君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



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ずたずたに生きていこう
今日の日記は、恐らくこれまでのブログの中で恐らく一番攻撃的です
誰かを傷つけるでしょう
それでも、溢れ出る攻撃性を書きます
ですから、見たく無いという人は見ないでください
本当に












改めて、思う
僕はクリスチャンが嫌いだ
特定のクリスチャンが嫌いだ
信仰で救われているか救われていないか分けるクリスチャンなんて大嫌いだ

ちくしょう
なんだって、なんだって
分からないことは、神様に任せる
僕等が考えてもしょうがないこと
だけど、それで「真理は人を自由にする」と言う
嗚呼、嗚呼、嗚呼!!

信仰だけが人間の自由意志の中で特別扱いだ
僕等の苦しみ、葛藤、喜び、平安、そして何より愛!
その全てが、「真理」の前には無駄なことだ
そうなんだよ
信仰が無ければ、どんなにかと葛藤しても、苦しんでも、喜んでも、愛しても無駄なことなのさ
なんなんだい、なんなんだいそれは!

僕等はまだいい
健常者はまだいい
だけど、知的障害者、認知症、若年性アルツハイマー、多重人格の方々はどうなるっていうんだい
どれもこれも、「信仰」じゃ救われないんだよ!
信仰を持つための前提条件が無い、身障者の方々には救われるチャンスすらないっていうのかい

それが自由か!それが喜びか!それが平安か!
ならば、そんなもの僕はいらない
一生、不自由の中に暮らしながら嘆き続けて、信仰を疑い続けよう
愛を追い求め続けよう
それでいい
自由も、喜びも、平安ももはや欲しない
それでいい

真理って一体全体何なんだい!
キリスト様を信じることかい!
じゃあ答えてくれよ、信じるってなんなんだい
知ってるかい、人間の概念は結局証明が無限に出来て結局、概念そのものが分からなくなるんだぜ
それでも、信仰が大事だってもう一度言ってみろよ

知識が無い時に、言い続けるのなら情状酌量の余地があるさ
だけど、知識が構築された
その中で暮らしているのに、それを見ようともしない
そして、特定の知識
信仰という名の知識だけしか見ないで、人々を地獄に落としていく
僕には、そいつは我慢できない
我慢することにすら、腹が立つんだよ!
僕の友達を、大切な人を頼むから地獄に落とさないでくれ!

神様!
これがあなたの望んだ民の姿なのですか?
あなたの義は聖書に現れていると言い、人々を地獄に落としていく
あなたの愛だけが本物だと言い、愛の証明も出来ないのに人々を分けていく
あまつさえ、あなたの民の中にはあなたを知らないからその人の中に愛が無いと言う人までいるのですよ?
でも、そんな人でも信仰があるから裁かれることは無いでしょう
これが、あなたが望んだあなたの民の姿なのですか?
頼むから答えてくれ!僕は真理が知りたいだけなんだ!

ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!
なんだって、信仰が一番大事になっているんだ
愛が無い信仰は無意味なはずだ
じゃあ、愛ってなんなんだよ!愛ってなんなんだよ!

なんだって、友達が地獄で苦しんでいるのを知っているのに天国に行けるって喜べるんだ?
僕には、その様が不気味すぎるよ
悲しめば、それは免罪符かい
神様に裁きを任せているから、自分は手を汚さないで済むからかい
冗談じゃない
ノンクリスチャンを地獄に落とすのはいつだって、クリスチャンさ!

真理が人を自由にすると言うのなら、なぜ未だに戦争がなくならない!
なぜ、皆本物を選ばない
全部サタンが悪いのか?
原因を全てサタンに押し付ける?
それこそ、サタンとやらの思う壺だよ

改めて言おう、反吐が出る
心の底から憤りしか出やしない
自由も、喜びも、平安も全てが虚しい
ああ、全てが虚しく感じるよ








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愛って悲しいね
最近、たまに思うことが愛ってあるのか?と、思う
愛が無ければ、僕は今の人生がとても無意味なもので
そして、とても悲しいもので受け入れられない
だから、愛があるってことで生活している

だけど、僕が考える愛ってやつはとても高尚なものだけど
別に心理学の範疇で、愛が必要な行動っていうのは大抵説明がつくんだよ
だから、人の行動を見たときにそれが愛から出たものいか
それとも行動だけなのか
クオリアにおける哲学的ゾンビみたいなものさ

愛っていうのはなんなんだろう
今まで一番しっくりきたのが「愛じゃない全てのもの以外のもの」だな
僕の中では、価値と意味を与えるものって言うのがしっくりきた
神様=愛だっていう話も出てきているけど
それだと、愛には愛自体に人格が出てきている
じゃあ、僕等=愛なのか?
だけど、それなのに悲しい出来事がいくらでもある

愛はやっぱり愛以外の言葉では説明が出来ないんだよ
それ以外の言葉で説明が出来たら、きっとそれは愛じゃないんだよ

この世に愛があればいいな
観念だけの存在だけだとしたら、やっぱり悲しすぎる

愛って悲しいね
あるかないのか、分からないんだもの
まあ、それ以外のものも本当にあるのかどうかも分からないのだけどね

僕の信仰は、この世には愛があるってことだけだ
それをいくら否定しても、結局僕の世界が変わるだけ
ああ、愛が何かを知りたいな

哲学なんか知らなきゃよかった
心理学なんか学ばなきゃよかった
ずっと、聖書だけ信じていればよかったよ
自分の知識欲の腹が立つ

「知るということは知識を蓄えることではなく、その自分の存在そのものを変えるということである」
だれの言葉だったかな
愛を知ることが出来れば、僕はどんな風に変われるのだろうか
ああ、知りたい
愛が何かっていうのを、僕は本当に知りたいんだよ





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信仰を求めるのも、金を求めるのも本質的に変わらない
100万円捧げたら救われます
信仰を捧げたら救われます
律法を守れば救われます
波阿弥陀仏を1万回唱えたら救われます

このどれもが本質的には変わらない
皆何かをしなきゃ救われない
その「何か」が違うだけだ
だから、キリスト教が宗教じゃないと言った時にそんな馬鹿なと思うのさ

そして、信仰だけで終わらないのが最近のキリスト教さ
信仰には、行いが必要だと言い
教会に属していないと、クリスチャンだとはなかなか認めてもらえず
教会に属したら、献金を捧げることをあくまで自主的に求められ
そして、伝道を求められ
価値観の変容を求められ
これの何が宗教じゃないと言うんだい

信仰があれば救われる
というのは
信仰がなきゃ救われない
というのと同意語であることをどれだけのクリスチャンは理解しているのか

宗教は、「~しなきゃ救われない」から宗教だ
キリスト教は宗教じゃないと言いながら何かを求める
それなら、性質の悪い詐欺みたいなものだよ

太陽は誰かを選んで、日を当てたりはしない
だけど、神様は信仰で区別して救いを割り当てる
自然万物に神様の性質が現れていると言うが、どこに現れているのか教えておくれ

キリスト教は宗教じゃないとか、一番正しいとか
優位性をどれだけ説いてもノンクリスチャンの目から見たら他と大して変わらない
むしろ、特別感を打ち出して他に排他的だからより一層寛容が無いように見えるよ

何かを変わりにしなきゃ救われない
それが宗教だ
僕は、出来ることならキリスト教を宗教にしたくない
だけど、そんな僕の考えは間違っていると良く言われる

だけどね
僕にとっては、宗教しているのに宗教じゃないって言う君らの方がパラノイアだよ




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頼むから僕を攻撃してくれ
僕の中の価値観が僕の中で常識になりつつある
この世の全ての人が救われるっていう考え方が僕の頭の中で当たり前になりつつあるんだ
そんなのは嫌だ
確信なんていらない、信仰だけで充分なんだ
それによって、人と分かり合えないのなら確信なんていらない

頼むから信仰義認を信じている人々、それ以外に僕に反発を覚えている人
なんでもいい
僕を攻撃してくれ

頼むから分かり合わせてくれ
僕の中の思いが僕の中で確信に変わる前に
嫌なんだよ
これは、こうだって決め付けて他の人を見下すのは
僕は、そういう人間が一番に嫌いなのにそういう人間になりつつあるんだ
だから、僕の主張を頼むから知恵を持って批判してくれ

聖書に書いてあるからとか、そんな理由だけじゃなくて
論理的かつ、知恵を持ってお前の知識は浅はかだと言ってくれ

頼むからへりくだらせてくれ
僕のこの安いプライドなんざに支配されたかないんだ
しがみつきたくなんかないんだよ
だから、僕を攻撃してくれ、僕を嘲ってくれ
傲慢になりたくないんだ

僕の考えているより、はるかに良い道があるんだろう、っていうのも分かっているんだ
だから、それを作るために協力してくれ
発展させようよ、僕と君で

相手を否定しあうのは第一段階だ
その次に協力したいんだよ
本当はもっともっと、みんなとわかりあいたいんだ

分かり合いたいんだよ!
本当に!
それだけが、僕の心からの望みだったはずなのに!

僕は自分の知識だけで満足したくなんかないんだ
もっと、入れたいんだよ
愛ってなにかを知りたいんだよ

だから、頼むから僕を攻撃してくれ



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ゲイ、バイ、レズビアン、そして僕
この問題については、過去の記事でも何度か話題にしている
だけど、改めて書こうと思ったのはブログ村の若いクリスチャンの間で
恋愛のことはやはり心の中で上位を示しているのだろうな、と思ったからだ
だけど、その恋愛の中にゲイ、バイ、レズビアンの人たちのことまで考えているのは少なく感じた

以下のURLで詳しく説明が載っています
http://homepage2.nifty.com/room30th/gesewa/c_homosexual.html

まず、最初にレズビアンについては聖書は全く禁止していない
だから、レズビアンの人に対して「聖書に書かれているから」という理由は通じない
だから、その方々は胸をはって自分の生き方で生きてもらいたい
ただ、これは嬉しいことではないんだ
聖書が書かれた時代は女性同士が自由に恋愛する、もしくは女性が恋愛をすること自体想定外だからだ
皮肉な話だ
女性差別故に書かれなかったから、今の時代は堂々と生きていける
少しばかり悲しい話だ

そして、ゲイについて
僕はゲイについては、全然問題無いという考えだ
聖書には男性同士のSEXを禁止する箇所がある
しかし、それは=同性愛の否定ではない
まず、旧約聖書に基づいて同性愛を否定することは出来ない
なぜなら、旧約聖書に基づき同性愛を否定するのならその他の律法をも守らなくてはならない
例)「結婚している兄が死んだら、家系を絶やさぬように、弟がお兄さんの妻と再婚してあげなさい」(参照:申命記25章5節以降)
守っているかい?
守っていないのならば、旧約を使って同性愛を否定出来ない
もし、守っていないのに否定するのならそれは、聖書を自分の思うがままに使っている
つまり、聖書の冒涜だ

そして、ソドムの話
ソドムの町の住人は男色を行なっていたらしいね
それ故に滅ぼされたと
だけど、よく考えてみてくれ
ロトはならず者達が御使いをなぶりものにしようとした時なんて言った?
娘をやるから、許してくれと
強姦は聖書的にはいいのかい?それとも、神の御使いのためなら娘など強姦させてもいいとでも?
そして、ロトの娘は父親と交渉をして子供を設けたね
近親相姦はいいのかい?
もし、同性愛が駄目だと言うのなら娘をならず者に強姦させるのと、近親相姦は良いということだ
だって、ロトは滅ぼされて無いのだもの

新約聖書を見てみよう
パウロは確かに男性同士のSEXを非難している
しかしながら、同性愛をパウロは否定しているわけじゃない
彼が非難したのは、他宗教の儀式的な神殿男娼
そして、少年に対する性犯罪
この二つを、非難しているに過ぎない
それでも、聖書に書いてあると言うのなら
彼が言った女性蔑視の発言全てを肯定してくれ

イエス様はなんて言っているのか
イエス様はゲイについては言及していない
だけど、性的少数者には言葉を発している
「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
とあるけど、これはかなりの意訳だ
原典に忠実に翻訳するのなら
「生まれつき(母の体内にいたときから)去勢された者がいれば、人の手によって去勢された者もいる。そして、天の国のために去勢された人間もいる」
こうするのが正しい

申命記の時代には、去勢されたものは主の会衆に参加することは出来なかった
だけど、イエス様はその律法をこういう言葉で壊してくれたんだよ
なのに、なんだってクリスチャンは未だに旧約の時代に一部生きているんだい?

律法の中で、自分が守り切れない厳しいものは「神はこのような不完全な私をも赦してくださいます」などと言って逃れ
自分が守る必要を感じないものについては、「これはユダヤ教の律法であって、キリスト教はこれを克服した」などと言って排除し
自分でも守れるな、これは、と思ったものについては、「イエスは律法の一点一角も消え去ることはない、と言われた」(参照:マタイによる福音書5章18節)などと言って、頑固に順守を主張したりする

ああ、嫌だ嫌だ
そんなのは嫌だ

なんだって、この世の全てが罪人だって言っているのに
あれが罪だとかこれが罪だとか言ってどうにかしようと思うんだい
罪に上下があるのかい
守れそうなものは守って、そして無意識に犯している罪に関しては神様任せかい
それなら最初から神様任せにしようよ

こうやってゲイの方々の人々を認めたときに
果たして恋愛の正しいあり方はどうなるんだろうな
僕には分からないや
でも、別に分からなくてもいいと思うんだ




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人の美しさ
オリンピックでも、なんでもいい
人と人が全力を尽くして、競い合う
その姿はとても美しい

格闘技の世界でもそうだ
人を傷つけることは、とても悲しいことだ
だけど、一定のルールに基づいて人を壊す術を学び
試合という形でお互いにそれを発揮する
そして、勝者と敗者が互いに互いを称えあう
その姿には、感動を覚える

それは、なぜだろう
この世に必要なものが信仰だけで
天国に行くだけが目的なら
速く走る必要も無い
強くなる必要も無い
より高く飛ぶ必要も無い
なのに、それを追い求める人に美しさを感じ感動を覚えるのはなぜなのだろう

その心こそ、人間を解き明かす鍵だと思う
そして、それこそ神様の心を解き明かす鍵でもあると思う

伝道のために、それを追い求める人
全くキリスト教に関係なくそれらをそれらを追い求める人
その人達の美しさに何の違いも見られない
ただただ、美しい

クリスチャンだから、走ってる姿が美しい
そんな目を持っている人はいないだろう
事前の知識があれば、そう見えるかもしれない
だけど、ただ何も知らずにも見て違いが分かるものだろうか

何かを追い求めている人は、美しい
それを美しいと感じる心を僕等は持っている
それでは、「なぜ」神様は僕等にその心を創ったのか
クリスチャン、ノンクリスチャン関係なく
ただ、速く走る人、ただ強い人、ただ高く飛ぶ人
その人たちに、「なぜ」美しさを感じるのか

考えよう
僕にも答えはまだ出ていない
ただ、この心は大切にしたいと思っている
僕がは人間らしさをそこに求めているから




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俺は本当の神を憎んだことは一度も無いが、人々が信じる神は大嫌いだ
タイトルは、僕の言葉じゃない
マリリン・マンソンの言葉だ
アンチ・クライストとして、名高い彼の言葉
僕は、別に彼のシンパじゃない
だけど、この言葉の言いたいところはよく分かる

マリリン・マンソンに限らず、キリスト教会特に保守派から非難される人は多い
その、免罪符は「サタンの影響」があるから
でも、おかしいじゃないか
反対している人たちの中に、どれだけマリリン・マンソンを聞き込んだ人間がいるんだろう

サタンの影響があるから、聞かない、見ない、触れない
しかし、サタンの影響があることは、聞かなくても、見なくても、触れなくても分かる
おかしい話だな

僕が昔行った保守派の集会は面白かった
サタンの影響があるから、テレビは見ない
マイケル・ジャクソンのスリラーも駄目
神社もサタン
というよりは、教会の外側は全てサタンの影響化である
スライド入りの絵で教えてくれたよ

なあ、君が本当にクリスチャンだと言うのなら、自分の目で見てから判断しろよ
出来るだろう?
君が聖霊に満ちているのなら、サタンなんざに打ち勝てるはずじゃないか
それを、見もしないでわざわざこれはサタン、あれもサタンと決め付けるのはどうかと思うよ

霊的に悪いもの、とよく聞くがそれはなんなんだい
キリスト教会以外の宗教関係全てを霊的に悪いもの、と決め付けてやいないかい
もし、そうなら反吐が出るよ

そろそろその信仰で人を見るくせはやめた方がいいと思うんだ
「あの歌手もクリスチャンらしいよ?」
「あの有名人もクリスチャンらしいよ?」
「あの議員はクリスチャンだから信用出来るね」
こんな不毛な会話はやめようよ
クリスチャンでも信用できない人なんてざらにいる

その人の本質を見ようとするときに、信仰というぶ厚いフィルターを通して見てなんになるんだい
信仰を持つのは、素晴らしいよ
だけど、それを目の中の丸太にしてしまったらどうしようもないだろう

もう一度言うよ
自分の目で確かめな
見も、聞きも、触りもせずに批判してるんじゃない
情報だけじゃなく、心で判断しな
僕等は、見たり、聞いたり、触ったりしなきゃその人を分からないんだから
君がサトリだったり、サトラレだったりするならは話は別だかね






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軸がぶれている
日曜日に教会に行った
「軸がぶれているんじゃないかい?」と言われた
ああ、前も誰かにそんなことを言われたな
僕は、そんなに軸がぶれているように見えるかい

それは、間違いだ
僕はその軸すらまだろくに出来てやいやしないんだもの
軸ってなんなのか
それすらよくわからないよ

思想、信念、信条、信仰
自分の人生の指針になるもの
そうだと、言うのなら僕にとっては信仰だな
だけど、僕の信仰は人生の指針になんてなりやしない
僕が、立派な大人になって人から満足されても
僕が、落ちぶれて悲しみに心が枯れても
神様の愛は等しく、僕に注がれる
僕の信仰は、そういうものだ
僕がどうだこうだとかは、正直関係ない、どうでもいい

だから、僕が生きるときは信仰以外の何かを持たなきゃいけないんだよ
そうすると、僕にとってはこのエゴイズムでしかない

世界と僕が食い違っているとしたら、それは世界が間違っている
少し前まで、そう思っていた
だけど、違った
僕の世界と、君の世界が食い違っていて
僕の世界では、君の世界では間違っていて
君の世界では、僕の世界が間違っていて
僕の世界では、僕の世界が正しくて
君の世界では、君の世界が正しくて

その二つが交わればいいのに
そうすれば、クリスチャン、ノンクリスチャンなんてものは意味を失くすのに
僕は、別に軸が無くても生きていける
飄々と生きていたい




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世界と僕とクリスチャン
クリスチャンは聖書が、人生の指針である場合が多いと思う
僕自身、聖書は人生の指針の一つだ
だけど、それだけじゃ歪む
それは、僕は確信を持って言えると思う

クリスチャンは「王」を求める
神さまという名の王を求める
ただ、その全貌は知らない
聖書を使い、断片的に神さまの言葉を言っている
だけど、何回も聞くけど神様の全てがその本に全て収まっていると確信を持って言えるのかい?

なぜ、聖書の記述がパウロ辺りで止まるんだい
預言者が書き記したものは、もう他にないのかい
あったとしたら、それはなぜ聖書にならないんだい
今の時代にも預言者はいるって言うじゃないか
その人たちの残した書物をなぜ、聖書にいれないんだい
一点一画も足したり引いたりしちゃ駄目だからかい?
でも、ヨハネの黙示録を書いたときは今の聖書の形は出来上がっちゃいないぜ

それは、自分達の主張をどうしても変えたくないからだと思うんだ
信仰義認説は正直限界がある
「信仰」出来ない人たちは、全員地獄行きかい
健常者だけに許された宗教なんざ反吐が出る
違うと言うのなら、納得のいく説明を誰かしてくれ
今まで、一回も聞いたことがないんだよ
公平な神さまと言うかも知れないが、全員に伝えてなければ不公平な神様さ

思うんだ
この世界を見たときに、そこに現れている神様の性質は「調和」だと
のだめカンタービレでも言っていたよ
だけど、今のクリスチャンは「統制」を求めている
聖書を武器にしてね
それは果たして、神様の想いと合致しているのかね
イエス様が、神さまの愛を説いた
だけど、今のクリスチャンは旧約の時代に戻って心の中でノンクリスチャンを虐殺している
剣を聖書に持ち替えて

植物は調和を作り
動物達は、リーダーを作るが他の動物達と調和して生きている
ねえ、なんだってクリスチャンは統制しようとするんだい?

神様を信じるのが楽しいのは結構だ
だけど、辛い人だっているんだぜ
ゲイの人はそれだけで、人格を否定されている
「そんな、あなたも神は許していますよ」って言うかもしれない
だけど、それは暗にゲイは駄目だって言ってるだけなんだぜ

楽しい、楽しいで信仰生活なんかやってられるか
苦しい時もあるさ
なんで、信じてしまったのかと思うときだってある
僕はクリスチャンホームだから、ノンクリスチャンからクリスチャンになった人の気持ちはわからない
だけど、最初から信じててもこれだけ苦しい時もあるんだ
そうじゃない人は、どんな悩みがあるのだろうか

熱くなれ、成長しよう、輪を広げよう
そういった言葉を聞くけど放っておいてくれよ
そういった言葉が大切な時もあるよ
だけど、画一的になってもどうしようもないってことは歴史を見れば分かるだろう?

一面しか伝えるんじゃない
多面的なクリスチャンを知ろうよ
分かり合おう、そして調和しようよ
なんだって、統制しようとするんだい





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死んだ人を思うとき
思えば、僕が大人になるに連れて周りの人たちも年をとる
当たり前に、周りにいた人たが年をとり
そして、死ぬ
この当たり前の出来事が最近辛い

去年、大切な人が死んだ
僕が生まれた時には、もう初老の男性
もう一度、良い形で再開したかった人
その人が死んだ
その人はクリスチャンだった
その人は絶対天国に行っているはずだ

だけど、なんでこんなにも心が痛むんだろう
なぜ、喜べないのだろう
彼は天国に行っているはずなのに

昔、父親が死んだ
心から泣いた
あの時は、天国か地獄なんて考えていもいなかった
ただ、いなくなる
もう、少なくともこの僕が僕でいるうちは
遊んだり、話したり、笑ったりすることが二度と出来ないことを
悲しんだ

天国に行っているから喜ぼうとは言うけれども
いないことがただ悲しい
ただ、ただ悲しい

死ぬ時に神さまを信じていれば天国に行けるのかな
死ぬって、いつ死んだことになるんだろう
むしろ、生きているってなんなんだい

ねえ、神さま
僕等は、あなたを信じてると言葉で言います
だけど、僕は言葉以外のものは持っていないんです
生と死は、言葉以外のものも入っていますよね
僕等は、何を信じればいいのでしょう
僕等は白雉のまま過ごせばいいのでしょうか
知恵の木の実は、ただただ無駄だったのでしょうか
僕等は自由意志を持っているのでしょうか
僕は生きていますか?
あなたは、どこにいるんですか?
量子論でも、超ひも論でもあなたはどこにもいません
なぜ、聖書にしか現れてくれないのですか?
なんで、パウロには直接現れて僕には現れてくれないんですか?
こんなにも、あなたを望んでいるのに
信じたいから、見たいんじゃありません
ただ、あなたに会いたいんです
僕の父がどこに行ったのかも聞いてみたいんです

問いかけても、僕の心は頑なだから都合のいい言葉を聖霊の言葉にはしてくれない
だから、決めたんだ
森羅万象に神様がいるということを
知恵をつければ、神さまに近づけると
バビロンのように滅ばされようとも
ただただ、神さまに近づきたいんだ
人を愛するために

先に死んだ人たちが地獄に行ったなんて、とても言えない
だから、そう言わないために問いかけていく
そう、言わないためにも人を愛したい

揺ぎ無くなりたい



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ブログのコメント欄について
僕のブログは色々意見がある人がいるので、コメント欄が議論の場になることがあります
また、僕と当人ではなくその人と別の人が議論になることもあります
それ自体は、全くかまいません
僕の記事にコメントをし、それが議論の種になること
そして、その議論がコメント欄でにぎわうこと自体はむしろ僕にとっては望ましいことです

それは、僕の目的が「分かりあう」ためだからです
そのために、このブログで議論を交わされることはとても嬉しいことです

しかし、それが極端に自分の持論の正しさを証明するために相手を否定するために
相手を落としたりするのは駄目です
それは、僕のブログでは駄目です

ただ、大抵のことならどんなコメントでも許容しますので
言いたいことがあったら、どんどん言ってください





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愛を知り、なおも一人でいる時
僕は、人といる時に心から安心する
関係性の中の、愛に埋没し
そして、それを絶対視する
孤独は、不快なものであると決め付けて
胸の痛みから逃げるように
誰かを求める

だから世界平和を謳い
人々を価値あるものと捉え
宗教を信じ
そして、神様を求める

だけど、この世に僕が一人ならば
この世界が実は一人ぼっちだと気づいたら
そこにあったのは、とても悲しくも穏やかな気持ち

緩やかな時の流れを受け入れ
自分が何もせずに時が流れていくのを受け入れた時に
湧き出る、心

理論も感情も感覚も薄れ
世界の一つである自分
世界が自分である時間
その瞬間の悲しくも穏やかな時間

それはいったい何なのだろう
愛とはなんだ
平安は人と人との間にあり
そして人と人との間に、決して無い

生き急ぐことを辞め、諦めた時に出るもの
僕もアジア圏の人間だということか
達観していても、何も始まらない
だけど、何も終わらない
時間の軸は進まず、世界は平面の一枚の絵になる

この世界が分からない
愛が分からない
神様が分からない
何より、自分が分からない

だけど、止まれない
止まる気も無い
自分の思想、信念、理想
その全てもがくだらなく
また、価値の無いものだということを僕は自分に言う

そのままに生きて
何を得ても、もう満足しないことは分かっている
次の世代に期待することすら傲慢だと言う事も分かっている
救いが欲しい

依存、自立、その2つの間で迷う心
僕は何も傷つけたくない
誰にも傷つけられたくない

生も死も、今はどうでもいい
僕は揺ぎ無くなりたいんだ





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大切なものは、いつだって現実の中に
伝えたいこと、したいことはクリスチャンへの攻撃じゃない
クリスチャンに牙を向くの理由は一つだ
僕がクリスチャンに牙を向いているのと同じくらい
クリスチャンはノンクリスチャンに牙を向いている、ということ
僕が、酷く攻撃的に見えたなら
その姿勢はいつだって、君の姿勢なんだよ

いや、本当に伝えたいことはこんなことじゃない
伝えたいことは、いつだってブログのタイトルに書いてある
君が生きている
それこそが、愛の証明でありこの世の素晴らしさを語るものなんだ

僕は、クリスチャンだ
だから、神さまの存在を失くしてしまっては、君の存在を喜べない
それが、自分自身でとても悲しい

だけど、この世の全てのものは神さまから来たと聖書には書いてある
この前の記事のコメントに神=愛という図式が出てきた
もし、それが当てはまるというのなら
この世に愛無きものなど、無い
なぜなら、全ては愛から来ているのだから

愛から生まれるものが、愛以外であろうか
もし、そうならば愛の価値など何処にも無い
愛から悪が生まれることなどないからだ

そもそも、ノンクリスチャンに愛が無いと誰が言えるだろう
真の意味でボランティアに励むもの
家族のために貧困に立ち向かうもの
戦争により多くのものを失い、なお平和を実現しようとするもの
親が子を慈しむ気持ち
友人を大切にする気持ち
恋人を幸せにしたいと望むその心
彼らは神を知らないから、本当の愛は無いと断罪することが誰に出来るのか
僕には、そんなこと出来ない

ノンクリスチャンの中に愛が無いと言うのならば僕の信仰など無に帰す
僕は、人と人との関係性の中に神様を見た
人は、関係性の中に愛を見つける
いや、愛に気づく
自分の中に眠っている愛
他人の中に眠っている愛
その二つが交わることにより、初めて人は愛を見る

僕等は、愛に気づく
そして、救いに気づく
そこにあるものに気づいた時に、人は喜びを感じ平安を感じる
それこそが正に福音であると、僕は思う
なぜ、その福音が信仰により人を二分するものに変わってしまったのかは僕には分からない
そう、まったく分からない

神様は愛だ
それにより創られた僕たちも、また愛だ
互いに愛し合いなさい
この、名詞である僕たちが生きていくこと
それこそが、正に愛するということ
愛を実践することだと、僕は思う

だから、君が生きている
そのことこそが、何よりも素晴らしい
何よりも愛の証明
何よりも喜ばしいこと

そのことが、本当に伝えたいこと
山を動かすほどの信仰は、それを伝えるための手段にしか過ぎない
イエス・キリストの言葉に帰ろう
互いに愛し合おう

クリスチャンが、ノンクリスチャンに伝道という形で愛そうとしても
ノンクリスチャンがクリスチャンに愛を注がなければ
ノンクリスチャンがクリスチャンを自分の世界にいれなければ
それは、「互いに愛し合っている」とは言えないんじゃないか

互いに愛し合う
それは、他人を自分の世界の中に入れること
そして、自分を他人の世界の中に入れてもらうこと
僕は、それは人から教えてもらった

互いに愛し合おう
そのために、認め合おう
そして、理解しあおう
君が大切なんだ





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詩を書きました
詩なのかな?
とりあえず、思いついたので書いてみました


「狂いたい」
狂いたい
この逸脱した感情に身を任せて
煙草の火がじりじりとその身を焦がし、その吸殻が地面に捨てられ
なおも分解されずに、塵としてその身を残すように
この世界から、煙という形で溶け込みながらも、その後が人々から忌み嫌われるように
狂いたい
なおも狂いたい
何かに繰られるように、脳内の何かに操られるように
身を任せて
そして、そこに飛び込み
大切なものが、何もかも壊す対象にしか見えなくなるまで
そして、その狂気を見つめ静かに笑い
その先にある愉悦を、噛み締めながらその先を生きていたい
その時に、大地震、隕石が落ちてきたとしたらなんともったいないことだろう
人間の狂気の果てにある、愛の果てと同じものを見るその詩悦
そこに飛び込みたい
知識を蓄え、なおその知識を笑い飛ばし、脳内の全てのニューロンの働きを分かりなおそれを越えた感情を
感情というにも、もはやもったいないその感覚を
熱が引く前に
この、心のどこかから沸きあがる熱が、心の泉に消される前に
燃やしつくし、なおも生きたい


僕は、世界平和を心から望んでいます
だけど、一方でこういう気持ちも確かに存在する
人間ってそういうものだろう?
だから、僕はまだまだ人間が分からない





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大宣教命令を信じているのなら、毒を飲んでくれないか
大宣教命令がなぜ、マタイによる福音書からなのかが疑問だった
マルコによる福音書にも同じように、書かれているのに
なぜ、マタイによる福音書だけが取りざたされるのかが、僕には疑問だった
その疑問が僕は少しだけ解けた気がした

マルコによる福音書には、マタイによる福音書に書かれていない一節がある

マルコ16:17~18 信じるものには、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らは私の名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびを掴むであろう。また、毒を飲んでも決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。

君が逐語霊感説を信じて、大宣教命令を聞くというのならば毒を飲んでくれ
そして、決して害を受けないということを証明してくれ
それが、出来ないのならば大宣教命令を語ることも逐語霊感説を語る資格もない
なぜなら、その時点で聖書の言葉を取捨選択しているからだ
あれは、する けど、これはしない
それじゃあ、スジが通らない
だって、そうだろう?
一部だけを切り取って、他の部分を捨てることは逐語霊感説では一番のタブーのはずだもの

神さまを試してはならない、と言うかも知れない
しかし、その言葉は無意味だ
僕は、神さまを試してなんかいない
僕は、君を試しているんだ
僕は、人を試しているのだから
それは、聖書で禁止されていたっけかな

僕が伝えたいのは、本当はこんな皮肉じゃない
もっと痛烈な批判だ
信仰よって救われる、信じなければ地獄に行くと言っている人たち
そして、その根拠を聖書に求める人たち
その人たちは実は、自分達が主張するように聖書の御言葉に従っていないという事実
自分の好いように聖書を使っているという事実
僕はそれを、伝えたい
そのくせに、未信者には地獄に行くと伝える
そんな現実が許せるか




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聖書の御言葉を軽々しく使うのは嫌いです
僕は、聖書の御言葉をブログに書くのは好きじゃない
聖書の御言葉を使って、自分の言いたいことの背景を伝えるのも好きじゃない
それは、聖書の御言葉を書いた辞典で僕にとってそれは聖書の冒涜になるから

一部を切り取って、自分の言いたいことの背景を伝える
それは虎の衣を借る狐に近いと思う
聖書に書いてあるから、これは正しい
聖書の書いてあるから、これは間違っている
「私はこう思う! だって、聖書のここにこう書いてあるじゃないか!」
そんなのは嫌いだ

パウロの言葉を借りる時なんか特にそうだ
題名に、~への手紙と書いてあるのにその時代背景を考えずに
現代の生活に何の疑問も持たずに、そのまま同じ事を言う
それじゃあ、チューリングテストでいう「中国語の部屋」だ

例えば、僕が合気道の練習中に「人のやっていることをよく見て、その通りにやれ」
と、後輩に教えたとする
だけど、後輩がその言葉をテスト中に思い出して、その通りにしたらカンニングだ

言葉にも適材適所というものがある
歴史的背景と文化的背景を無視した時に、人は聖書の言葉を「利用」する
もし、本当に聖書の言葉を守りたいのならアーミッシュにでも入ればいいさ
そして、エホバの証人のように輸血を拒否すればいい

輸血に関しては、歴史的背景を考え解剖学が発達していなかったからそのような考えが生まれた
現代のクリスチャンは、それを分かっているから輸血を受ける
なのに、自分達の教義に関することに関しては
意識的、もしくは無意識的に「あえて」歴史的、文化的背景を無視している
自分達の都合のいい時に、読み方を変える
自分達の都合のいいように、聖書を読む
そして、その読み方が「真実」だと伝える

クリスチャンのの人の中には、そういう人も多い
「信仰で救われるって、聖書にはっきり書いてあるからね!」ってね
でも、「書いてあるけど違うことも書いてますよね? 背景を考えると違うんじゃないですか?」と言うと
「でも、聖書に書いてあるから」
の一言で終わる
随分短い六法全書だな、ちくしょう

大切なのは、聖書の言葉を実践することじゃないと思う
聖書を読むのは大切だ
しかし、自分の持っている知識
歴史学、科学、医学、心理学、哲学、倫理学、政治学
それを交えて読まないと、神様の言いたいことは伝わらない
歴史学と政治学が抜けただけでも、下手したら聖書は共産党的だと言われても何の批判も出来ない
科学と医学が無いと、先にあげた輸血の問題が出てくる

自分の持っている知識とあわせて、聖書を自分の中で租借し、吸収する
それが、正しい聖書の読み方だと思う

福音書には何の脈絡も無く「読者よ、悟れ」と書いてある箇所がある
僕は、その問いかけはとても大切だと思うんだ
信じれば救われます
バムテスマを受ければ救われます
おかしいな、結局儀式的になっていやしないかい?
それは、儀式的な生活をしていた律法学者やファリサイ派の人々の教えを簡略化しただけじゃないのかい?

だから、軽々しく聖書の御言葉を使うものじゃない
あれは、何だかんだ言って神聖なものだ



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違和感 抗う そして、暗い暗い感情を
僕は、ずっとキリスト教会に対して違和感を持っている
クリスチャンとノンクリスチャンの壁を感じる時に、違和感を感じる
でも、だからといってクリスチャンが皆、駄目な人たちか?
それは、全然違う
むしろ、あそこは凄く居心地がいいんだ
僕にとっては

生まれた時から、ほぼ教会に通っていた僕にとって
クリスチャンのコミュニティはとても居心地が良い
賛美歌を歌って、聖書を読み、メッセージを聞く
それは、とても居心地が良い

そんな中にいると、キリスト教の否定とか正直どうでもよくなる
みんな、それぞれに生きて頑張っているからいいじゃないか、なんて気にもなってくる
でも、それじゃ僕は満足できない

だから、その居心地の良さに抗って暗い暗い感情が欲しくなる
攻撃性を心に留めておかないと、すぐに僕は人を肯定したくなる

だって、信仰で人を分けるなんておかしいじゃないか
信仰が全てに勝る教えなんておかしいじゃないか
天国にいくための切符としてしか、むしろ見ていないんじゃないのかい

クリスチャンの離婚、不倫、家庭崩壊なんて事例は探せばざらにある
教会に行っていた若者が、セックスを経験して教会から離れるなんてものはメジャーなものだろう
信仰があって立派な人もいるだろう
信仰があって幸せな人もいるだろう
だけど、全員がそうなるって言うのならそいつは嘘つきだ!

「信仰があれば、神さまの御手の中に守られる」なんていうのも嘘っぱちだ
クリスチャンでも殺人事件に巻き込まれる
バイキングの時代、イギリス圏はキリスト教圏だった
だけど、バイキングによって女性達は乱暴された
「クリスチャンであるにも関わらずに」な!
そして、そんなことは日常茶飯事なのがこの世界だ
それとも、事件に巻き込まれるクリスチャンは偽の信仰だったから神さまが罰を与えたとでも?

全てを「神さまの想い」にして、自分の中の不快感情を全て自分のせいにして自己否定をし
全てを「神さまの想い」にして、自分の中の快感情を神さまのおかげとして神さまに依存していく
恐ろしい、内発的動機づけだよ
そして、いつしか神さまへの依存がアイデンティティになり
信仰を持たない人をアイデンティティの無い人間として見る
そんなものが、正しいわけが無いだろう
そして、神さまなんていないと言うとアイデンティティを否定されたように感じる
そんな経験を持っているクリスチャンは多いだろう
せっかく森羅万象があるのに、自分の内的世界だけで自己を作る
そっちの方が、僕にとって神さまを侮辱しているとしか思えないさ!

金を求めても、与えられしない!
当たり前だ、あの聖句は元々求めれば何でも与えられるって聖句じゃないだろう?
なのに、似たような解釈で人々をひきつけて
物事がうまくいかなかったら「神さまの時」を持ち出す
結果があるからと、努力を推奨し、叶わなかったら神さまの想い
なんなんだい、それは
なんなんだい、それは?
やる気が無くなるか、依存するかのどちらかだぜ

だから、その一人ひとりがコミュティになった時に恐ろしい力を感じるよ
クリスチャン一人ひとりはむしろ好きさ
だけど、彼らが作り出すグループダイナミックスはむしろ怖いよ

クリスチャンの友達だから
クリスチャンの恋人だから
クリスチャンの企業経営者だから
だから、祝福される?
ノンクリスチャンに幸福な人はいないって主張を繰り返すその姿勢に僕は疑問を感じるよ
「本当の愛を知らないから、幸せのはずがない」
もし、その主張を言うのなら

まず、僕に「愛」が何かを教えておくれ
僕は、「愛」ってものが本気で分からないんだよ
何を持ってすれば、「愛」なのか

僕に論理的に教えておくれ


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何も証明できない、何も知らない、だけど何かは出来る
人間が「証明」という概念を考え付き
そして、それが不可能だということを証明した
妙なパラドックスだけどそれが事実なんだ

だから、本質的に僕たちは何も知らない
何も証明できていないから
僕等はただ、「信じている」だけ

もっと、端的に言うならば
この世に事実などなく、全てが仮定の下に動いている
だから、僕等の信仰は信仰止まりだ

クリスチャン達がこの世の人に言う言葉の中にこんなものがある
「よく、神さまいないって信じているよね? そっちの方が驚きだよ」
これは、半分は正解だ
神さまがいないというのも確かに信仰の一つだ
だけど、それを驚くのは間違い
なぜなら、神さまを信じているのも信じていないのも知識的なレベルでは何一つ変わらない
どちらかがどちらかを卑下した時点で、自分を無意味に正に無意味に絶対化しているだけに過ぎなくなる
その姿は虚しい

僕等は何も証明できなく、何も知らない
だから、何も出来ないのか
そうでは無いと、僕は信じている

僕は、聖書を信じている
僕は、愛を信じている
そして、その愛が全ての人の中にいることを信じている
自分で、勝手に信じているだけ
その方が都合がいいから

だけど、そう考えないと僕は全ての人に価値があると思えないんだ
僕は、全ての人に価値があると思いたいんだ
だから、信じている

この世に常識なんてものは存在しない
皆、自分の世界の中でこれが常識だと言い合っているに過ぎない
神さまは絶対いる?
そうはっきり言うクリスチャン
なんとなくいると思っていると言うノンクリスチャン
僕は、後者の方が好きだ

だって、神さまのことを僕等は知らないのだから
全知全能の定義すら分からない
なのに、知っているって

だから、謙虚になろう
僕等は所詮信仰者
ノンクリスチャンに伝えたいと思うのならば
まずは、ノンクリスチャンに仕えるものにならなきゃ

そして、分かり合わなきゃ話にならない



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聖書が教える恋愛、結婚
大学三年生の時だったかに、「聖書が教える恋愛セミナー」とやらに参加したことがある
内容は、今の恋愛の価値観の間違い
そして、生涯一人だけを愛する素晴らしさについて語っていた

内容はそれなりに良かったと思う
だけど、僕には納得できないところが多々あった

まず、データと聖書の使い方だ
あまりにでたらめで、これじゃあ僕ならカルト認定だ
例えば「世の中の四人に一人ができちゃった結婚でその内の60%が結婚を後悔しています」みたいなのとか
でき婚じゃない人の統計も出せよ
そして因果関係調べて相関関係調べて5%水準で統計処理をしろ
話はそれからだ

そして、一番気に食わなかったのは
「聖書は一貫して、生涯一人の人だけを愛することを書いています」
っていうセリフだ
そんなわけはないだろう

旧約時代は、一夫多妻制
パウロに至っては、結婚なんてくだらないとさえ言っている
何を持ってして、そんなことを言うのだろう

生涯一人の人だけを愛するのは素晴らしいことだと僕も思うよ
でも、それを適当なデータと適当な聖書解釈で話されてもどうしようもない
頭が良くて、知識がある奴が聞いたら笑い話にしかなりやしない

そういえば、浮気の定義についても言っていたな
僕は、キスをしたら浮気とした
皆はそれに驚いていた
「彼女が他の男と二人で遊んでもいいの?」って

かまいやしないよ
それは人によるだろ?

束縛を嫌う人もいれば、束縛が好きな人だって入る
だけど、それは人それぞれだ
恋愛なんて、どうせ人それぞれなんだもの

聖書を使って、恋愛を紐解くことなんてどだい無理だと思うんだ
そこは、知恵を使うところだろ
もし、素晴らしい恋愛をしているクリスチャンカップルがいたとしたら
それは、きっとその二人が素晴らしいんだよ
それこそ、聖霊様の力かもしれない

もっと、視点を色々使おうよ




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攻撃をしよう
クリスチャンの世界の中で、タブー視されているものが攻撃だと思う
右の頬をぶたれたら別の頬を差し出せ
汝の敵のために祈れ
裁く無かれ

こういった聖句のために、攻撃や否定が駄目だという風になっていると思う

そのために、キリスト教世界では自浄作用が消えたと思う
例えば、熱心な福音が聖句を掲げて伝道をしているとする
でも、そのやり方や思想が他のクリスチャンと違っていても
それは、違うんじゃない?
って言えなくなっていると思うんだ
聖書に書いてあるって言ったもの勝ちの世界
そして、色々な角度から見ようとしても、「聖書に書いていないから」
否定しようと思っても出来やしない

聖書に書いてあることはとても素晴らしいことだと思うよ
だけど、それに凝り固まっていても見えないものがあると思うんだ
例えば、自然万物の中に神さまの栄光が現れているって言うじゃないか
人間の思考、知識はその自然万物の中になぜ含まれないのか?
科学、哲学、心理学、倫理学も僕は自然万物の中に入れるべきだと思うんだ

だから、今の科学、哲学、心理学とかそういったものを否定するのは
結局のところ神さまの栄光を否定していることに他ならないと思うんだ
僕にとっては、チェ・ゲバラだって神さまの栄光を表していると思うよ

大体、イエス様だって律法学者やファリサイ派に喧嘩を売りまくっていた
神殿で相当怒られた
だから、攻撃や怒りや相手の否定っていうものは
現代の世界ではまだあってしかるべきものだだと思うんだ
じゃなきゃ、間違った道に行っても誰も止められない
出来ることといったら異端認定ぐらいなものだ
それは、無関心というものじゃないのかい

堂々と、攻撃をしようよ
否定しあおう
殺し合いに発展しない程度なら、是非するべきだ
だって、そうしないと分かり合うことすら出来やしない
君とは意見が違うようだね、それじゃあバイバイなんてのはあまりに愛が無い

僕にとって悲しいのは断絶を断絶のまま終わらせること
分かり合うことを放棄すること
それは、悲しすぎる
だから、せめて殴り合ってでもいいから分かり合おうよ

そうじゃなきゃ、この世界が悲しすぎる



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実はイスラエルが嫌いです
色々な教会でイスラエルのために祈りましょう、とよく聞く
そのたびに、僕はむしろパレスチナの方に祈りたくなる
なぜなら、イスラエルのことが正直嫌いだからだ

イスラエル人は、かわいそうな民族
そういうイメージを持っているクリスチャンは少なからずいる気がする
或る意味では、そうだろう
だけど、そこまで可哀想だとは思わないんだ

中東戦争でどれだけ、人を殺したと思っているんだい
殺し合いのさなか、イスラエル人はパレスチナ人にホロコーストと言って差し支えないことをやってのけた
昔、自分達がホロコーストを受けたと言っておきながら、自分達は平気な顔をしてやる

こんな状況なのに、聖書の預言が叶ったからハレルヤと言うのかい
僕は、言わない
なぜなら、人がたくさん死んでいることを喜べないからだ

嫌いなのは、キリスト教に関わることならなんでもかんでも賛美し肯定する姿勢
韓国だってそうだ
なんだって、韓国にクリスチャンが多いと思っているんだろう
リバイバルが起きたのも要因の一つかもしれないよ

だけど、事大主義と牧師によるアメリカ市民権獲得
そういった面を見ずに、とりあえずキリスト教徒が増えたみたいだからハレルヤと叫ぶ
キリスト教以外の視点は持っていないのかよ

世界は、神さまが創っている
だけど、聖書が世界を創っているわけじゃないんだぜ
色々な視点からものごとを見ないといけないんだ

例えば、韓国のクリスチャン率が日本よりはるかに多いのなら
なんで、犯罪率は日本の方が格段に低いんだい

信じきる、という言葉は美しいが盲目的でもあると思う
色々な視点を持って、なお聖書に立つならまだ理解できる
だけど、色々な視点を否定し聖書にたつのは僕はもはや信仰とは言わないと思う
それは、信じているんじゃなくて絶対化しているだけなのだもの

もっと、知識を蓄えよう
情熱だけでなんとかなる時代は終わったと思うんだ



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