キリストを信じないと救われない
そういうことだ

じゃあ、知能的に信じられない人は?
もちろん地獄に行く
ということにはならない
知的障害者に至っては
純粋だから、霊的に直接神様の霊を受けていると言うのをよく聞く
だけど、聖書のどこに書いてあるかを教えて欲しい
知能と霊的なものって関係あるのかな?
そうしたら、知能指数が高ければ高いほど、霊的に離れているって言っているのと同じだと思うんだ

そして、幼児はどうなる?
日本においても、殺人犯の最少年齢は2才だ
つまるところ、幼児でも罪を犯す
そういう子はどうなるんだ
正直、信仰義認説の人の意見を聞きたい

そういうわからないところは神様に任せるとも聞く
だけど、実際君達は信じなければ救われないと言っているだろ?
なのに、その責任を全て神様に任せて自分達のわかるところしか話さない
その姿勢は不誠実だと思う
なのに、自分達は正しいという姿勢は変えない
それを、人は傲慢と呼ぶ

僕は、そう思うよ




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狂気が足りない
キリストに狂う
それは、よく聞く話だ
そして、僕は昔にそれを否定した
だけど、何で僕は否定したんだっけかな
今、あるこの気持ちとは別なものだとは思うけど

狂気が足りない、ただ単純に
もっと狂えばいいと、思うのに
仲間がいることを否定するわけじゃない
ただ、孤独を感じていないのならそれは狂気じゃない

世の人と考え方が違う
教会だけが受け入れてくれる
そして、その教えに狂う
その狂い方は僕は好きじゃない

自分の中にある残虐性
そいつは、どうしても切っても切れない
だって、そいつも僕だもの
だけど、そいつに従うのは狂気じゃない
ただ、本能に従っているだけだ

やりたいことをやるために
やりたいことを我慢する
そのためにもったいぶって理由付けして
そして、自分自身すら変えていく
そいつは充分狂気だと思うし
僕は、それでいいと思う




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聖書はマニュアルじゃない
よく僕は聖書を批判しているように見えると思う
だけど、僕は聖書をそこまで批判したいわけじゃない
そもそも、聖書をマニュアルにするのが嫌いなだけだ

聖書にはあれこうしろ、やれこうしろと色々書いてある
だけど、それを全て実行しようとするとそれこそアーミッシュの生活にならなくちゃいけない
そういう意味ではアーミッシュの方々は凄いと思う
だけど、実際は色々な取捨選択をする

こうすれば幸せに生きることが出来ますよ
でも、この聖句は昔の律法だからイエス様は排されました
あ、でもこの聖句は守った方がいいですね、神学的にも合ってます
旧約聖書の中の律法は大体排してもいいけど、いいものはやっぱりいいです
新約のこの部分は、守りましょう
女は教会で喋るなって?時代が違うでしょう?
こんな感じでね

聖書はマニュアルじゃない
一番大事なのは、その中に現れている神様の想いを知ることだ
だけど、実際のところ単なるマニュアル的な側面を神様の想いとしているんじゃないのかな
僕は、そう思うよ

考えるのが一番大切だと思うんだよ
責任は結局のところ自分でとらなきゃいけない
だけど、自分を捨てて神様に仕えろって書いてある
でも、それは考えるなってことじゃない
自分の欲望に囚われないで、神様の想いが何なのかを考えて動けってことじゃないか?
でも、こういう意見は「聖書に書いてない」と理由で簡単に却下可能だよ

愛が無いから神様ください
何で、愛が無いって言えるんだい?
そもそも君は人に善行をする時に全部自分の欲望だけかい?
ああ、もしそう言うのならどんな欲望か教えておくれ
一側面しか見えてないんじゃないかい?
そもそも君は自分自身の事をそこまで完璧に知っているのかい?
もし、そうなら驚きだ、羨ましい
ブラックボックスが何一つ無いのなら、むしろそこに神様はいらないだろう?

自分で考えることがそんなに悪徳かい?
というより、聖書に書いてあるから正しいって言っているようじゃ考えている奴は納得できないぜ
僕自身その一人だ
現に信仰を持って、幸せになっているじゃないかと反論するかもしれない
だけど、僕は信仰で辛くなってクリスチャンを辞めた人も知っているぜ
だったら、神様だけに頼れって言うかもしれない
人は一人じゃ生きてけないんだよ
どうあがいても相互作用の中で生きているんだ

マニュアルじゃないんだよ
だから、考えが色々あるかもしれない
だけど、きっと根源的なところは変わらないだろう?
だから、分かり合いたいと言っているのに
それなのに、マニュアルを突きつけられてそれ以外を淘汰されても
そんな世界には、僕は幸せがあるとは思えないんだよ





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サタンという罠
サタンについて真面目に考えよう
なんだか、皆サタンは恐ろしいものだから考えることすら放棄している気がする
僕は別にどうでもいいと思っているから、考えてみることにする

まず、サタンがいるという前提で話を進めてみよう
そして、サタンの目的とサタンの能力
この二つについて考えてみる

まず、サタンの目的はシンプルだ
神様から僕たちの目を背けること
それが、サタンの目的であるというのは恐らくのところ問題が無いと思う

問題なのは、サタンの能力だ
ここはあえて逐語霊感説をとって見てみよう
サタンは一応、元天使
つまり、霊的な存在でありこの三次元の世界(超ひも理論によると10次元)の外に位置する存在だ
だけど、人を病気にしたりすることが出来る
また、ユダの記述を見るとどうやら心にも入ることが出来る
これは、明らかにおかしい

病気の原因を考えてみよう
それは、ウイルスであったり食生活であったり、つまるところミクロの存在の仕業だ
おかしいと思わないかい?
三次元のミクロの世界に介入することが出来るのなら、なぜ僕等の脳細胞に直接作用しないのか
ドーパミン、セロトニン、アドレナリンをちょいと操作してやれば人を堕落させることなど恐ろしく簡単だ

また、サタンが僕等よりも高度な知恵を持ちなおかつ心を覗けるとしたら
僕等に打つ手など無い
それは、すなわちサタンは運命を操れることに他ならない
なぜなら、僕等の人間関係の相互作用をちょいと弄れば信仰があろうがなかろうが結局のところサタンの手の上で踊らされる

しかし、サタンが神様以下の知恵しか持ち合わせていなかったら
いずれは、人間はサタンの演算機能異常のコンピューターを作り出すだろう
なぜなら、人間の限界は全知全能以下であり
それ以下のものならば、越えることが出来る能力は備わっている
つまり、信仰が無くともサタンのた企みを未然に防ぐことが出来る

さらにサタンに対する手段が聖霊だとし、そのために必要なのが信仰だとする
しかしながら、その考えもまたおかしい
なぜなら、サタンには信仰があろうとそれを試すという名目で人間に介入することが許されている
それは上記に上げた人間の脳細胞を操作すれば、軽く信仰心など消える
いや、そもそも三次元に介入できのならば人間の脳細胞を生まれる前に操作すれば信仰心など持たなくすることも可能なはずだ

しかし、実際にそれは起きていない
それはなぜか
サタンにそのような能力が無いか
もしくは、サタンが存在していないか
サタンが僕等が思っているような存在では無いか
この三種類に絞られる

世界になぜ他宗教があるのか
それを今まではサタンのせいにしていたかもしれない
しかし、歴史を紐解いていくとその理由は違うことが分かる
なぜ人間が、別の神様を作り出したのか
それは、「神がその民族に現れなかったから」
つまるところ、人間が他宗教を作り出した原因は神様のほうにあることになる
また、神様が現れないときに、他の神様を作るような人間にしたのは他ならぬ神様だ

また、先にあげた信仰面によりサタンの影響を回避できるなどというのは具の骨頂だ
なぜならクリスチャンであろうとも、サタンの影響は回避できない
なぜなら、常に最高の信仰を保った状態の人間などこの世には存在しない
いるというのなら、その人はある意味でパラノイアだよ
サタンがその機を見逃すだろうか?
答えは否である

サタンは恐ろしい存在だとよく聞くが、彼らはサタンを恐ろしく強大にしておきながら過小評価をする
わけが分からない
つまるところ、僕はサタンというのは心の状態だともいえると思う
悪しき心(この表現はもの凄く嫌いだが)に陥った場合それをサタンと言うのではないか?
もしくは、実際に三次元の外で天使と戦っているのかもしれない
その方がロマンがあって個人的には僕は面白い

信仰義認説、逐語霊感説に立つとサタンはこれほどまでに強力になる
なのに、なんだって過小評価するんだい?
まさしくフレーム問題だ
口では恐ろしいと言っておいて、実のところ他人事
日常の小さな小さなつまずきをただ単に言い訳程度にサタンのせいにしているだけじゃないのかい?

僕等は未だ、罪というものを知らない
僕等は未だ、神様を知らない
僕等は未だ、サタンを知らない
僕等は未だ、愛を知らない

考え続けろ
思考は停止した時に濁る







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漢字バトン
メール友達の方から漢字バトンとやらを頂きました
面白そうだからやってみます

1:好きな漢字
【漢】 ・・・ 「おとこ」と読んでください。この漢字が表すような「おとこ」になりたいと思いますよね。

【信】 ・・・これは、信仰に限らず信じるってことはやっぱり大切なことだな、って思います。好きな漫画のセリフに「信なくしてビジネスが成立する国なぞ太陽系に無い!」ってのがあります。人と人とを結ぶものですよね、信って。

【尊】 ・・・人を尊ぶ、神様を尊ぶ。この意思なくしては信頼関係なんて作れませんよね。嘲るところから、人は駄目になっていくと思うんですよ。


2:前の人が答えた漢字に対して自分の持つイメージは?

【毅】 ・・・というのにとてもいいなと思いました。意志が強くてくじけない、また、決断力がある。意志が強く、物事に動じないさま。意志・信念を断固貫くさま。これは、かっこいいですよね。こうありたいものです。

3:大切にしたい漢字
【愛】 ・・・これは一番大事なものですよね。思うんですが、LOVEと愛だとニュアンス微妙に違って、アガペーと表すのもなんか違う感じですよね。きっと、根源的な想いは一緒だと思うんですが、文字にしたとたん雰囲気が変わってしまう。そのものの持つ文字の表面ではなく、その中にある感情を知りたいものです。


【独】 ・・・独立、孤独、といった感じで一人でいることを指すと思います。やっぱり、一人でいることというのは大切だと思います。一人でいること、自分と自分を向き合わせなきゃ人と向き合うことも出来ないですよね、僕は。

【歩】・・・歩きたいから、大切にしたい言葉ですね。僕は止まってしまうと濁る人間なので。後、走るのはそんなに好きじゃないですね。


4:漢字の事をどう思う?
便利だし、力がありますよね。それに、意味を複数持っているのがたまらない。一つの語句に色々な意味。それこそ、正に本質を突いているような感じですよね。


5:最後に貴方が好きな四字熟語を三つ
【呉越同舟】…敵同士が一緒にいるさま。なんかいいですよね。利害関係でも、そういう状況にあるのはいい。結局のところ今の世界の状況って呉越同舟ですしね。

「合縁奇縁」…要は、縁ですよね。不思議なつながりですよ、縁ってものは。人智を超えてはいますが、簡単に神様の示しと言うにももったいない感覚ですよね。運命とはまた違った、縁という言葉が好きですね。

あと、四字熟語じゃないんですが
「諧謔味」…英語に表すとユーモアになるんですが、絶対違いますよね。諧謔味は諧謔味ですよ。もう、音の力が凄い強いですよね。たまらない。しかも、ユーモアなら軽い感じがあるのに、漢字で諧謔味というと、ものすごい深い印象を受ける。大好きですね、この言葉。





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どこで何を分けるか
クリスチャンに限らずこの世の中は色んな線引きを引きたがる
良い悪いに始まり、かっこいいかっこ悪いだとかそんなものまで
クリスチャンは信仰で分けたがる
そんなことは無いのかなとも思いたいけど、色々なブログを見ているとやっぱそうなのかなと思う
結婚相手はクリスチャンが良い、とかその最たる例だと思うんだ
結婚てのは、愛の領域だと思うんだけどね
信仰のあるなしで愛が変わるのなら、それを愛って言えるのかい?
いや、まあ言うんだろうけどさ

分けるっていうのは、線を点にすることだと思うんだよ
線を分けると点になる
だけど、点をいくら並べても線にはなりやしない
それなのに、せっかくある線を切り取ってなんだかわけ分からないことにしている

思うんだけど、信仰で救われるって考えはそれなりに「あり」だと思うんだ
信じることで救われるっていうのもこの際、良しとしよう
だけど、信じた人間が立派だって言うのはさすがにない
それだけは、さすがにない
個人差だよ、そんなものは

クリスチャンにも駄目な人間はいる
いくらでもいる
僕だって、自分を立派な人間だとはとてもじゃないが言えないね
クリスチャンホームで生まれたけど全然だよ

人間ってそういうものさ
神様、聖霊様の力によって変えられるとは言うけどさ
別段変わって見えはしないぜ
むしろ、ノンクリスチャンで働いているやつを見たときの方が、ハレルヤと叫んでる人より立派に見えることなんざざらだよ
おかしいだろ
イエス様は何て言った?
神様は誰であろうと太陽の光を注いでるよね

だけど、パウロの言葉を全部鵜呑みにしてさ
しかも、新約聖書の中のパウロの言葉は実際は何個か偽パウロ書簡なんだぜ?
歴史的背景もすっとばすし

分けるってことが、西洋文明なんだよ
境界線を無くすのが、東洋思想
仏教の最終目標なんて宇宙と一体になることだ
とても素敵だと思うよ

僕は日本人でアミニズムの土地で生まれ育った
それなのに、西洋文明の境界線を出されても肌に合わない
だって、キリスト教徒達の戦争や、植民地化の虐殺を見ているとどうしてもその思想が正しいとは思えないんだよ
本当のキリスト教会じゃないと言うかもしれないが
将来今のキリスト教会と多数派が入れ替われば、結局のところ今の僕等も正しく無いと言われるんだよ
本物だっていくら思っていても、世論なんざそんなものだ

なのに、確信を持って境界線を分ける
それは間違っている
僕等は信仰によって良い人になるわけじゃない
ただ、恵によって何か良いものがあるんだろう?
だったら、クリスチャンだけにその恵は与えられるのかい
それは世の中のクリスチャン以外の人間の善行を全て偽善と断しているだけなんだぜ
失礼かつ無礼

そんなのは嫌なんだよ
そろそろ東洋思想も勉強しなおそうよ
せっかく、日本人なんだから







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そこに愛はあるのかい
クリスチャンは色々なことをする
礼拝、祈り、伝道、さらにはボランティアも良く行なう
それら自体は、正直善でも偽善でもいい

そこに愛はあるのかい?
信仰は行いに表れる
ああ、確かにその通りだ
心からの信仰と喜び、そして愛が溢れていけば必然的に人間は動かされるさ
だけどね、その逆は成り立たないんだよ
行いがあるから、信仰がある
決して、そうはならないんだ

なぜなら、行いをする理由は他にもいろいろあるからさ
信仰みたいな綺麗な気持ちじゃなくて、もっと汚いと思える心
そういったものが、行いの理由になることは多々あるだろう

そして、最も面倒くさいのがその信仰故の行動理由と、自分の欲望の行動理由は
どっちかに分かれないところさ
信仰でやっているから、欲望はない
欲望でやっているから、信仰はない
そうは、決め付けれないのさ
よっぽど意識的にしない限り、そいつは無理な話だよ

じゃあ、どうすればいい?
そこに愛があるかどうかなんて、どうやって判断すればいい?

思うんだよ
まずは、自分の欲望をそのまま受け入れるって
そいつを神様に任せて、無くしてしまおうなんて考えなくてさ
だって、そいつを作ったのは神様だろう?
欲望を作ったのに、なんだって欲望を否定するんだい
神様は君にそれが必要だから、欲望を作ったというのに

そして、自分になんで欲望が必要なのかを考えてみるんだ
素直になってね
「認められたいから?いやいや、そんなはずはない!だってもう神様に認められているのに!」
そんな風に、肩肘を張らないでもっと素直に
信仰があったって、満たされないことはたくさんある
祈っても叶えられないことなんてざらさ
それは、そういうもんだと割り切ろう
決して、信仰が足りないからじゃないよ

それを、信仰が足りないからそうなのかなんて疑って
そして、信仰深くなろうとそのことを試練と捉えて
結局満たされないまま、行いを続ける
それじゃあ、悪循環だ
そうして、プライドばかりがでっかくなっていく

まずは、弱音を吐こう
そして、自分の弱さを受け入れよう
プライドが邪魔をするのなら、ひっそりと神様と二人だけで
そうして、考えを変えよう

自分には欲望があって、汚いと思える想いもある
だけど、それでも良い行いが出来る
行いが汚くならない
それこそが恵だと

結局何も変わっていないじゃないかと言うかもしれないけれど
それだけで、心ってのは結構救われるものなんだよ
自分の見せれない弱さを見て、そいつを認める
そいつは凄く大変だ
だけど、そいつを乗り越えたとには凄い開放感だよ
僕は、そう感じている

ああ、そういえばタイトルが「そこに愛はあるのかい」だったな
愛じゃないものなんてこの世に存在しないんだよ




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祈るということについて
祈ると言う行為を僕はそんなにしない
いや、しているけど祈っているという感じは無い
僕は、手を組まないしそもそも本当に神様に語りかけているかどうかすら分からない
一人で煙草を吸っている時の考えが、僕にとっては祈りのそれに当たるというだけだ

だけど、僕は熱狂的な祈りよりはそっちの方がよっぽどましだと思える
そのように祈る人の気持ちはわかる
楽しいし、救われる
だけど、それでも好きにはなれないんだ

ハレルヤ!
神様!
あなたは生きておられる神様です!
ハレルヤ!
このサタンの手に落ちている日本を救うためにリバイバルを!

そうやって、みんなで熱狂的に祈る集会
そうやって、祈るのはテンションを上げるためにしか思えない
そして、そうやって上げたテンションを「聖霊様の力が降りてきた」と言う
それは、逆に脳内物質に支配されているだけで
結局のところ、本当の聖霊様の力とやらから離れていると思うんだよ

2:マタイによる福音書 / 6章 5~7節
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。


聖書を文字通りに読むと言う逐語霊感説の人でさえ、この聖句を意図的に無視している
そういう気持ちにならなければいい
私達はなっていない
だから、熱狂的に祈っていてもいいんだ!
そういう風に考えているんじゃないかい

それは、変だよ
聖書を文字通り読めって言うのなら、ちゃんと祈る時はひっそりやりな
そうしないなら他の部分にももっと柔軟性を取り入れなよ

日本人なのに、アメリカやラテン系のノリで行くことにどうも違和感を感じるんだ









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クリスチャンへの100の質問
僕の考えで色々誤解があると思うし、もっと知って欲しいとも思うのでやってみます
こういうの面白いよね!


1「受洗記念日を教えてください」

いつだっけかな。
忘れました。中学生の時です。

2「受洗したきっかけは?」

その時は、真剣に神様の僕になろうと思っていました
いや、いまもですけどね

3「受洗記念の聖句は?」
なんだっけかなあ…

4「会派、または所属教団は?」
日本基督教団ですよ   

5「好きな聖句は?」
強く、雄雄しくあれ ヨシュア記1:9
  

6「聖句以外のキリスト教関連の"好きな詩・本"は?」
健全な不信仰
って本が面白かったです

7「教会の門を叩いたきっかけは?」
クリスチャンホームなんでね

8「伝道する時の手段は?」
手段?
信頼関係を作るのが第一ですよね。

9「信仰生活の上で、悩むことはなんですか?」
僕は基本的に、悩むのが趣味みたいなものですよ

10「受洗の時、印象に残っていたことは?」
全侵礼やりたかったな、チクショー!
   
11「好きな祈りは?」
なんだって、あなたは僕等をこんな複雑怪奇にしたんですか?
でも、そうしてくれてありがとうございます

12「教会に一番の友達がいますか?」
いました
みんな遠くに引っ越すんだもんなあ

13「教会生活は楽しいですか?」
それなりに楽しいですよ

14「特にどのような奉仕をしていますか?」
今は特に何もやっていないですね

15「好きな讃美歌、ワーシップソングは何ですか?」
結構なんでも好きですよ
まどかさんのブログの自家製ラブソングとかとても好きですね
 
16「好きな牧師先生は誰ですか?」
んー、結構いるんですよね
まあ、名前を出すのもなんなんで
 
17「教会に尊敬する人はいますか?どんな人ですか?」
お年寄りの方はやっぱり尊敬しますよね
それだけで、もう僕が想像できない人格の方ですから
   
18「礼拝の中で、一番楽しいときはどんなときですか?」
お昼ごはんをみんなで食べると楽しいですよね

19「祈りはきかれると思いますか?」
そらね

20「教会でもっとこうしたい!ってことありますか?」
今は特に

21「使っている聖書は何訳ですか?」

新改訳です
昔使っていたお気に入りの口語訳をなくしてしまった…
 
22「牧師先生を好きですか?」
嫌いな牧師先生もいますよ
ああ、こいつ小悪党だなって

23「分かち合いって大切ですよね?」
何よりも大切ですよね

24「あなたの好きな曲を分かち合って下さい」
まどかさんのブログの最新曲Lead Me Through the Waterに鳥肌を覚えましたね
こういうのって勝手に紹介していいのかな…?

25「お気に入りのキリスト教関連用品は?」

特にこれといってありません
十字架もつけたことがないよ!
   
26「聖書のみ言葉を実践してみようと試みたことのあるものは?」
これも、「強く雄雄しくあれ」ですね
そうありたいものですよ 

27「今までの信仰生活で一番の試練は何だったですか?」
SEXですねー
あの時はどうしようかと思いましたよ

28「落ち込んだとき、どこを読みますか?」
聖書じゃさすがに解決できない種類の悩みはありますよ

29「購読しているキリスト教雑誌は?」
ないですね
 
30「自分がクリスチャンであること、家族や友達は知っている?」
もちろん
友達には未だに疑われますけどね

31「自分の葬儀、歌ってほしい歌は?」
密葬でやりたいんですよねー

32「他人の献金額が気になりますか?」
そうでもないですよ

33「ヨブ記って理解できる?」
きっとちゃんとは理解できてないんですよね

34「読んでて一番、眠いなあと思う聖書箇所はどのへん?」
正直、旧約は読んでて…

35「伝道成功体験談を語っちゃってみてください」
クリスチャンになることを成功、失敗とか言うんじゃない
その人の人生と人格を馬鹿にする言葉ですよ、それは

36「人生のいつ、もしくは一日のいつどこで聖書を読みますか?」
気が向いたとき、一気に

37「うちの教会世界一!と思いますか?」
まあ、さすがにそれは無いですよね

38「献身しよう、と思ったことありますか?」
献身ってどういうことですか?

39「あなたは何を目指してますか? 御言葉も一緒にどうぞ」
世界平和を望んでいますよ
後は、僕の後の世代の子供達のために少しでも何か良いものを残したい
そう、思っていますよ

40「自分はいいクリスチャンだと思いますか?」
クリスチャンに良い、悪いってあるとは初耳ですよ
信仰で良い悪いは決めれない
決めるのはきっと愛ですよ

41「どうしてそう思いますか?<40番」
僕等の救いは、ただ恵によってですから

42「あなたは愛されてるとはっきり言えますか?」
ええ、僕の人生に意味と価値があると思えますから

43「天国に行ったら、何をしていますか?」
考えるのをやめているかと

44「自分以外の家族もクリスチャンですか?」
クリスチャンホームですからね

45「共に祈りたい!って人は、誰?」
祈る時は、ひっそりと家で祈りなさいって聖句無視する人結構多いですよね

46「伝道ってむずかしいよねぇ」  
それは、そのまま信頼関係を作るのは難しいと言っているのと同じですよね
ええ、難しいものですよ
 
47「『赦しなさい』とありますが・・・どうしても赦せない人っていますよねえ?」
赦すということは、どういうことなのでしょうね
僕には、それすら分かりませんよ

48「今、一番伝道したい人を一人挙げてください」
伝道…
クリスチャンにしたいというのはありませんが、お前の存在を喜びたいというのなら友達全般に言いたいですね

49「現在の「一番祈りたいこと」は何ですか?」
世界平和と全ての子供が健やかに育ちますように

50「教会に通っててさあ・・・嫌なことって何ですか?」
ありますよ?
怪我したときに、「神様から離れていたんじゃない?」って言われた時はさすがにショックでしたね

51「今までの人生、一番つらかったことは何ですか?」
うーん、色々辛いことが重なった時ですね

52「イスラエルや、いわゆる聖地(カソリックにこだわらず)に行きたいですか?」
全然
そもそも今のイスラエルが嫌いですしね

53「自分の一番の罪を一つだけあげてください」
この質問には「下がれサタン」と言っていいんじゃないですか?
罪に優劣をつけること自体、キリストの贖いを無視していますよ

54「あなたの心の中にイエス様はいますか?」
きっと、いてくださると思いますよ

55「ギリシャ語やヘブライ語(ヘブル語)を勉強したいと思いますか?」
ああ、ヒマがないんですよ

56「聖書を原書で読む必要ってあると思いますか?」
これはありますね
日本語版は結構意訳があるらしいですし

57「祈った時間、最長記録は何時間ぐらいですか?」
祈りのポーズをとって祈るのならば、一時間くらいじゃないですかね
昔の話ですけどね

58「断食祈祷や徹夜祈祷ってしたことありますか?」
ああ、一回徹夜祈祷しましたよ

59「きつかったですか?<58番」
あの頃は若かったから平気でした
今は多分無理です

60「どんなときイエス様の愛を感じますか?」
僕が人生の意味を考えることが出来る時ですね

61「ペットを捨てる人をどう思いますか?」
捨てるなら、喰らえ

62「今、問題を抱えていますか?」
問題だらけですよ
   
63「教会に来る子どもたちに何を望みますか?」
礼儀は学べ
そして、遊べ
言っておくが次世代はお前らのものだが、今は俺のものだ!
基本的にそこまで子供好きってわけじゃないんですよ

64「自分の罪がイエス様の十字架によって購われたということ、わかりますか?信じてますか?」
分かるかどうかは別として、信じていますよ

65「今、妬んでいる人はいますか?どんな人ですか?」
皆から、お前はすげーなーって言われる奴には嫉妬心がめらめらですよね笑

66「占いとまじないについてどう思いますか?気になりますか?信じますか?」
因果関係と統計学で言ってくれるなら信憑性がつくんですけどね
意図的にそういうのを無視しているのは、どうも    

67「ネット界でのクリスチャンの交わりについてどう思いますか?」
面白いですよね

68「 宝くじ一億円当たったらどうする?」
会社を作りたいですね!

69「悩みを一番最初に相談するのは誰?」
うーん、メール友達とか?

70「最近、何で悩みましたか?」

なんだってクリスチャンって奴はこうなんだ!って感じで笑
とりなしてくれる人がいなかったら、大変でしたよ

71「あなたは預言をもらったことありますか?何を言われましたか?」
預言って基本的に信じてないんですよねえ…
本物の預言だったら、聖書に加えろよって話じゃないですか?

72「預言をしっかり握って祈っていますか?」
神様は言語的な感覚はくれませんよ
それを言語化するのが、僕等の役目ですよ、きっと

73「伝道失敗談を語ってください」
だから、そういう風に語るんじゃない
人間の人生をなんだと思っているんだ
クリスチャンになるだけが人生だったら、なぜ離れる人がいると思っているんだい

74「家々をめぐって、教えを広げていらっしゃる宗教の方がいますが。どう思いますか?」
エホバの証人って言えばいいのに
あれは正直辟易しますよね

75「家に、他宗教、もしくは新興宗教のチラシが入ってます。どうしますか?」
僕の家マンションなんで

76「今までで一番『最高だ!幸せだ!』と、感じたときはいつ?」
あー、初めての彼女と抱き合って寝た時ですね
それから、幸せって大したことねーなって思うようになりました
別に幸せじゃなくても、人生って楽しいもんですよ

77「大病はしたことがありますか?」
左膝の靭帯を二回切って、半月版も壊れてますね
あ、あと髄膜炎もやったことあります
78「教会外でボランティア活動したことありますか?」
学校の実習でならありますよ

79「どうやって祈れば、神さまは聞いてくれると思いますか?」
ていうか、祈り方によって聞く聞かない神様だったらそもそも祈りませんよ

80「なぜ、人生には試練があるのでしょう?」

神様は偶然性っていうものも創ったんですよ

81「友達の披露宴(結婚式)でスピーチを頼まれました。どういったお話をしますか?」

出来ることなら、笑いあり、涙ありのスピーチをしてみたいものですよ

82「突然知人に、『聖書のことを教えて欲しい』と言われました。どうします?
本気なら、ちゃんと教えますよ
信仰義認から僕の個人的な意見まで

83「両親に言いたいことを、一言どうぞ」
明日の晩御飯はいりません 

84「インドネシアに伝道に行ってほしいと、人に言われ、神さまにも言われました。どうする?」
余計なお世話だっつーの

85「他のクリスチャンの人について、どう思いますか?」
皆苦労してんだろうなーって思いますよ

86「今まで友達だったと思っていた人に、クリスチャンであると告げたときから嫌われました。どうしますか?」
ふざけんなよ!って怒りますね
ああ、普通に怒りますね
だって、そんなんで友情壊れるくらいなら最初から友達になんなよ!ってなるじゃないですか!

87「仮定ばかりですみませんが。異性の友人が、教会に一緒に連れていって欲しいと言ってます。どうします?」
待ち合わせして、一緒に行きますよ
で、帰るときは駅まで送ります

88「自分はバカだと思いますか?」
馬鹿というよりは、無知ですね

89「自分の学歴、人に知られたいですか?知られたくないですか?」
うーん、学歴で見られるものもあるので相手方が望むのならば

90「未婚の方に。どんな人と結婚したいですか?(既婚者はパスしてね)」
お互いを理解して、そしてそれでいて一緒にいたいと思えたら
僕はサイケデリックな人が結構好きです

91「既婚の方に。配偶者はどんな素晴らしい人ですか?(未婚者はパスしてね)」
    

92「夢は、何ですか?」
夢…?
特にこれといっては
   
93「日本のリバイバルについて、何か思うことはありますか?」
リバイバルって言葉を使うのは間違っていますよね

94「今までもらったプレゼントで一番嬉しかったものは?」
あー、なんだろう
サプライイズでの誕生日パーティーは嬉しかったですよね

95「得意料理は何ですか?」
パスタ系です
    
96「ノンクリ10人と自分の11人で食事です。食前の祈りはどうします?」

「いただきます」って言葉の中に全部含まれてますよね

97「神さまの声、きいたことありますか?」
ねーよ、少なくとも聴覚では

98「パソコン、一日どれくらいします?」
結構、しますよー
二、三時間は平気でします

99「好きな映画を一作どうぞ」
スパイダーマン、エレファントその辺ですね

100「あなたは、神を信じますか?」

案外信じているもんですよ


長いのを読んでくれてありがとうございました







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ファックコミュニケーション
*SEXの話ではありません

今の日本でよく見られる光景
友達がお互いに「カス」だとか「死ね」だとかいう光景
それをファックコミュニケーションと言うらしい
僕も、そういう風に言い合う関係の友達はいる

そういったものに、心ある人は批判をする
「すぐに死ねとか言うのは間違っている」、と
それは確かに一側面では会っている
僕も、小学生が「死ね」とか言っていたらさすがに辟易するよ

だけど、お互いを否定しあう関係
何かあったら「馬鹿じゃねえの?」って言い合える関係
そいつは、ありだと思う

だって、お互いを認め合っていなければそういう関係は作れない
相手を否定して、嫌われるより相手の悪い部分はちゃんと言う
それでも壊れない関係がある
だから、言い合える
そういうもんだと思うんだ

だから、クリスチャンブロガーとか見てみるとたまに「あれ?」って思うことがある
「素晴らしい」「ハレルヤ」「神様の~が凄い現れている」
もしくは、ノーコメント
友達への批判ってしないのかな
ブログっていうのはそういうものなのかね

僕は、クリスチャンとしては少々変わった考えではあるけれど、普通のクリスチャンの目から見たって極端なこと書いていることはあるだろう
だけど、基本的にそういうのにはノーコメントかハレルヤかのどちらかだと思う
お茶を濁すのは日本人の美意識ではあるけれど、普段あれだけはっきりモノを言っているのになんだろうとは思う
聖書で繋がっているから関係が深いとは良く聞くけれども、お互いの批判は出来ないのかね

同じ価値観で繋がって、同じように考えている人が横にいればその人とは関係が深いように思えるだろうさ
だけど、結局のところその人は自分とは別物で案外別のことを考えているんだぜ
その人の考えを違うとしてしまうとまるで自分が悪党になったみたいに感じる
そして、裁いてはならないとあるからなかなか言えやしない
本当に深い関係ってのは、お互いの違いを認め合ってなお発展性を求める関係性のことさ
僕は、そう思う





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新しい気持ちで
前回の日記で、今までの自分の言葉の一部を自分で否定してしまった
さて、これからどういった信仰を持っていこうか
今は、それを考えている

基本的なことは変わらない
僕は、相変わらず全ての人は救われていると思っているし
全ての人が幸せになるための世界は諦めていない
正直、後は神様に任せればいいんじゃないか?
とも、思うのだがそういうのは自分の体が動かなくなるまであがいた後に言おう
そうじゃないと、どっちにしろ説得力なんかでやしない

ただ、何もしなくてもいいとはもう思えない
成長したければ、成長したらいいと思う
君の意に反することも言う
それなのに、僕が正しいと言う保証も無くてよく間違える
なんて、難しいんだろうね

だから、何が正しい間違っているという概念がそもそもの間違いだよね
また、パラドックスだよ…
まあ、いいや
君にとって正しいものは、君以外には別段正しくなんかないよ
僕の意見も所詮僕しか正しくないんだもの

じゃあ、どうすればいい?
どっちかが妥協するしかないのかな
キリストには妥協しない、聖書は正しいから
そう言って僕やノンクリスチャンを妥協させるかい?
キリストに従えば、とっても幸せだよ
そう言って

僕は、気づいたよ
その人の否定はしてもかまわないけど、自己肯定のために他者を否定するのは間違いだって
僕には、未だに既存のキリスト教会にそれを見るよ
だって、ノンクリスチャンを作らなきゃ自分達がクリスチャンだと言えない
僕にとっちゃ世の中にいるモラルとか愛とかそういったものを少しでも持っている人は全員クリスチャンだよ(本人が否定しない限りね)
むしろ、風俗嬢の方が僕よりよっぽどキリストに近く思う
それは、本当にそう思う

頭の中の霧は少し晴れてきた
こだわることが少なくなればなるほど、わだかまりの原因は多くなるのだとは思う
さて、新しい気持ちで信仰生活を始めますか






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恥ずべき偽善者
僕は、今まで無条件の肯定を良しとしていた
それが正しいものだと思っていた
だけど、それは間違っているということを僕は感じた
もし、今自分が若年性アルツハイマーにかかったとしたら
僕は、誰かのために何かしなきゃこれといって幸せを感じない
その時気づいた
そうなった僕を、僕の言葉じゃ救えない

ああ、そうか
僕は、無条件に肯定していることに正しさを感じていた
その実、人の意思を無視していたんだ
人の悲しみや苦しみを無視していたんだ

成長しなさいと、無条件に叫ぶのと同じくらい
そのままであなたでいいと叫ぶことは愚かしかった
自分でなければ殺したいくらいの傲慢さだ

僕は、ただカオス理論に基づいて
あんたは何もしなくても世界に影響を及ぼす
だから、諦めて座して死ね
そう言っていた

苦しみを、意思を無視しながら
本当に憤る
こんなことにさえ気づかなかったなんて
ただ、詫びたい

僕は恥ずべき偽善者だ
今日ほどそれを実感した日は無い
ならば、どうすればいい

神様
あなたが、全知全能の御業をもって全ての人を幸福にすればこんな問題は解決できる
だけど、それをしないということはそこに意味があるのだろう
僕等はまだ答えを得てはいない
答えを見つけたい
だから、頼みます
聖霊でもなんでもいい、僕に力をください
僕に言葉をください

なぜ、こんなにも無力だ
自己満足の行動すらも出来ない無力さ
自分の未熟さ、自分の幼さ、自分の地位の低さ、自分の無能さ
言葉すらうまく紡げない
望むべく世界を語っていたと思ったら、僕の言葉がそれに反する

ならば、這い上がる
偽善者であるならば、せめて人を傷つけない偽善者に
僕は、そうならなきゃ
そうしなきゃ、僕は僕自身を決して幸せに出来ない
僕自身が決して幸せに思えない

ああ、もう面倒くさい
傲慢に見られる内容に謙虚ぶったり、お前みたいな奴が何を言っているんだと
そう言われないために自分を偽善者と呼ぶのももうやめだ

僕は、ただ全ての人が幸福になって欲しいだけだ
そのための何かを捜しているだけだ
それを偽善と呼ぶかは愛と呼ぶかは好きにしてくれ
この世に天国を創りたい
君と一緒に






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過去の否定と、過去の肯定 そして幸せ
ノンクリスチャンさんの日記に面白記事が載っていた
「弱さ自慢 過去の罪自慢」
http://ameblo.jp/jesuslifehouse/entry-10136673875.html#cbox
確かに自慢に見えるかもしれない
でも、それでも本当にキリストによって変わったって言う人の証の中には素晴らしいものがある、と思う
要は、どれだけ酷い環境からクリスチャンになったって言うことじゃない
大切なのは、神様の愛がどれだけ素晴らしいかを知ることで
それを一番手っ取り早いのが、過去に不幸があって今がないってことだ
それが形式化して、もっともっと不幸をってなった時に弱さ自慢、不幸自慢になってしまうと思う

僕も、不幸自慢をしようと思えばするだけの材料はある
でも、しない
客観的に見たら、不幸に思えるような出来事
だけど、その中にいた僕は幸せだったから
傷ついたことも、傷つけられたこと、そして何より傷つけたこと
それは、僕にだってある
だけど、振り返ってみて
僕は、幸せな人生を生きていた
だから、僕は無理をして証をするしか証なんて出来ないんだよ
だから、僕は証をしない

不幸を経験して、そこからの脱却を果たした人はその不幸がどれだけのものだったのか
そして、それを救ってくれた神様がどれだけ凄いのか
そして、不幸の中にあった人
しかし、その中にいながら幸せを与えてくれた神様
それらを証するのは別に間違っちゃいない
過去を否定しようが、過去を肯定しようが結局のところ神様が偉大だってことに変わりはないんだもの

でも、やっぱり虚栄心ってあると思うんだ
神様は凄い
「でも」
自分はどれだけ神様に変えられたか
クリスチャンは自分の弱さを誇る権利は認められている
少なくとも、そう思っている人がいる
でも、それは強さの代わりに弱さを誇れっていうわけじゃない

虚栄心にも色々ある
単純に、より信仰深いクリスチャンに見られたいから
自分の発言権を高めるため(これを計算でやっていたら僕はそういう人は好きだ、良い人ならなおさら)
周りのムードに流されて、そうしないとクリスチャンと思われなさそうだから
そういうった理由で証するとしたら、やっぱり見える人には虚栄心に見られちゃう

証っていうのは、そう簡単に出来るものでもないと思うんだ
証する才能っていうのも、あると思うし
要は、証をしようがしまいが結局のところ君は大切な存在に変わりはないってことなんだ
自分に栄光を帰すつもりがなくても、そうなっている時はある
アメリカの教会なんか見ていると、あれ?って思うこともよくあるよ
だけど、そのやり方はやり方でありさ
ただ、全てではない

僕が言いたいことはシンプルだ
過去を否定しょうが、過去を肯定しようが
真に感動する証をしようが、虚栄心に彩られた証をしようが
結局のところ君は、素晴らしく大切な存在で
そして、愛だ
それだけは、僕は言えるよ

だから、証をしたければすればいい
でも、出来ることなら虚栄心に入った証をするのはやめたほうがいいと思う
だって、そういう証をしたら一番苦しむのは君だろう?
神様のために、何かしようとして苦しむとしたら神様はそんなこと望んでいないと思うんだ
僕もそういう姿を見るのは悲しいよ
君が何もしないから発言権が低かったり、信仰的に見られなかったとしたらそれは周りが間違っているのさ

だから、ただあなたのままでいて欲しい
あなたが望むように生きて欲しい
無理をしたければ、すればいい
だけど、望まない無理をして欲しくない
あなたが幸せであるように
あなたが自分で幸せであるという道を選べるように
僕はそう願っている

そいつは、本当なんだ




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哲学的ゾンビと、クリスチャン
クオリアという概念がある
色とか、味覚とか、音とかを単なる刺激としてではなく
僕等が実際に味わっている質感のことを差す
具体的には赤という色
このことだ
別にに見えても赤と言えば問題ない
だけど、実際に僕等はを見ている

この概念は脳の構造を全て分かれば、人間の思考を全て分かることが出来る
そう思っていた人たちに衝撃を与えた
そこから生まれた概念がクオリアが無い存在
つまり、哲学的ゾンビだ
哲学的ゾンビは結局のところ、クオリアを感じない
赤いものを見れば赤いと言うが、結局のところ実際にを見てはいやしない
だけど、結局それでも普通の人間と全く変わりないんだ
だって、クオリアが脳に影響を与えるとしたらそれはサイキックを認めるようなもの
だから、この世の自分以外哲学的ゾンビかもしれない可能性だってあるんだよ

そして人間にとってのクオリアが、クリスチャンにとっての聖霊だと僕は思うようになった
聖霊を受けたとクリスチャンが言うとする
しかしながら、その言葉が真に聖霊を受けたのか、それとも虚言のことなのか他人には分からない
むしろ、人を偽クリスチャンだとすることすらはばかれる今の状況じゃ
そういったクリスチャンの方が多いんじゃないかい?

そして、たちが悪いのが聖霊を受けたというのは他人はもとより本人ですら分からないということだ
僕は自分が聖霊を受けているかどうかなんてものは、さっぱり分からない
人に何か良いことをしたいと願う気持ちが聖霊から来ているんだよ、と聞けば「ふうん」としか返せない
聖霊に導かれて~をしに来ました、~をしています
そう言っている人間に限って、ろくなことをしていない場合も多い
だけど、本人は大真面目
ああ、こいつは自分自身をも騙しているな
僕はそう思うことが何度かあった

確信を得なければクリスチャンじゃないようなことを言うからそんなことが増えるんだ
確信を得ることは素晴らしい
聖霊の働きを直に感じて、確信のもと信仰している人は素晴らしいよ
それは、皮肉じゃなくそう思う
だけど、聖霊の働きを確信できず、自分の信仰すら不明瞭
それなのに、尚神を求める人も素晴らしいと思うんだ

全ては分からない、という風には出来ないのかな
重要なのはそこからの意思決定だろう?
この前のブログのコメントにもそう言ったことが書いてあったよ
信仰というものは選び取るものであって、決して絶対的に守らなければいけない律法じゃないと思うんだ
僕にとって、信仰の絶対化はそれだけでイエス・キリストの十字架を否定しているように見えてならないよ

哲学的ゾンビのようなクリスチャン
反応だけで、クリスチャンと同じようなことを言うクリスチャン
僕は、それをどう見ればいいのだろう
そいつを偽クリスチャンと罵るか、それでも君はクリスチャンだと称えるか
どちらにせよ、悪党か偽善者かのどちらかだな
それならば、真の愛から出る行動はなんなのか
気づかぬ間にまた課題が増える

まあ、いい
とりあえずのところ、神様の目から見たときに僕もそいつらも変わりはしないだろう
クリスチャンと呼ばず、同胞と呼ぼう
そればらば、まだましだ








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自分の考えを整理しよう
このブログを始めた時から考えると僕は随分と考えが変化した
ブログをやっている最中に仕入れた知識
色々人との交わり
その中で自分の理屈が変化していったけど、根底にある思いは変わらない

全ての人に意味と価値がある
これは、僕の信仰

全ては繋がっている
これは、僕の知識

全ての人と分かりあいたい
これは、僕の希望

この三つから、僕は万人救済説を選択した

だけど、別に万人救済説が間違っていてもいい
それより良い道があるのなら、そちらを選択する
だから、何回でも言うが僕の考えなどどうでもいい
僕は、もう神様を信じて心は救われている
そうしたら問題なのが、君の心はどうやったら救われるかなんだよ

信仰で救われたらいいよね
だけど、その解決方法も一部の人間にしか仕えないって思ったんだ
僕は、全ての人に使えるものが欲しいんだ
だから、愛を求めたんだ
だけど、僕にはその愛ってやつがさっぱり分からないんだ
愛から出た行動はなんとなんく分かる
だけど、その根源的な愛ってものがなんなのかさっぱり分からないんだ

僕は人が悲しんでいるのは嫌いだ
それが過去のトラウマにでも起因するのか
それとも心理学の共感性でも使って理解するか
それとも、僕の心の中にもあるであろう愛にでも説明を求めるか
どれもこれも、不十分
それならば、いっそ分からないことにしておきたい
そうすればもっと、根源的なこと
神様を知ることが出来る気がするから

その一方、僕は人を傷つけることは平気だ
他人が泣くであろう事、悲しむであろう事
それらを実行に移すのに、特にためらいが無い
それを恐れるとしたら理由は、全くもって自分勝手な「嫌われたくない」という想い
エゴイズムの固まり
そいつは説明が出来ると思う

この相反する二つは、矛盾せずに結局僕の中に納まっている
だけど、この2つの中のどちらかを選択しなきゃいけないときに出来ることなら前者を選びたい
その思いは、愛か偽善か
愛だとしたら嬉しい
偽善だとしてもいい
自分が偽りでも行動が善ならば、それでいい
しかし、実際は前者、後者ともによく利用する

正直な話、愛なんていう概念が説明できないのは理解している
この世の人とわかりあうなんて、現在の状況ではありえることが無いことも理解している
だけど、理解はしても了解はしない
そんな世界になんの意味がある
僕は、それを嫌う
だから、僕はそいつは決して承りはしない

自分が傲慢な人間なことは知っている
そいつについては了解だってしている
だけど、だからといって僕の全てを僕は否定しない
全ての人、つまり僕の中にも愛があると信じているから

僕は、愛が知りたい
無理なことは分かっている、今の世界じゃ
だから、誰かこの世界を壊してくれ
新しく生まれるって、ひょっとしたらそういう意味じゃないのか

ああ、ああ
パラドックスがここまで多いと疲れてくる
信仰、希望、愛
確かにこの三つは最後まで残りそうだ









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持っているものを欲しがるなよ
クリスチャンブログを見てよく思うことがある
それは、「繋がり」「絆」をやたらと重要視している
楽しそうな記事
友達の熱い紹介
彩られた写真達に見える楽しそうな人と風景
そして、良く使われる言葉
「キリストで繋がっているから、関係性が全然違う」

僕は、疑問に思うんだ
世界と繋がっていない人なんていないんだよ
なぜなら、君自身が世界で世界は君の一部だ
欲しがっている関係性なんてものは、もう既に君は持っているんだよ
僕等は生きながら、死にながらにしてもう既に全てに繋がっているんだよ

だけど、それじゃあ満足できないんだ
愛し合いたいんだ
だけど、その理由が「キリストで繋がっているから」にした時に
それ以外と愛し合うことを拒否しているだけじゃなのかい

コミュニティに属していない者とは、真の関係性を築けない
そんな馬鹿な
僕等は、本質的に繋がっていて
それでいて、同等に価値を持っている
価値を持っているというのは、そこに愛があるってことじゃないのかい?
ならば、僕等は本来誰とでも愛し合えるはずなんだよ

だけど、信仰でそれを分けてしまってなんになるんだい
イエス様は、クリスチャン同士で愛し合いなさいと、本当に言われたと思っているのかい
ならば、なぜ敵を愛せと言うのかい
僕等に境界線なんか無いはずなのに
僕等が境界線を創っている
それが悲しい世界じゃなくて、なんだっていうんだい

真に喜びに溢れた世界、真に平安に満たされた世界、真に幸福な世界
それを創りたいと言うのなら
僕等は、信仰で分けることなんて出来ないはずなんだよ
この世を愛で満たそう
僕等はそのために生きているとすら僕は思えるんだよ






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