君が生きている
「君が生きている」 そのことが何よりも大切だと思いたい そのことが愛の形の一つだと思いたい。
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一重まぶた

Author:一重まぶた
一重まぶたです

北海道在住のクリスチャン
しかし、周りとあわせることが出来ないクリスチャンです
愛が何かもわからない



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ノンクリスチャンの色は白じゃない
リバイバルを求める全ての人たち
そして、この世の中をクリスチャンとノンクリスチャンで分ける全ての人たち

この世は二つで分けれるほど、単純じゃない

クリスチャンをよく見てみる
そうすると、色々なクリスチャンがいることが分かる
聖書原理派
一部原理派
僕のように聖書に懐疑的な人間すらある

聖書原理派の人間の中には僕のような人間をクリスチャンとして認めない人間もいるだろう
しかし、僕は自分自身をクリスチャンと堂々と宣言する
どっちが正しいとかじゃない
単なる主張の違いだ

間違っているとしたら、自分のみを是とすることだろう
僕の世界では、僕が正しい
君の世界では、君が正しい
だから、この世は難しい

ノンクリスチャンに至ってはさらに複雑だ
仏教徒もいる
イスラム教徒もいる
神道もある
様々な宗教、さまざまな価値観

それらを理解せず、キリストが真実だからと言って何が変わるだろうか
ノンクリスチャンの多くは迷える子羊じゃない
自分の価値観、もしくは自分の宗教、自分の信念、そして自分の真実を持っている
そう、クリスチャンと同じように

そういったものを持ってない人間に伝道するのはある意味では簡単だろう
白を塗りつぶせばいいだけの話だから

だけど、多くのノンクリスチャンは白じゃない
多くの色を持つ
クリスチャンが持つ色ではなく、様々な色を持つ

それらを否定して、一つの色に染めようとした時
そこに美しさはあるのか
ただ一色の色に染めた世界に美しさはあるのか

そうではないから、神様はこの世の価値観を多様にしたのだとと思う
それがいつの日か、調和を持ち
美しくなるように、神様は僕たちをそう創ったのだと思う

「全ての人がクリスチャンになればいい」

そう言った時に、それ以外を否定していることに気づい欲しい
他の価値観を否定する時に戦争が起きる
今のイスラム教とユダヤ教のように

道を探そう
皆が幸福になれる道を
なぜなら僕等はクリスチャンなのだから



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全ての事に感謝できるわけでもなく、全てを憎むことも出来ない
全てのことに感謝しなさい
そう、聖書は僕等に語りかけている
ああ、分かっているよ
言いたいことは

今、生きている自分
それらを作ってきたのは過去だ
その過去の一部分を感謝せず否定していると、今の自分も否定する
きっとそういうことだと思うんだ

だけど、受け入れることが出来ない過去がどうしてもあるんだ

他人の失敗
それは受け入れられる
自分への攻撃
それも大丈夫
他人が他人への攻撃
僕には何も出来ない

だけど、自分が他人を傷つけた過去
それだけは、どうしても感謝が出来ない!
どうやって、感謝をしろと

僕は人を傷つけた
その過去を
どうやって、感謝しろと言うのですか?イエス様!

でも、その答えはとうに出ているんだ
他人からの攻撃は感謝
他人への攻撃は悔い改め

あれ

僕の感情がどこにもない
今、気づいたよ
僕の感情が、どこにもない?

怒り、憎しみ、嫉妬

ああ、その感情は僕には必要ないというのかい

じゃあ、なぜこんな不完全に僕がいるんだい
それらの感情を無くそうとするのならば、ロボトミー手術しか無いじゃないか

全ての物事に感謝できるわけではない
だからといって、すべての物事を憎むことも出来ない

なんて不完全なんだろう
だから、イエス様を信じて救われる
清くなる

ああ

なんて悲しい世界なんだろう


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怖いのは一つの感情に飲み込まれること
今日、自分のブログを見返してみて気づいたことがある
怒りに飲み込まれている自分が、そこにいた
いや、不条理さとか感じた時に怒りを感じ、
それを原動力に記事を書くのだから当たり前といえば当たり前なんだと思う

あのイエス様だって、神殿が商売の場になっているのをご覧になったときは
烈火のごとく怒られた
だから、怒ることは僕は決して悪いことだとは思わない

だけど、その感情に飲み込まれている僕は最低だ

怒りは原動力だ
だけど、それだけに埋没するとなんの意味も無い
深い感動
それすらも色あせてしまうようになってしまう

また、色を失っていた世界に戻るつもりなのか僕は

こうやって考えることが出来たのはある人とのメールのおかげだった
今まで理不尽に感じていたこと
それ自体はこれといって僕は間違っているとは思っていない
だけど、それは結局は僕の世界の中での出来事だった
人と交流することで、僕はそのことに気がつけた

自分の世界で物事を語るのは駄目だとは言わない
結局はみんなそうなのだから
僕も自分の世界で物事を語っている

だけど、証明できない人と人との重なり
それを信じることによって世界が変わる
虚構か真実かは知らない
だけど、少なくとも自分の世界は変わるんだ

証明の無い仮説ばかりの関係を生き抜くのは辛い
だから、何か一つの感情を頼りに皆生きていくのかもしれない
それは感動であったり、怒りであったり、悲しみであったり、喜びであったりするのかもしれない

だけど、埋もれたくない
それに埋もれて、今あることを証明不要の事実だとはしたくない
辛い決断の中に信仰を見出すから、尊いのだと僕は思う

信仰者

そう、僕はただ信じているだけの存在だ
心のつながりを証明する知恵も知識も才能も持っていない
ただ信じるだけの人間

それが愚かなことは分かっている
だけど、だけどそれでも信じていたい
いつか、誰かが証明してくれると信じて
まだ見ぬ天才達がこの世に絶望しないためにも信じていく

それが、僕の決断
そして、そのために一つの感情に飲み込まれないように
全ての感情を大切に
生きていたい


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全ての罪の原因は自分に 全ての栄光は神に
よくあると思うんだ
失敗は自分のせい
成功は神様のおかげ

超自然的なことを期待しているくせに、祈りが叶えられないと御心ではないという
そのうち、神様の想いは分からないからと言い出す
そして、むやみやたらに祈って叶ったら神様のおかげ
叶わなかったら御心ではなかった

いっこうに御心にそうことが出来ない人は聖書の知識と、信仰が足りないと言い
神様は別の形であなたの望みを叶えると言う

なんだいそれは
布教には超自然的な奇跡を惜しげもなくだすくせに

祈りは聞かれないこと前提かい?
解釈次第で全ては神様の御心かい?

君が別の形の神様の御心を知ると言う時
君は神様を見つけたのかもしれない
しかしだね、それは君の想いを神様にしているに過ぎないんだよ
君は自分を神様にしているんだよ

神様がなんとかしてくれる、とよく聞くが
そんなはずはないだろう

理不尽な暴力
理不尽な死
そのどこに神様の御心があるんだい

傷害
暴行
事故
窃盗
脅迫
監禁
誘拐
恐喝
詐欺
レイプ
殺人

そのどこに神様の御心があるんだい

被害者にそれは神様の御心で、あなたに試練を与えているというかもしれない
だけど、それは愛なのか
神様は、その人の心を強くするために
誰か他の人を使い、レイプするのを許すというのか

それが御心かい?
試練という言葉を使えば、不幸な出来事を全て解決できるのかい

罪は全て人間のせいだろう
だけど、それを試練と呼ぶなよ
悲しい出来事は悲しい出来事で留めておこうよ

じゃないと歪む
心が歪む

全ての原因は神様じゃない
僕等だ

失敗も成功も全ては僕等にある
栄光を神に帰せというのは分かっている

だけど、君に自由意志があるというのなら
この三次元での成功は君のものだよ
神様に栄光を帰すのは死んだあとに分かること
そう、世界は君のものだ




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安い愛
僕の中の大きなテーマに「愛」がある
互いに愛し合いなさい、イエス様は仰ったが僕には愛というものが分からない

聖書には愛は~みたいな長ったらしい文がある
だけど、あれ全てを満たしたら愛なのかい?
なんか違うよ
あれは、聖書を書いた人の主観が多分に含まれていると僕は思う

だから、愛っていうものは僕等はまだ知らない
正確には知覚できていないと思うんだよ

そして、僕は前回の記事でも書いたように
弱くて、罪にまみれている私「でも」無条件に愛される
この言葉が死ぬほど嫌いだ
反吐が出る

じゃあ、なんだって信じないと地獄に落ちるのかい
愛の神のはずだろ
もう、十分に条件付けされているじゃないかい

義なる神様だからしょうがないと言うかもしれない
でも、そうやって自分の知覚できる範囲に神様を押し付けるなよ
それは結局自分の考えを神様としているだけなんだぜ
神への冒涜とあえて言おう

言いたくないが、神様を安くするなよ
愛を安くするなよ
人間の愛を、神様の愛に置き換えるなよ

僕が間違っていると言うのなら、愛がなにかを教えておくれ





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敬虔なクリスチャンってなんなのさ
僕はブログ村を見てみて、色々なクリスチャンがいることを知った
だけど、どうにもなんでだろうと思うことがある

「敬虔なクリスチャン」
そう言われている人たちは立派な人たちだ
正直、そう思う

だけど、なんだって敬虔なクリスチャンはよく自分を否定するんだ?
「私は全然大したことない人間で」

「でも、神様が助けてくれて」

「だから、私はその神様を伝えるためにこの身を使います」

クリスチャンの王道パターンだと思うんだ
まず、自分を否定してそこから神様の偉大さを示すのは
そして、そんな自分でも聖書に書かれている御言葉によって変えられた
だから、神様は素晴らしい

なあ、気づいているかい?
それは新興宗教のやつらの手口と一緒なんだぜ?
聖書は本物だから違うと言うかも知れないが
他の宗教も同じように言うんだぜ

ノンクリスチャンは、新興宗教とキリスト教の違いをどうやってつけると思うんだい

僕にとって、ことあるごとに自分を否定して聖書と神様の偉大さを語る人は、自分のことを素晴らしいと言って「どうだ、すごいだろう?」って自慢する人と同じに見えるよ
本質的に変わらない

イエス様は「裁く無かれ」って言ったじゃないか
なんで自分を裁くんだい
なんで自分を否定するんだい
君は、価値がある存在だって言っているじゃないか

弱くて、誘惑に負けて、罪を犯すそんな存在「でも」愛される?
そんなものは、人間の愛だよ

神様の愛はもっと深い
君の存在が意味を持ち、価値を持つ
神様は僕たちに意味と価値を与えてくれる
それが神様の愛だと僕は思っている

僕等が持っている弱さだって神様が与えたものだ
それを軽々しく否定するのはむしろ神様に対する冒涜じゃないのかい
僕等の存在
心の中にある全てのもの
それらを受け入れること

神様の愛を知ることはそういうことじゃないのかな
やたらと、自分を完璧なものにしてくださいと祈るよりも
自分に与えられた意味と価値を知ること
それこそが愛を知ることだろう?
だって、自分の弱さを受け入れられない人間がどうやって、他の人間の弱さを受け入れるというんだい

だから、神様によって変えられたと言っている人は
他の人にも神によって変われと言うだろう?

受け入れろよ
世界は繋がっているんだから
垣根なんてものはないのだから

君の存在
ただ存在している
それだけが何よりも何よりも価値があるのだから
否定しないでくれ自分を
気づいてくれよ
君の存在が愛そのものだっていうことを

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気がつかなきゃ、誰も救われない 
小さい頃から教会に通っていた
クリスチャンの世界で僕は昔から生きていた

あるときの牧師先生のメッセージの中にクリスチャンとしての定義があった
「クリスチャンとは、それまで自分中心に生きてきたのを神様中心に生き方を変える人のこと」
なるほどね

確かに、その定義は正しいだろう
だけど、神様中心の生活っていうのはどうやってすればいいのかい

聖書をよく読み、聖書の御言葉を実行し、よく祈り聖霊様によって導いてもらう
それが、クリスチャン
正しいように聞こえる
いや、実際正しいのかもしれない
だけど、なんでだろう
妙に反発をしてしまう

聖書を基準に考える
神学の違いを使えば、いくらでもごまかせるじゃないか
聖霊様によって導いてもらう
そんなの、本当にそうなのか確かめようがないじゃないか

でも、それを否定することは許されない
なぜなら、クリスチャンを否定することは聖書と聖霊を否定するのだから
だから、間違っているのは自分か世界かを疑うのさ
世界を疑えない人は、自分を間違っているとする

そんな世界がまかり通っている
それが、今の教会の問題点だ

正しかろうが間違っていようが、確かめる術などない
だが、それを信じざるを得ない
信じなきゃクリスチャンとしてのアイデンティティを保てない

そんなのは嫌だな
それなら、最初からクリスチャンの定義なんて分からないものにしてしまえばいいのに

どうして、この世との差別化を図ろうとするのだろうか
僕等は、同じ世界に住んでいて
信念や価値観が違うだけで
流す涙も、感じる心も、怒りも喜びも悲しみも同じなのに

切ないな




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絶望か希望、選ぶのは全て僕
イエス様を、希望と思わないものは恐らくクリスチャンではないのだろう
僕でさえ、イエス様は救いだ
しかし、よく考えてみよう

救いとは、なんだ?

死んだ後に天国に行くことか
じゃあ、今生きる意味は?
伝道、それだけの価値しかないのか僕等は

僕の価値はなんなんだい
他人を救うためだけに存在している僕ならば、その社会構造に「個」という概念は必要ない

結局は、自分自身で決めるしかない
希望も絶望も同じ場所に存在しているただの感情なのだから

結婚前にSEXをする
ノンクリスチャンなら、嬉しさに溢れることもあるだろう
クリスチャンなら、絶望感が身を包むだろう

皆で酒を飲んでいる
ある人間は虚無感を覚えて、ある人間は充足感を得るだろう

キリストを見たときに、あるものはそこに救いを覚え
僕は、絶望を覚えるかもしれない

全ては神の御手の中に
そういう言葉はよく聞くけれども
どのような神様かと聞かれ
それに答えることが出来た時
その神様は少なくとも、君の中の妄想だ

言葉に出来ないから、神様なのに
なぜ、皆神様の想いだとかを軽々しく口に出せるのだろう

僕は、この世の理屈も、神の理屈も、なにかも何一つ分からない
だけど、それが正しいと思っている
確かめる術などどこにもないのだから

それを確かめる術があるように言い
おざなりの奇跡をどこかで起こし
共有できるはずの無い感覚を、共有しているように見せかける

僕は、キリスト教はそんな風になって欲しくない

たとえ、キリストに絶望を覚えたとしても
それでも、包み込んでくれる
矛盾を受け入れることが出来る

そんな、キリスト教を僕は望む
絶望も希望も、全ては僕の中にあり
ただ、選ぶか選ばないかの違いだけなのだから




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大切な人が出来たら
大切な人が出来たら、その人と喋りたいと思う
そして、その次に触れたいと思うだろう
そうして、そういった関係を僕は昔作った
だからこそ、大切な人が出来た時今なにをすればいいのか分からない

友達でいればいいのか
思いを吐き出せばいいのか

関係を長くするのか、深くするのか
そこに問題があるような気がしてあってならない

だけど、この世に関係ないものなんていうのはない
ということは、僕が大切な人と関係を深めたいというのはエゴなのか

だから、愛を知りたいのさ
どんなに、自分の目標が高くても
そのために、一人で頑張ろうとして
その目標以外のもの全て捨てて頑張っても

それでも、愛し合うことだけはやめられないんだ

だけど、僕はまだ愛を知らない
でも、ようやくおぼろげに見えてきた気がするんだ

ドーパミンやPEAやセロトニンの存在は知っているし
つり橋効果だって知っている

だからこそ、愛の正体が掴めて来る
自分の中にある思いは今、なんなのか
脳内物質が出ているから恋だとか愛だとかにしたくない

それ以外の何かがきっとあるはずだ

なあ、そうだろう?



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