君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



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どの人生も同様に価値が無い
僕等の人生に価値などない
ただ、生きて死ぬだけだ
僕等の存在は、後世の世に影響を及ぼす
しかし、ただそれだけだ

神さまを抜きに話をすると、僕はこうなる

そう、どの人生にも同様に価値が無い
意味もなければ価値も無い
ただ、生きているだけだ
その、意味と価値を与えてくれるのが神さまだと僕は思っている

そう考えると、意味と価値の無い人生などどこにも無いと思うんだ
愛が無ければ、山を動かす信仰すら意味がなくなると言う
だったら、この世で生きている人に意味と価値があるのなら
僕等の中には、愛があるんじゃないか?

互いに愛し合いなさい
イエス様は新しい掟をこう制定された
さして、それを守っている間は、イエス様に繋がっているとすら言われた
この世の人の中に愛があれば互いに愛し合っている
じゃあ、誰一人としてイエス様に繋がっていない人などいないじゃないか

信仰で分けるより、愛でわけたほうが話が早い
だって、イエス様が言った新しい掟は「互いに愛し合いなさい」なんだもの
だったら、この世の中にそれに漏れている人はいない

いると言うのなら全員が漏れている
だから、全ての人は救われる
なぜなら、全ての人がイエス様に繋がっているのだから

この理屈がおかしいというのなら
信仰義認説で僕を納得させておくれ

きっと僕は納得しないだろうけど



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救われない人々
信仰によって救われる
この言葉が僕はとても疑問なんだ
そもそもなんで信仰がなければ救われないのか
それだと、一部の人間しか救われないじゃないか

信仰が条件だと救われない人がたくさん出てくる
まず、言語が分からないレベルの知的障害者の方
認知症、もしくはアルツハイマーの方
信仰の意味を理解する以前に、罪を犯して死んだ幼児(殺人の最年少は二歳)
キリスト教を知らない未開の部族
キリスト教を知らないアフリカ諸国の子供達

この人たちは、地獄に行くのか?

そうじゃないと、よく聞く
その、そうじゃない理由に僕は意地悪く反論したい

障害者の人たちには、「言葉では分かっていなくてもきっと、なんとなく神さまを感じているはずだよ」
と、よく言う
その理屈はノンクリスチャンの人には使えないのかい?
ノンクリスチャンには信仰がないと地獄へ行くと言うのに、なんだって障害者の方には特別扱いなんだい?

認知症の人たちには、「神さまは公平な方だから、必ずチャンスはあるはずなんだよ」
なるほど、チャンスを逃す方が悪いということか
そもそも、健常者に比べて極端にチャンスが低いんじゃないかい?
公平だというのなら、奇跡の一つぐらい起こしてもらわないと割に合わないだろ
なのに、結局は神さまは正しくて、全ては本人の責任かい

信仰を理解する前に罪を犯して死んだ幼児に対しては、何も聞いたことがない
そもそも、事例が少なすぎるよね
でも、そういう子供も現実に多くいると思うんだ

福音を知らない人たちについては、「だから、僕たちは地の果てまで信仰を伝えなくちゃいけない」
答えになっていないんだよ
実際、伝道されていない人たちは運が悪かったで済ませるのかい?
それとも、周りの責任かい?
信仰は、神様と自分の一対一の関係じゃなかったのかい?
他の人の助けが必要ならば、そもそも一対一の関係じゃないだろ
なんだって、矛盾したことばっかり言うんだい

イエス様が、病人を癒されたときにいちいち「私を信じるか?」って聞いたかい?
違うだろ
まず、「あなたの罪は許された」って言ったじゃないか
信仰の有無なんて確かめていないだろ

まず、信仰で人を計りその次に、行いでクリスチャンかどうかを計る
いつまでたっても終わらない、自己否定の方程式

なあ、ブラジルにいる子供達は地獄に行くのかい
そこに神父がいようと経済格差のためスリを働き、体を売る子供達は地獄に行くのかい?
もし天国に行きたいのなら、罪を犯すなって言うのなら
それはその子供達に「今すぐ死ね」って言っているのと同じなんだ

自分の力じゃどうしようもないから神さまがいるんだろう?
環境的な力じゃどうしようもないからイエス様の贖いが必要なんだろ?
「信仰によって救われる」ってハードルが低いようで実はとても高いんだよ
何かによって救われるのなら、それは単なる宗教だよ
それが何かの違いだけさ
修行によって救われる、禁欲によって救われる、律法によって救われる、金によって救われる、信仰によって救われる
どれが正しいかを選ぶのは、運かい?

そんな悲しい世界は嫌だよ
包括的になろうよ
そんなに、懐が狭いのかい僕等の神さまは
義なる神さまは、人間の生死なんてどうでもいいのかい!
死ぬことを許さないのに、高潔に生きることだけはやたらと言う
そんなのって、辛すぎる

ああ、なんて悲しい世界なんだ


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悪魔の手先
今日から、またいつも通りの日記です

信仰があれば救われるって、僕はよく聞く
でも、その言葉を吐く人は大抵嘘つきだと思うんだ
なぜなら、信仰があるなら行いにも表れるはずって言うのも同時によく聞くから

信仰があるのに、罪を犯し続ける人を教会は認めやしない
ヤクザから牧師になった人はいるけれど、ヤクザのまんまだったら認めやしないだろ
だけど、そういう態度をとっていったら結局は、教会にはだれも残りやしない

罪を犯すときは悪魔の誘惑があるらしい
そう、罪を犯すときは悪魔の手先になっているらしい
だけど、そのことを言う人は決して人を悪魔呼ばわりはしない
人に自分で自分を悪魔呼ばわりさせる
そんな手段を使う
悪魔の手先になっている自分に気づきなさい、と

嫌だよ、そんなのは
聖霊と悪魔って同居しないのかい?
人間の心って両方あると思うんだよ
時折、そして常時心の中には悪魔がいる
でも、それに気づいた時に自分を否定するのはおかしいと思うんだ

だって、それは元々もっているんだから
それをいちいち告白し、神さま神さまと叫ぶのはちょいと違わないかい
行いで信仰を図ること自体が間違いだと思うんだ

委ねるって言うのは、そういう自分を認めるってことだと思うんだ
否定するんじゃなくて、受け入れる
じゃなきゃ、いつまでたっても後悔の嵐
せっかく、幸福に生きてくれと願っても自分ではどうしようもない罪の渦の中で悲しむだけだ
救われているのに
せっかく、救われているのに

行いで判断するって言われてもそんなことは不可能だろ
だって、人間は罪を犯すのだから
よく、考えてみてくれよ
先進国に住んでいる僕たちは、どうしたって発展途上国を搾取しているんだ
発展途上国の餓死者が出る原因の、ほんの少しの一端を僕等は担っているんだよ
だから、この日本に住んでいるっていうだけで、僕等は殺人者の仲間入りだと思うんだ
むしろ、ホームレスの方々のほうがまだ罪を犯していない

それなのに、信仰を持っているのに罪を犯し続けるなっていうのはおかしいと思うんだ
罪を犯す自分を受け入れればいいと思うんだ
だって、そうじゃなきゃイエス様が罪を背負って死ぬ必要がないんだから
僕等が自分で罪をなんとか出来るのなら、イエス様は必要ないんだもの

罪を犯すことを責めるんじゃない


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少しずつ
今日は、カナン・プレイズ・チャーチにお邪魔しました
その目的は、GROWING UPのリーダーのにっちさんとお会いするためです
だってホンモノだもの←にっちさんのブログ(て、誰でも知ってるか)
普段、ブログで牙を出しているので申し訳ない気持ちになりながらお邪魔してきました

教会に着いた時、賛美にとても迫力があり圧倒されました
昔の自分の教会とだぶり、少し切ない気持ちになりながら賛美をし
そして、その後証とメッセージを聞きました
聖餐式だったのですが、僕も預からせていただきました
この場を借りて、感謝の言葉を言わせていただきます

そして、昼食時からいよいよにっちさんと一対一の話し合いです
ブログでのあり方、信仰、昔の話と色々なことを話しました
さすがはGROWING UPのリーダーだけあって、人の話を聞くということに関しては素晴らしい方でした
安心して、話せるというのはとてもありがたかったです

しかし、僕は万人救済説、にっちさんは信仰義認説とお互いに相容れない部分が確かにありました
お互いにそれがアイデンティティであり、自分の人生を懸けているところです
そう簡単には、分かり合うことなど出来ない
そう、痛感しました

しかし、前進は限りなくしていると思いました
正直な話、僕の万人救済説は正しくなくていいんです
にっちさんの信仰が正しくてもいいんです
ただ、この世の全ての人が笑顔で幸福で慈愛に満ちた世界があればそれでいいんですよ
僕にとって、その足がかりとなるのが万人救済説であっただけで
信仰義認説によって、その世界が来てもなんの問題もないわけです

この世が目に見える形によって愛で溢れればいいな
そう、思いました




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向き合う、僕と君と神さまに
自分と、向き合う機会は少なくない
誰かと話していると、僕の知らない僕について色々言っているからだ
そうして、僕は僕と向き合い僕を知っていく

神様と向き合う時は、度胸がいる
自分の考えていることを神さまの想いとしたときに
それは壊れるからだ
だから、僕は神さまと本気で向き合うのは、天国に行ってからにしようと思った
だって、脳がある状態で神さまを全部理解するのは無理なのだから

君と向き合うのは難しい
僕は君を決め付ける
良い人、悪い人、優しい、優しくない
そんなパラメーターを君につけて君を見る
君が何者かを知るために
でも、そのパラメーターも結局僕が用意したもので
君を理解したと思ったら、それは僕が君を勝手に決めつけているだけだったりする
そんなのは嫌だ

言葉しかないのは悲しいけど、言葉しかないのなら話そう
他の手段があるのなら、他の手段も使おう
君が何者かなんて、決め付けたくないんだ




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綺麗事を吐いて、何が悪い
昔、友達に言われたことがある
「お前の話は、結局綺麗事だ、現実はそうはいかないよ」
その頃は、僕も思っていた
だけど、改めて今綺麗事を言う
むしろ、綺麗事を吐いて何が悪い

この世が、そんなうまくいかないことは知っている
身をもって知っている
僕の身の回りは、綺麗事じゃすまない出来事が多々あった
金だってそうだし、人間関係だってそうだ
性風俗で働いていた友達もいれば、汚い仕事をしたやつだっている

だけど、この世の中は綺麗事を吐いて死んだ人たちの意思が
ありありと残っているじゃないか
そのおかげで、なんとかまだ人間を信じていられる
そのおかげで、なんとかまだ神様を信じていられる

綺麗事じゃ人は救えないさ
本当に困っている人は助けるのに、綺麗事だけじゃやってられないのも知っているよ
だけど、それでもなお綺麗事を吐いていないと、いつまでたっても世界は堕ちる一方だ

誰かを大切にする気持ちが、少しでもあるのなら
誰だって綺麗事の一つや二つ言うだろう?
それを、さんざん言って何が悪いって言うんだい

世の中の人全てと分かり合い、世の中の全ての人と友達になるって夢を
堂々と言って何が悪い
現実不可能かもしれないよ
原理的に無理かもしれない
でも、何回でも言うよ
断絶を知って、なお交流しようとするのが好きなんだ

そのとっかかりが僕にとっては、クリスチャンとノンクリスチャンの垣根の撤廃だ
人々の思想、信念
それ自体は素晴らしいよ
クリスチャンの思想、信念は大好きさ
だけど、それが人を分ける道具になるのは大嫌いなんだ!

希望は捨てない
だって、この世には愛が溢れていると思うから
愛の存在を信じているなら、世界平和の希望を捨てれるはずも無い
イエス様の再臨の時に、地球が世界平和になっていたらイエス様はどれほど喜ばれるか!
その世界を見たい
そのために生きていたい

だから、綺麗事は吐き続けるよ
もし、僕が綺麗事を吐けなくなったら、君が代わりに吐いておくれ

どうしたって、全人類が笑って暮らせる世界だけは諦めがつかないんだ



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触れた手は、誰であろうと暖かい
繋いだ手が、冷たい人はいる
だけど、そこには必ず暖かさがある
話すだけじゃ分からない、暖かさを誰もが持っている

そこにあるのは、クリスチャン、ノンクリスチャンじゃなく
ただ、その人が存在しているという神様の御業のみ
そんなことを、ふと思った

信仰がどれほど大事なのだろう
例え、信仰があっても愛の無いことを言ってしまう人はいる
僕が怪我をして、言われて一番辛かったのは「最近、神様から離れていたからじゃない?」
という一言だな

悪気は無いのは分かっている
だけど、いまだに針が刺さったみたいに抜けないんだ
僕がそんな風に見えたのかい
僕が努力をしたからとかじゃないのかい

あの時から、かな
表に辛いこととか出すのを辞めようと思い始めたのは
そうでもないかもしれないけど

言いたいことは、信仰じゃ人は図れないってこと
同じ価値観をもった人たちは貴重な仲間だろう
それは大切に

だけど、別の価値観を持った人も大切に出来たら
そいつはそいつで素晴らしいと思うんだ



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積み重ねてきたもの
人間は、自分を通してしか他人を見ることが出来ない
それは、とても悲しいことだ
だから、他人の心の裏側まで分からない

人はよく積み重ねてきたものが表に出ると言う
それは、或る場合において正しい
その場合とは、表に出すためにそれまでの人生を積み重ねてきた場合だ

もう一つは、表に出さないためにそれまでの人生を積み重ねてきた場合だ
僕は、どちらかといえばこちらの方になる
楽しかったこと、楽しくなかったこと
どちらも表に出さずに、いつもへらへら笑っている

だから、僕は喜怒哀楽がはっきりしている人の感覚が理解できない
だから、喜怒哀楽がはっきりしている人は、時折僕の感覚が理解できないだろう

僕が、とりさりたいのはこの垣根
こんな、垣根をなしにもっと分かり合って、話し合いたい
わかんなくても繋がっていればいいだなんて、絶対に言いたくない
だって、分かりたいんだもの
全ての人のことを
友達一人と、ちょっと深い話をしただけでも感動する
それが多ければ多いほど、世界平和に繋がっていくと思わないかい?

だから、垣根を取り去ろう
まずは、クリスチャン、ノンクリスチャンの垣根から
「なんで、神様信じているの?」
「なんで、神様信じていないの?」
そんな、会話じゃなくてさ
もっと、「君の大切なものって何?」みたいな話をしようよ

ノンクリスチャンが友達、恋人、金とかその辺のことを答えても
その理由はきっと僕等クリスチャンと同じはずなんだよ
自分を救ってくれたり、助けてくれたりしたから

だからさ、もっと根本的に分かり合おうよ




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ジレンマ
最近、スピーナというバンドが好きです
その一部の歌詞を引用したいと思います

「あの時、私が欲しかったものは間違いなくあなたでした
 日の当たらない小さな部屋に閉じ込めて、いじっていたかったんだ
 あなたが全部私のものにならないのなら、私何も要らない」


とても、共感できる歌詞だなって思った
こういう思いは、きっと誰でも持っているんだろうなって
そう、思った

もちろん、こういう気持ちだけで終わるんじゃなくて
その人のた目に何かしたい
その人が幸せであれば、それでいい
みたいな気持ちもあると、思う

人は、どちらかといえばそれを愛だと言うのんだと思う
だけど、どちらも根底に流れている気持ちはそこまで変わらないと思うんだ
どちらも愛であって、どちらも愛じゃない
そんな曖昧な感じじゃないかなって
そう、思うんだ

言うなれば
怒り、悲しみ、喜び、そういう思いはきっと一つの根本的な何かからくるんだと思っている
それが、きっと愛と呼ばれるものだ
それが何かは全く説明が出来ないのだけど
そうだったら嬉しいな、と僕は思っている

全ての人に等しく価値がある、と思っている
聖書によれば愛が無ければ全ては無価値らしい
だから、全ての人に価値があるってことは
全ての人に愛があるって思っている




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歩くのをやめた鳥
久しぶりの小説です
前回の「穴の空いた狼」
http://hitoemabuta56.blog87.fc2.com/blog-entry-9.html
の続きになります


「歩くのをやめた鳥」

ある晴れた春の日に僕は殻をやぶった

太陽は眩しくて、暴力的で、僕は顔をしかめた

だけど、見慣れてくるとそれはとても綺麗なことに気がついた

そうやって、空を見上げていると僕はお腹が空いたことに気がついた

お腹が空いてぴいぴい鳴いていたらお母さんが餌をとってきてくれた

僕はそれが当たり前のことだと思っていた

それに僕は僕がそういうものだと思っていた

だけど、ある暑い夏の日に他の兄弟達が僕にこう言った

「そろそろ僕等もここを出て行くか」

え、なんて言ったんだい

僕がその言葉の意味も確認する間もなく、兄弟達はひろいひろい空へと旅立っていった

ああ、僕等は飛べるのか

ああ、僕も行かなくちゃ

僕も行かなくちゃ?

いったいどうやって?

分からない

だけど、兄弟達は飛びたてたんだ

僕にだってきっと出来るはず

そう思って僕は、思い切り巣から飛び降りた

羽ばたくことを知らなかった僕の羽は、思い切り地面に叩きつけられ曲がってしまった

いたい いたい

僕は飛べなかった

ああ、ああ、僕は飛べなかった

僕はよれよれと歩きながら、うっそうと生い茂った森の中をさまよう

ここはどこだろう

僕は怖くて怖くてたまらなくなって、近くの藪に身を潜めた

そこには野いちごがあって、僕はそれを食べて過ごしていた

そうやって何日も過ごしている間に、その藪の周りでは色々なことが起こっているのが分かった

僕以外にも色々な僕みたいなのがいること

四足で歩く動物がいること

その中でも、草を食べる動物

その草を食べる動物がいることを僕は知った

なんてことだい

空を飛べない僕は、ひょっとして一番弱いんじゃないか

怖くなって怖くなって、僕はずっと藪の中に身を隠していた

だけど、その藪の中の野いちごがなくなったときに

僕は藪の中から出ることを余儀なくされた

こわい

藪から出たら、あの狼達に食べられてしまう

だけど、飢えて死んでしまうのも勘弁だ

僕は意を決して藪の中から出た

すると、目の前にはあの恐ろしい狼がいた

なんてことだい

僕は、食べられることを覚悟した

もう、どうにでもなれ

だけど

狼は僕には目もくれず、逃げる豚を追いかけてそれを食べていた

僕には目もくれずに

僕は不思議に思って、うっそうと生い茂る森を歩く

すると、僕は気づいた

彼らは逃げるものしか捕まえない

僕には逃げるための翼が曲がっている

だから、僕は食べられない

ああ、そうか

僕は食べられることすら出来ない

僕は

一人だ

この世界に

僕は一人だ

そう思うと、僕はなんだか悲しくなった

ああ、ああ、なんて悲しいんだ

なんて悲しいんだ

そう思いながら、僕は森の中をさ迷い歩く

昼も夜もさ迷い歩く

誰かいないのか

僕みたいなのが他に誰もいないのか

誰か、僕以外にいなのか!?

誰か、僕を見てくれよ!

泣きながら僕は森をさ迷い歩く

すると

木の実を食べている狼がそこにいた

お腹を押さえ、みっともない格好で木の実を食べる狼がそこにいた

周りの狼が彼を見ながら、笑いながら何か言っている

「君はもう狼じゃないね」

彼らはそう言っていた

ああ

彼も一人だ

この世界に彼も一人だ

仲間がいた

僕はそう思って、嬉しくなった

そして、彼に話しかけた

「やあ、ごきげんいかが」

すると彼はいきなり、その大きな口で僕を丸呑みした

なんだってそんなことをするんだい

だけど、僕は外に出ることが出来た

彼のお腹には大きな穴が空いていたからだ

なんだい、こいつは

狼のくせに果物を食べて、逃げもしない獲物を丸呑みする

僕は少し腹が立ったけど、彼が泣いている事に気がついた

なんで、君は泣いているんだい?

そんなこと、口には出せない

だから僕は社交辞令でお茶を濁すことにした

「ごきげんよう、虫歯に気をつけて」

そう言って僕は彼を後にした

僕は、彼の口は果物の匂いがしたな、と思いながら森の中をまた歩く

だけど今度は、さ迷っているんじゃない

僕と同じような別の動物を探すために

僕は森の中を歩く

昼も夜も森の中を歩く

だけど、木の葉が赤くなる時期になっても僕のような動物はいなかった

そう

あの狼以外には

ああ

あの狼しかいないのか

僕の仲間はあの狼しかいないのか

世界に一人ぼっちなのは、彼と僕だけ

もう一度話しかけよう

「やあ、ごきげんいかが?」

そう言うと、僕はまた狼の口の中に入れられた

だけど、彼は僕をすぐに飲み込まず翼を噛み砕いてから飲み込んだ

僕は、彼の穴から出てきたが激しい痛みに顔が歪む

いたい

なんで彼は食べれもしないのに僕を飲み込むのか

そして、なんだってあまつさえ翼を噛み砕くんだ!

僕は悔しくなって、狼に言い放った

「君は、狼じゃないね」

彼の存在を否定することしか、もう僕には出来なかった

だけど、彼はその言葉を聞いて声を出さずに涙を流していた

だけど、そんなことは知ったことじゃない

僕のほうが泣きたいのだから

それから、僕は痛みに耐える日々が続いた

激しい痛みが、昼夜を問わず僕を襲う

いたい

激しい痛みが、昼夜を問わず僕を襲う

だけど、そんな日々も終わりを告げて痛みが引いた時

僕の翼は真っ直ぐになっていた

僕は羽ばたいてみた

すると、僕の体は浮くことに気がついた

ああ、飛べる

僕は飛べる!

僕は、世界に一人ぼっちじゃなくなった

僕は世界に入れたんだ!

それから、僕は飛び回った

そして、野いちごではなくて虫を食べるようになった

初めて捕まえた蝶は、紐が折り重なって出来ているような姿でよろよろと飛んでいた

僕は、彼なら食べられると思い

彼を捕まえて、むしゃりと食べた

それから、僕は自信をつけて色々な虫を食べるようになった

僕は、世界に生きている!

その達成感が僕を酔わせていく

自分の口が臭くなっていることに気がつかずに

そうして、飛んでいるとあの狼がまた見えた

彼は相変わらず、みっともない格好で野いちごを食べている

だけど、その時僕は思い出した

彼の口からは、果物の匂いがしたことを

そして、自分の口の臭さに気がついた

ああ、僕は臭い

世界に出て、僕はこの臭い口を手にいれた

なんで?

いくら考えてもその答えは出てこなかった

だって、僕の口は臭いのだから

いたたまれない

僕は、臭い口が欲しくて世界に出たのか?

いや、違うはずだ

そもそも狼が羽を真っ直ぐにしなければ、こんなことにはならなかったのに!

だから、僕は狼に文句を言うことにした

狼が野いちごを食べている時に、僕は狼に話しかける

「やあ、ごきげんいかが」

彼は何も反応をしてくれない

寂しい

ちょっと待ってくれ

なんで僕は寂しいんだ

もう僕と彼は違うはずなのに

もう僕は、世界で一人ぼっちではないはずなのに!

「無視しないでくれよ、君と友達になりたいんだ」

僕は、気がついたらそう言っていた

狼は僕に言う

「馬鹿にしないでくれよ なんで君は僕と友達になりたいんだ」

ぐっと悲しみをこらえる

言いたいことはたくさんある

世界のこととか、臭い口のこととか

だけど

そんなこと、言ってどうなるっていうんだ

「泣きながら食べられる身にもなってくれ せめてもっと美味しく食べられたいんだ」

僕は精一杯の強がりを彼に言った

すると、彼は呆気にとられて

そして、少し笑ったんだ

僕はその時

ようやく欲しかったものが手に入った気がした

狼と僕は一緒に木の実を食べる

周りの狼は笑う

僕等はそれを見て互いに笑いあう

周りの狼は笑いながら言う

「君は狼じゃないね」

僕も狼に笑いながら言う

「君は狼じゃないね」

狼は僕に笑いながら言う

「僕は穴の空いた狼だよ」

彼の言葉を聞いたとき、僕はとても満足した

そして、彼は羊に会いに行くと言い森を出た

僕は、彼の帰りを待ちながら木の実を食べる

周りの狼がそれを見て笑う

「お前は、惨めだな あんなのと一緒にいて」

それを聞いた僕は、周りの狼に言う

「臭い口をぷんぷんさせながら、いい気になっている奴らよりはましさ」

その言葉を聞いた狼は、怒りにまかせて僕を食べようとした

僕は、飛ばずにそれを受け入れた

ああ、やっぱり彼らの口は臭かった

そうして、僕は食べられた





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安心が欲しくなって神様に頼る、泣く、そしてそれをやめる
大切な友達
大切な恋人
それらの人と、ずっと一緒にいたい
そう思うことはしばしばあった
だけど、その願いは叶わないことのほうが多かった

最初は楽しかったから、一緒にいたかった
最初は愛しかったから、一緒にいたかった

その次は、楽しくなくなるのが嫌で一緒にいたかった
その次は、愛しさが消えるのが嫌で一緒にいたかった

そして一人でいるのが嫌だから、一緒にいたかった
そして一人でいるのが嫌だから、一緒にいたかった

そんなものだ
僕の友情と愛情なんてものは
ただ、安心が欲しかった
誰かに、受け入れられるっていう実感が欲しかった
それが、手に入ったと思って、それを離したくなくて
そして、壊した

僕がノンクリスチャンだったら、ここからクリスチャンになれたんだろう
でも、僕は物心がついたときからクリスチャンだった
壊す前にあった充足感は、キリストの世界にはなかったんだ

それでも、一度は神様にすがろうとした
絶対の安心を与えてくれる存在
それにすがれば、安心なんだ

だけど、僕の何かがそれを否定した

そして、去年やっと気づいた
一人でも生きていける
寂しい
苦しい
だけど、ただそれだけだ
ただ、それだけなんだ

今だって、友達はいる
恋人はいないけど、好きな人は入る
だけど、それでも一人でいることを受け入れた時に

僕は、自由になれた

そして、天国に行く前にみんなとわかり合いたいと思ったんだ


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大切な人
大切な人、愛する人を救うのは自分でありたい
そう、願う
誰かによって救われるのも、確かに嬉しい
だけど、だけどそれでも愛する人を救うのは自分でありたい
それが、心というものだと思う

神様もきっとそう思っているんじゃないのかな
愛する子供を、直接自分の手で救う
その役割を、同じ人間に与えた

その意味はきっと深いものだとおもうんだ
とてもとても深いものだと

その意味を探して、生きている




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古い科学で、神を愚弄するな
この世界を見たときに、偶然で出来たとは思わない
偶然の結果、この世界が出きたと思うほ方が、よっぽど信じられない
例えば、精巧な天体模型を作り、それが放っておいたら偶然出来た
君は、それを信じることが出来ないのに、なんだってそれよりはるかに精巧なこの世界が偶然で出来たって信じることが出来るんだい?

そうやって言うクリスチャンを僕は何人も知っている
そうやって言う牧師を僕に何人か知っている

あえて、言おう
そんな主張は時代はずれ、でまったくの的外れだと

少し前まで、エントロピ-増大の法則がクリスチャンを縛っていた
この世の中は、秩序から無秩序へと移り変わっていく
進化論など起こるはずもない
そんな中、地球が出来て人間が出来たのは神の御業以外に無い
そう、世のクリスチャンは言っていた

もう一度、言おう
そんなものは全く時代はずれで、的外れだと

一人の天才が「散逸構造論」を提唱し、ノーベル賞を手にした
それは、無秩序から秩序は生まれると言う理論だ
詳しい説明はグーグルで調べれば出てくる
これにより、地球が出来る理由
進化論を支持する理論
全てが「神様」を抜きにして可能になったことをクリスチャンは知らなくてはいけない

「この世界が偶然に出来たなんて思えるかい?」
この理論は30年以上も前に、看破された

神様を抜きにしても、理論的に僕等がいる理由は説明がつくようになったんだ
それを知らず、神様がこの世界を創ったといっても滑稽なものだ
それでは、僕等は頭がおかしいとしか思われない

問題は、その先にあるものだ
「なぜ」神様が必要なのか
「なぜ」イエス・キリストの救いが必要なのか

それが、大切なことになってくる
今の科学を知らずに昔ながらの信仰を、声高らかに言っても僕のような理屈家にはとても伝道は出来ない

信仰も進化させなければ、この時代には何の意味も無くなる
なぜ、ソロモン王は知恵を求めたか
その姿勢を僕等は学ばなくてはならないと思う

真にキリスト教を広めたいと思うのならば、知識を増やす必要がある
僕は、そう思う



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死んだ後のことを考える?
今日の記事は長いです
そして、初期のように攻撃的です




死んだらどうなるのか
そんなものは誰にも分からない
聖書に書いてあるから、天国か地獄と言う人がいるかもしれないが
聖書にそんなことは書いていないと僕は思うんだ
ダビデ王の霊を口寄せの女が呼び寄せたのはありゃいったいなんなんだい

そう、すごく疑問なんだ
死んだ後のことを聞かれたときに、伝道者はどうやって答えればいいのかを
今死んだらどうなるの?
あなたは地獄行きですよ、とはっきり言うのかな
僕の知る限りでは、大抵答えを濁していたけど
まあ、クリスチャンにははっきりと地獄に行くとは言うけどね

クリスチャンになった後は、より怖かったな
「レフトビハインド」だっけ
クリスチャンであっても救われない人が出て、しかもそれは神様にしか分からない
ますます、神様に依存させていく

どこの新興宗教だよ、それは
とても、くだらない
真のクリスチャンと言ったときの条件にもし神様を「信じきる」という項目があるとしたら
僕は確実に地獄に行く

信じきるとは、盲信のことだと思っている
神様のことを完全には知らないのに、それを信じきる
それは、結局自分の中の神様を信じているとしか、僕には思えない

「キリストに狂う」
この言葉を、僕の周りの若い世代のクリスチャンやブログのユース達が使っている
本を一冊読んだだけで、キリストの全てが分かるのかい
分かるというのなら、心理学と哲学をやりなおしな、倫理学もお勧めだ
分からないというのなら、ナルシズムに狂っているのは否めないと思うよ

聖霊に導かれているというのなら、検証実験をしてみよう
聖霊の働きが感じられるというのなら、一人ずつ同じ質問をしよう
例えば、「姦淫の罪を犯した女がまたもう一度罪を犯したら、イエス様はなんと言うか」でもいいや
答えがばらばらならば、それは結局のところ本当に聖霊様に導かれているのかい?

試してはならない、と言うかもしれない
それは全くもってその通りだ
こんなことで、神様の価値が損なわれるなんて僕は微塵も思っていない
だけど、聖書と聖霊に価値を置き過ぎ、キリストに狂っている人達は「その程度」のことで揺らぐんだよ

肝心な聖書にも書いてあるだろう?
最も重要なものは、信仰じゃなくて愛だって
「神様への信仰があれば天国に行ける」
はは
そんなものはキリスト教じゃない!
山を動かせる程の信仰なんざ、愛が無くちゃ全くの無意味なんだぜ!
聖書を文字通り読むのなら、信仰があっても愛が無い人もいるってことだ

全ての人を考えてみろよ
認知症末期で言葉の意味も分からない人に堂々と「神様を信じないと地獄に行きますよ」って言ってみろよ
違うって言うなよ、まさか「幼子」のようだから天国に行くとか言うなよ
認知症末期だろうが、罪を犯しているんだ
セカンドチャンスがあるとか言うなよ
そいつは逃げ道だ
そんなものは、パウロでさえ言っていない出来事じゃなかったか?

僕は嫌いなんだ
キリスト教だけが、絶対の価値観とするのが
反吐が出そうなほどに嫌いだ
そして、それだけでも嫌なのに聖書の言葉を利用して人を導こうだとかするのも嫌いだ

なんだって、その人がその人であることが奇跡だってことを誰も言わないんだ
神様に愛された特別な存在?
それだけじゃあ、ないだろう
神様の意思は確かに働いているだろう
だけど、人の意思も確実にそこに入っているだろう?
神様一人の意思じゃない
全ての人の想いの結果、一人ひとりが存在している
奇跡じゃないか

なのになんで信仰なんてちっぽけなもので人を二分化するんんだい
全くもって理解できない



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神様の想いを分かっていないのは、お前か僕か
聖書は神様が人間に当てたラブレター
そんな表現がある
それは、半分正しいと僕は思う
なぜなら、聖書には足りないものがある

それは、理由だ
人を殺してはいけない理由
互いに愛し合う理由
神様を崇めなくてはいけない理由
そのどれもが、断片的にしか分からず
多くの解釈を生んでいる

聖書をちゃんと読めば、神様の想いが分かる
それは、僕は言い訳だと思う
それならば、なぜ聖書をちゃんと読んだ人の中で
福音派、聖霊派、バプテスト派なんていう風に分かれているんだい
そういう意見は限界があるから、最近はその壁を取り外そうとどこの教派も努力しているんじゃないか
それなのに、その時代に今も昔と変わらない信仰を振りかざし
他の解釈を聖霊と独断により違うと言う人は僕は嫌いだ

神様の想いを分かっていないのは、お前か、僕か
それを知っているのは神様だけ
それなのになぜ争うのか
分からないということが分かりきっているのに
分かり合うために争うのならまだ理解できる
否定しあうた目に争うのは愚かだ

分かり合おう


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人を壊すための技術
以前も書いたが、僕は合気道をやっている
やり始めたきっかけはただ強くなりたかったから
地下鉄を歩くときに、不良にびびりたくない
そんな程度の思いだった

そうして、合気道を続けていくうちに僕は強くなった
人の効率的な投げ方
壊し方
力加減
それらが、人より分かるようになった
うぬぼれではなく、それは確実に

現に、僕は練習中に相手の指を折り
試合中に相手の鎖骨を折ったことがある
そして、僕自身も練習中に二回じん帯を切る怪我を負わされた

こうやって、相手を壊す術を学ぶのは神様の目から見たら愚かなことなのだろうか
個人的には、そうは思わない

人を投げたり、壊すためには人の体を理解しなきゃ出来ない
そして、表情、体の動きから人の思考を理解しなくちゃならない

奇妙な話だけど、相手に勝つためには相手を理解しなきゃいけない
ただ、闇雲に相手を否定しようとも人は投げることが出来ない
人を壊すことが出来ない

僕は、優勝をしたことがある
そこにあったのは、少しの満足感と飢え渇き

もっと、「強くなりたい」
その想いが大きかった
勝つためではなく、ただ強くなりたい

そう、強いとは理解すること
理解するということは受け入れること

それが、強さの本質だということに僕は気がついた
武道の本質はそこにある

人を壊すための技
それは、ただ壊すためだけに存在するのではない
なぜ、この世に武術が存在し今も受け継がれているのは
本当の強さを手に入れるため
少しでも、神様に近づくためだということだと
僕は思う



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誰もが皆、王
僕等は奴隷だ
誰もが皆、神様の奴隷だ
そう、思っている
イエス様も、自ら奴隷になられた
僕等もそれに見習って、奴隷になるべきなのか

この世界は美しい
何よりも美しい
雲、海、空、木々
神の御業が表れているその全てが美しい

だけど、なぜ人間だけが、醜い面を持っているのだろう
楽園を追放された僕たちが
生きている間に
愛を見ることなどあるのか

人は死んで完成する
不平、不満、文句を言わず
その身を、神様が創った世界に惜しみなく与える
だけど
だけど、それでいいのか

生きている間はうたかたの夢か
意味は無いのか
人を愛するためには
人の愛とは
そんなものがあるかないか

誰かを愛して、誰かを愛さない
それは差別だ
誰もが、皆全ての人を愛する事が出来れば

誰もを等しく愛する
それは王にしか出来ない
イエス様しか出来ない

だから、皆王になれば

この世は天国になるはずなのに


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