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敬虔なクリスチャンってなんなのさ |
僕はブログ村を見てみて、色々なクリスチャンがいることを知った だけど、どうにもなんでだろうと思うことがある
「敬虔なクリスチャン」 そう言われている人たちは立派な人たちだ 正直、そう思う
だけど、なんだって敬虔なクリスチャンはよく自分を否定するんだ? 「私は全然大したことない人間で」 ↓ 「でも、神様が助けてくれて」 ↓ 「だから、私はその神様を伝えるためにこの身を使います」
クリスチャンの王道パターンだと思うんだ まず、自分を否定してそこから神様の偉大さを示すのは そして、そんな自分でも聖書に書かれている御言葉によって変えられた だから、神様は素晴らしい
なあ、気づいているかい? それは新興宗教のやつらの手口と一緒なんだぜ? 聖書は本物だから違うと言うかも知れないが 他の宗教も同じように言うんだぜ
ノンクリスチャンは、新興宗教とキリスト教の違いをどうやってつけると思うんだい
僕にとって、ことあるごとに自分を否定して聖書と神様の偉大さを語る人は、自分のことを素晴らしいと言って「どうだ、すごいだろう?」って自慢する人と同じに見えるよ 本質的に変わらない
イエス様は「裁く無かれ」って言ったじゃないか なんで自分を裁くんだい なんで自分を否定するんだい 君は、価値がある存在だって言っているじゃないか
弱くて、誘惑に負けて、罪を犯すそんな存在「でも」愛される? そんなものは、人間の愛だよ
神様の愛はもっと深い 君の存在が意味を持ち、価値を持つ 神様は僕たちに意味と価値を与えてくれる それが神様の愛だと僕は思っている
僕等が持っている弱さだって神様が与えたものだ それを軽々しく否定するのはむしろ神様に対する冒涜じゃないのかい 僕等の存在 心の中にある全てのもの それらを受け入れること
神様の愛を知ることはそういうことじゃないのかな やたらと、自分を完璧なものにしてくださいと祈るよりも 自分に与えられた意味と価値を知ること それこそが愛を知ることだろう? だって、自分の弱さを受け入れられない人間がどうやって、他の人間の弱さを受け入れるというんだい
だから、神様によって変えられたと言っている人は 他の人にも神によって変われと言うだろう?
受け入れろよ 世界は繋がっているんだから 垣根なんてものはないのだから
君の存在 ただ存在している それだけが何よりも何よりも価値があるのだから 否定しないでくれ自分を 気づいてくれよ 君の存在が愛そのものだっていうことを
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気がつかなきゃ、誰も救われない |
小さい頃から教会に通っていた クリスチャンの世界で僕は昔から生きていた
あるときの牧師先生のメッセージの中にクリスチャンとしての定義があった 「クリスチャンとは、それまで自分中心に生きてきたのを神様中心に生き方を変える人のこと」 なるほどね
確かに、その定義は正しいだろう だけど、神様中心の生活っていうのはどうやってすればいいのかい
聖書をよく読み、聖書の御言葉を実行し、よく祈り聖霊様によって導いてもらう それが、クリスチャン 正しいように聞こえる いや、実際正しいのかもしれない だけど、なんでだろう 妙に反発をしてしまう
聖書を基準に考える 神学の違いを使えば、いくらでもごまかせるじゃないか 聖霊様によって導いてもらう そんなの、本当にそうなのか確かめようがないじゃないか
でも、それを否定することは許されない なぜなら、クリスチャンを否定することは聖書と聖霊を否定するのだから だから、間違っているのは自分か世界かを疑うのさ 世界を疑えない人は、自分を間違っているとする
そんな世界がまかり通っている それが、今の教会の問題点だ
正しかろうが間違っていようが、確かめる術などない だが、それを信じざるを得ない 信じなきゃクリスチャンとしてのアイデンティティを保てない
そんなのは嫌だな それなら、最初からクリスチャンの定義なんて分からないものにしてしまえばいいのに
どうして、この世との差別化を図ろうとするのだろうか 僕等は、同じ世界に住んでいて 信念や価値観が違うだけで 流す涙も、感じる心も、怒りも喜びも悲しみも同じなのに
切ないな
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絶望か希望、選ぶのは全て僕 |
イエス様を、希望と思わないものは恐らくクリスチャンではないのだろう 僕でさえ、イエス様は救いだ しかし、よく考えてみよう
救いとは、なんだ?
死んだ後に天国に行くことか じゃあ、今生きる意味は? 伝道、それだけの価値しかないのか僕等は
僕の価値はなんなんだい 他人を救うためだけに存在している僕ならば、その社会構造に「個」という概念は必要ない
結局は、自分自身で決めるしかない 希望も絶望も同じ場所に存在しているただの感情なのだから
結婚前にSEXをする ノンクリスチャンなら、嬉しさに溢れることもあるだろう クリスチャンなら、絶望感が身を包むだろう
皆で酒を飲んでいる ある人間は虚無感を覚えて、ある人間は充足感を得るだろう
キリストを見たときに、あるものはそこに救いを覚え 僕は、絶望を覚えるかもしれない
全ては神の御手の中に そういう言葉はよく聞くけれども どのような神様かと聞かれ それに答えることが出来た時 その神様は少なくとも、君の中の妄想だ
言葉に出来ないから、神様なのに なぜ、皆神様の想いだとかを軽々しく口に出せるのだろう
僕は、この世の理屈も、神の理屈も、なにかも何一つ分からない だけど、それが正しいと思っている 確かめる術などどこにもないのだから
それを確かめる術があるように言い おざなりの奇跡をどこかで起こし 共有できるはずの無い感覚を、共有しているように見せかける
僕は、キリスト教はそんな風になって欲しくない
たとえ、キリストに絶望を覚えたとしても それでも、包み込んでくれる 矛盾を受け入れることが出来る
そんな、キリスト教を僕は望む 絶望も希望も、全ては僕の中にあり ただ、選ぶか選ばないかの違いだけなのだから
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大切な人が出来たら |
大切な人が出来たら、その人と喋りたいと思う そして、その次に触れたいと思うだろう そうして、そういった関係を僕は昔作った だからこそ、大切な人が出来た時今なにをすればいいのか分からない
友達でいればいいのか 思いを吐き出せばいいのか
関係を長くするのか、深くするのか そこに問題があるような気がしてあってならない
だけど、この世に関係ないものなんていうのはない ということは、僕が大切な人と関係を深めたいというのはエゴなのか
だから、愛を知りたいのさ どんなに、自分の目標が高くても そのために、一人で頑張ろうとして その目標以外のもの全て捨てて頑張っても
それでも、愛し合うことだけはやめられないんだ
だけど、僕はまだ愛を知らない でも、ようやくおぼろげに見えてきた気がするんだ
ドーパミンやPEAやセロトニンの存在は知っているし つり橋効果だって知っている
だからこそ、愛の正体が掴めて来る 自分の中にある思いは今、なんなのか 脳内物質が出ているから恋だとか愛だとかにしたくない
それ以外の何かがきっとあるはずだ
なあ、そうだろう?
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いつだって過ぎ去った後に気づくのさ |
僕は、今クリスチャンかどうかの狭間にいると思う 自分としてはクリスチャンでいたい だけど、押し寄せてくる知識と理性がそれを阻もうと奮闘する 僕はそれを感情で押さえつけて、知識と理性と感情の妥協点を探す
そんなもの、ありえるのかといつも思う 諦めろよ、そうしたら楽だ だけど、諦めた先に何が残る? 何も残らないから諦めるって言うんだよ
ただ純真無垢でいた時代に、僕は心の底から神様を信じていたのだと思う だけども、この世を知ってからその世界には戻れなくなった いや、戻りたくなくなったんだ だって、僕にはそれがこの世で得た全てのものを否定することになる それが、僕の死を意味する
新たに生まれ変われと、神様は仰るが 僕は、クリスチャンとしてこの世に生まれ 汚れを知って信仰を確立させた
どこで死ねばいいのかい どこで新たに生まれなくてはいけないのかい
僕にはキリストを知らない時代なんてものはないんだい キリストを知らない時代を殺せと言われても、僕にはそんな時代はないんだよ
だけど、よく聞く言葉がある 君は「本当」のキリストを知らないんだよ ああ、そうかい 今まで僕が知っていたキリストとは違い、それよりもっと素晴らしいキリスト様がいらっしゃると言うのかい
だから僕はあえて言おう それは君にとってのキリスト様だと そいつは、僕にとってはちっとも素晴らしくなくて、そして救いですらない 聖霊として、語ってくれる神様が本当の神様だと主張されても 僕は、そんな体験をしたことがない
だから、僕は偽信仰かい? そんな馬鹿な はっきりと神の声が聞こえるというのなら、それが男の声か女の声かを言ってみな ボイスチェンジャーで再現してみな
神様の声は心で聞くものだと主張するのなら じゃあ、なぜそれが言語化されるのかを教えておくれよ 言語ではない声がなぜ、君は言語化できるのか そいつを僕に教えておくれ
神様の声を聞いたことがある人はいないとはさすがに僕も言えないよ だけど、君の心の声を神様の声としたことはあるだろう だって、そういうときの神様の声は 絶対聖書どおりにしか喋ってくれなくて とても教科書どおりなのだも
だけど、それを神様の声とし 聖書を絶対の価値観とし 信仰に熱く燃えるものと、ディスカッションを行い この世の塩として、伝道を行なう
そんなことも好きだったのさ だけど、今は嫌いなんだ
そうだ、いつだって過ぎ去ってしまって気づいてしまう
僕はクリスチャン 堂々とそう言いたい だから、そのためにもイエス様を知りたいんだ ようやく最近想像が出来てきたんだ 僕の中のイエス様が
それは、教会学校でならったイエス様でもなく パッションの中のイエス様でもない
だけど、それは僕の救いだ もしそれを偽りというのなら また、新しく探すだけさ
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